いつか叶う夢を見る
ルイスの兄は誰にでも好かれてしまう、いわば天性の人気者だった。
知り合った人はよほどの事情がない限り、ほぼ間違いなく彼のことをすきになる。
優しく賢く物腰穏やかな彼も根本的に人という存在がすきなようで、好意には好意を返すし、たとえ好意を見せられずとも一方的に悪意を向けることもない。
子どもはもちろん大人からも好かれる彼を嫌う人間など、悪意を見せつけて他者を貶める者くらいだろう。
悪意には相応以上の悪意で返す、全く持って聡明な人間がルイスの兄だ。
彼は誰にでも好かれ、愛されることに長けていた。
「けほっ…」
「ルイス、白湯を持ってきたよ。薬は今はないけど、夕方には必ず手に入れてくるからね」
「…ぁりがとう、ございます…兄さん」
起き抜けから寒気のする体に気付かないふりをしていたルイスを咎めたのは兄だった。
彼はいつもならば真っ白いはずのルイスの頬が薄く染まっていることに違和感を覚え、見えている額に手を当ててみれば思った通りにとても熱い。
言い訳をしようとしたルイスが咳き込んだのを苦しそうな表情で見ては背中をさすり、そのままベッドに逆戻りさせて自分の分の毛布すらも掛けて震える体を包んであげた。
そうして持ってきた白湯を手ずから飲ませ、乾いた喉を潤すよう促していく。
「兄さん、ごめんなさい…」
「大丈夫だよ、ルイス。いつも頑張っているから疲れが出たんだね。ゆっくり休んでおいで」
「…は、ぃ」
健康体の兄と違って、ルイスは体が弱かった。
すぐに体調を崩すし、年に何度も熱を出す。
その度にツキンと刺すように頭が痛んで、不快感しかない目眩を自覚してしまうのだ。
所々が痛く重たい体を引きずって動くことなど、もう何度も経験しているのだから慣れてもいいはずなのに、ルイスが兄に不調を隠し通せたことはない。
世話になっている孤児院のシスターにも他の子どもにも気付かれたことはないから、きっと兄の観察力と洞察力が特別鋭いのだろう。
弟としては嬉しいけれど、自分がやるべき仕事を兄に任せきりになってしまうのは心苦しかった。
「じゃあルイス、僕はみんなのご飯を作ってくるから待っていてね。作り終えたらすぐに戻ってくるから」
「…ん…」
「もう少し眠っておくんだよ。おやすみ」
「…おやすみ、なさい」
掠れた声の返事を聞いた彼は心配そうな表情を載せたまま、ルイスの髪を名残惜しそうに一梳きしてから部屋を出た。
シスターの食事作りを手伝うのは子ども達の当番制だ。
火や包丁を扱うことはないけれど、洗い物や食器の用意ならば幼い子どもでも出来る。
今週はルイスの当番だったのに、またも兄に任せることになってしまった。
「……」
終わったら一緒に仕事に行く予定だった。
けれど、それも今日は兄一人で行くことになるのだろう。
そうなると二人分もらえるはずの賃金が一人分になってしまうし、その賃金はきっとルイスの熱を下げる薬を買うために使われてしまうのだ。
放っておけばすぐに下がる類の熱をルイスが出すことはない。
早めに熱を下げて体の負担を軽くしなければ、みるみるうちに体力を消耗して一週間や二週間も熱を燻らせてしまうことを、ルイスと兄はよくよく理解しているのだ。
それでも高価な薬を常備することは出来なくて、後手に出てしまう治療になることを兄はとても悔いていた。
ちゃんと病院に行かせてあげたいと、悲しそうに抱きしめてくれたこともある。
「……兄さん…」
しかし、ルイスにしてみれば薬も病院も何もいらなかった。
ルイスには兄がいればそれで良くて、兄が健康ならそれで良くて、兄が生きているのならばそれが一番良かったのだ。
どうして自分はこんなに体が弱いんだろうと悔しく思うことはあったけれど、幼いながらに何度も体調を崩してきた今となっては、兄ではなく自分の体が弱くて良かったと思うほどだった。
それでも兄の手を煩わせてしまうこと、大切なお金を自分のために使ってしまうことは、今でもやはりルイスの心に楔を打っている。
「ルイスくん、また風邪引いたの?」
「…アン?」
熱を出して気が滅入りながらもうとうとしていたルイスの元にやってきたのは兄ではなく、同じ院で生活している同世代の少女だった。
詳しい年齢は本人すらも分からないけれど、おそらくはルイスと同い年か一つ下だろう。
ルイスはあまり、少女のことがすきではない。
「この前も風邪引いてたよね。どうしてそんなに体が弱いの?」
「……」
そんなの、ルイスが聞きたいくらいだ。
せっかく悪夢を見ながらも眠れそうだったのに、一気に眠気がなくなってしまった。
「そんなんだから親に捨てられちゃうんだよ。お兄ちゃんは優しいから、きっとルイスくんを見捨てられなかったのね」
「……」
どうして親がいないのかなんて、ルイスにだって分からない。
兄に聞いたところで教えてくれないし、親がいなくても兄がいるのならルイスにはそれで十分だ。
「今日のお仕事だってお兄ちゃん一人で行くんでしょう?この前もそうだったもん。お兄ちゃん、ルイスくんの分まで頑張ってて大変だわ」
「……」
兄が大変なことくらい、ルイスが一番理解している。
だから熱を出さないよう気をつけているはずなのに、どうしても体が言うことを聞いてくれないのだ。
「きっとお兄ちゃんだって迷惑に思ってるはずだわ。ルイスくんなんて、いない方がお兄ちゃんのためよ。私がルイスくんの代わりに妹になってあげたいくらい。そしたらいっぱいお手伝いできるのに」
「…!」
「あ、何よ、感じ悪い」
もう良いわ、と言う声の後に扉が閉まる音がする。
少女の存在を自分から引き離すように被った二枚の毛布越しでも、その二つの音は鮮明に聞こえてきたのだから気分が悪い。
ズキズキと痛む頭の中で、少女の声がけたたましく叫んでいる。
ルイスの兄は誰にでも好かれてしまう、天性の人気者だ。
いくつかの孤児院で世話になったけれど、どこの院でもみんな兄をすきになる。
彼より年上の者はまるで弟のように可愛がり、彼より年下の者はまるで兄のように慕っていた。
先ほど訪ねてきたアンも同じ、ルイスの兄をさも自分の兄であるかのように慕っているのだ。
お兄ちゃん、と呼んでは甘えている姿を何度も見てきたし、その度に面白くない気持ちがルイスの心に芽生えていた。
そんなルイスに気付いているのか、兄は決してルイスの前で少女を優先することはない。
いつだってルイスのそばにいてくれて、優しく迎えてくれるのだ。
それを良く思っていないアンはルイスに敵意剥き出しだったけど、兄が構ってくれるのならばルイスは他の誰に何を思われようがどうでも良かった。
だから気にしていないはず、だったのに。
「…迷惑…」
アンは、兄がルイスのことを迷惑に思っていると言った。
ルイスだって体が弱くて役立たずな自分を疎ましく思っているのだから、兄がそう思わないはずもない。
そんな当たり前のことに気付かなかった自分が恥ずかしくて、それ以上に、兄に嫌われているかもしれない現実が恐ろしくて仕方がなかった。
気付かなかったのではない、目を背けていたのだろう。
ルイスにとっての兄は世界の全てだ。
彼を失ったらルイスはきっと生きていけない。
その彼に嫌われて、置いて行かれてしまったら、ルイスはきっと生きていけないのだ。
ちゃんと兄の役に立とうと頑張っているのに、心とは裏腹に体は思うように言うことを聞いてくれないことが苦痛だった。
「…兄さん…」
痛む頭で懸命に考えるけれど、どうしたら良いのか結論は出なかった。
「おはよう、ルイス。熱はもう下がったみたいだね」
「おはようございます、兄さん。おかげさまで、体も軽いです」
「薬が効いて良かった」
「ありがとうございます」
昨日のルイスは朝から夕方まで魘されながらも眠りに就いており、気付いたときには仕事を終えて薬を手に入れた兄がそばにいてくれた。
魘されるルイスを起こそうかどうか悩んでいたところで自然に目が覚めたらしく、白湯とともに薬を飲ませてくれたのだ。
そうして少しだけパン粥を食べてから眠ったルイスはもうすっかり体調が良くなった。
重たい体もスムーズに動かせるし、あれだけ痛かった頭も冴えていて随分と思考がクリアだ。
だからこそ自分がどうするべきか、どうしたいのかがルイスにはよく分かる。
「念のため今日は休んでようか。仕事には僕一人で行ってくるよ」
「いえ兄さん、大丈夫です。無理はしないので僕も一緒に行きます」
「でも」
「大丈夫ですよ。ほら、僕は元気です」
「ルイス」
細い腕を折り曲げたところで力こぶなど出来るはずもなく、それでも懸命な元気アピールが兄の目には可愛らしく映った。
弱々しく眉を下げていた昨日までとは違う表情にも思わず笑ってしまう。
必死な弟の気持ちを汲んだ兄は、それでももう一度だけ念押しするように約束を口にした。
「じゃあ、今日はいつもより休憩を長く取るようにするんだよ。それが仕事に行く条件だ」
「分かりました」
今二人が世話になっている仕事場は院の口利きで紹介された果樹園の手伝いだ。
収穫した果樹を運んだり、水やりや肥料を巻いたりと肉体労働がメインの仕事である。
きっとルイスは頑張りすぎてしまうから、自分が目を光らせていなければ。
彼は聞き分けよく返事をした弟を信用せず、小さな手を引いて今日の仕事へと向かっていった。
そうして一週間、ルイスは労働で得た自分の賃金を兄に預けることなく自分で管理する。
ルイスも何か買いたいものがあるんだね、と兄からさほど怪しまれることがなかったのは幸いだった。
たった一週間分の賃金など大した額ではないけれど、ルイスにしてみれば大きなお金だ。
出来ればもう少し貯めたいところだが、あまり時間をかけたところでいつ自分の体調が自分を裏切るかも分からない。
ちゃり、と音がする小さな巾着を大事に握りしめたルイスは、灯りのない部屋の中で少ない荷物をまとめていく。
「…兄さん、お元気で」
荷物を持ったルイスは隣のベッドで眠る兄の寝顔を見て、しゃがみこんでからその耳元で囁くように声を出す。
兄の分まで病気を引き受けるから、ずっと健康なまま生きてほしい。
唯一の願いを込めた声は小さく震えていて、寝入る兄には届かなかっただろう。
それで良い。
引き止められたら離れられなくなってしまう。
ルイスは立ち上がる途中で兄の頬に柔らかなキスを落としてから、静かな部屋を出て行った。
「…はぁ…寒い」
持ってきた羽織をかぶって歩き慣れた道を行く。
粗末な街灯しかないこの町で子どもが夜遅く出歩くのは危険だと言われていたし、なるべく人目に付かない方が良いだろう。
ルイスは敢えて街灯のある道を避けて、少しばかり足場の悪い道を選んで歩いていく。
夜のうちにここを抜けて、どこか知らない町の孤児院で世話になることが出来れば理想だ。
だがそんなに上手く物事が進むとは思えないから、せめてどこぞの人買いに捕まらなければ上出来だとルイスは考える。
幸いにも雲が晴れていて、月明かりが道を照らしていたからある程度の視野は確保できた。
てくてくと小さな歩幅で歩くルイスは、疲れる前に近くの石に腰掛けて少しだけ休む。
この町は広く、子どもの足で隣町に行くには結構な時間がかかるだろう。
無理に歩き続けて体調を悪くしては後々困るし、どうせ朝までには町を出られるはずだ。
急ぐ必要もないと、ルイスは月明かりだけで薄暗い道を一人歩いていた。
「よぉ少年、こんな夜にどうしたんだ?」
てくてくと順調に歩いていたルイスが足を止めたのは、目の前にいきなり大きな男が現れたからである。
男の向こう側に月があるせいで表情がよく見えない。
けれどこんな夜更けに出歩いている男が良い人間であったことなど、今までの経験上で一度もなかった。
次第に漂ってきたアルコールの匂いに、ルイスは思わず肩を跳ねさせて警戒する。
「えと、家に帰る途中です」
「家?どこだい、送ってやるよ」
「だ、大丈夫です。一人で帰れます」
「まぁまぁ、遠慮すんなよ」
「え、あ」
思わず後ずさるルイスの手を掴んできた男の目はジロジロと上から下まで視線を動かしている。
薄暗い中でも何故だか気味の悪さだけがよく伝わってきて、まるで品定めをしているようなその目が恐ろしかった。
「もう夜も遅いし、今日は俺のとこに来いよ。家には明日送ってやるから」
「い、いいです、大丈夫です」
「遠慮すんなって。困ったときは大人に頼れよ、坊主」
ルイスを見定めていた男は、こりゃ上物だ、と舌舐めずりをした。
言葉の意味は分からなかったけれどあまり良い意味ではないだろうと、そう察したルイスが逃れようと腕を動かすが、所詮子どもの力では男の手などびくともしない。
掴まれた腕が痛かったが、痛い以上に怖くて仕方がなかった。
「お、お金、少しならあります。全部あげるので離してください」
「へぇ、どんだけ持ってんだ?」
「こ、これだけあります。だから離してください」
せっかく貯めたお金だけれど、この男に連れて行かれたくはないと本能が叫んでいるのだから、まずはこの場をやり過ごすのが優先だ。
どうか見逃してほしいと大事に持っていた巾着を渡せば、男は中を確認することもなくちゃりちゃりと音を鳴らしてそのまま懐に仕舞い込んでしまった。
「こんな端金よりお前の方がもっと高く売れそうだ。ま、これは貰っておくがな」
「そんな…!」
せっかく貯めたお金を渡したのに、掴まれた腕は自由にならなかった。
しかもその口ぶりから察するに、この男はルイスをどこかに売るつもりなのだろう。
人買いに捕まらなければ良いと考えていたというのに、まさか初日から最悪のルートが出てきたことに自分の運の悪さを恨んでしまった。
どこに売られるか誰に買われるかも分からないが、そうなるともう奴隷以下の生活しか出来ないだろう。
もしかすると殴られたり蹴られたりして死んでしまうかもしれない。
今までだってろくな暮らしをしていなかったとはいえ、もう少しくらい夢を見ていたかったのに、なんてことだろうか。
「(どうしよう…兄さん、兄さん…!)」
思わず兄の顔を思い浮かべたところで、ルイスは自分に夢など何もないことを思い出した。
そもそも大人になれるとすら思っていない。
体の弱い自分が大人になる未来をルイスは上手く想像できなかったし、どうせ自分はすぐに死んでしまう。
せめて最後の瞬間まで最愛の兄と一緒にいたかったけれど、その兄だっていずれ病弱な自分のことを疎ましく迷惑に思うようになるはずだ。
今は良くても、いつか絶対に自分のことを嫌ってしまう。
そうなったらルイスはきっと耐えられない。
だから先に別れてきたのだと、ルイスは男に引きずられながら振り返る。
いずれ兄に置いて行かれるくらいなら、自分から兄の手を離す方がいくらか心が楽だ。
ルイスの夢は兄に置いてきた。
彼が健康なまま生きていてくれれば、それでルイスの夢は叶うのだ。
ならば自分が人買いに売られようが奴隷になろうが、もうどうでも良いのではないだろうか。
「あん?やっと諦めたか」
「……」
嫌だ嫌だと腕を引いて抵抗していたルイスの重みがなくなったせいか、男が足を止めて振り返る。
見下ろした先には俯く髪の毛だけが見えており、男がルイスの表情を知ることはなかった。
「ま、お前は綺麗な顔してるから良いとこに買われていくだろうよ。どこぞの貴族に買われて可愛がってもらえるといいな」
「……」
てくてくと歩き出したルイスに気を良くしたのか、男は機嫌良く話し出す。
言葉の真意は分からずとも、やはり自分はどこかに売られてしまうのだと理解した。
だが、既にルイスの夢はもう兄に託しているし、どうせ大人になることもない。
勝手にいなくなった自分に兄はきっと怒るだろうけれど、それも最初だけだ。
いつか嫌われる未来がなくなったのだから、ルイスにとっての地獄はもうどこにもない。
それはある種の救いではないだろうか。
俯いていたルイスは滲んでいた視界を払うように手で目元を擦り、鼻を啜って真っ直ぐ前を見た。
「うぁっ!?痛ぇ、なんだ!?」
「え?」
すると、隣にいてルイスの腕を引いていたはずの男が突然前のめりになって転んでしまった。
痛がるように足を押さえている様子が薄暗い中でもよく分かる。
思わず離された手を宙に彷徨わせていると、別の誰かにその手を引かれてそのまま後ろに連れて行かれた。
「ルイスっ、こっち!」
「っえ、に、兄さん!?」
「早く!走って!」
何が起きたのだと大きな瞳を瞬かせてみるが、状況は分からないままだった。
それでも名前を呼ばれた瞬間に、自分の腕を引いているのが誰なのか即座に理解してしまった。
数時間ほど前にルイスが別れを告げたばかりの、最愛の兄だ。
掴まれた腕から感じる温もりも、確かに彼が他の誰でもない兄なのだと教えてくれている。
どうして、と思うよりも先に後ろから聞こえてきた男の「誰だ、逃げるな!」と喚く声に恐怖を思い出して、ルイスは兄に腕を引かれるまま必死に走った。
途中で何度か道を曲がり、ほとんど街灯の灯りも届かない場所に辿り着く。
一応整備はされているらしい高い生垣が、すっぽりと幼い兄弟の姿を覆い隠してくれた。
「に、兄さん」
「シッ」
「…!」
荒い呼吸を整えるよりも先に、何故ここに兄がいるのかを尋ねようとしたルイスの口元を掌で覆う。
兄は耳を澄ませて近くに男が来ていないかを探っているようだ。
それに気付いたルイスも口を閉ざし、呼吸すらなるべく小さくなるように慎重に息を吐いた。
しばらくそうしてやり過ごしていると、もう大丈夫だと判断した兄がようやくルイスの口を解放してくれる。
けれど掴んだままの腕は離さずにいて、ルイスもそれを振り払うことはしなかった。
「ルイス、大丈夫?怪我はないかい?」
「な、ないです。どこも」
「本当に?」
「は、はい」
「良かった…!」
ろくな灯りもないせいで、まるで体当たりされたかのように抱きしめられた。
体の各部分を探るように撫でられ、頭を抱え込む姿勢で抱きしめられると、ルイスの胸は安堵感でいっぱいになる。
つい癖でその背中に腕を回してみると、彼の背中は小さく震えていた。
「ルイスが無事で良かった…!もしルイスに何かあったらどうしようかと思った…!」
「兄さん…」
「良かった、ルイス…!」
どうやら兄は、ルイスの身に何かあったら、というもしもの可能性に恐怖を感じていたらしい。
胸を覆っていた恐怖の中心にぽかんと暖かな感情を流し込まれるような心地がして、ルイスは惚けたように目を見開いた。
本当に優しい人だと思う。
役立たずで体の弱い、弟という繋がりしかないルイスのことを、心から心配してくれているのだから。
「ルイス、こんな夜遅くに一人で出歩いちゃいけないだろう。一人でいるときに知らない人に声をかけられたらすぐに逃げるようにって、何度も教えただろう?」
「…兄さん、どうしてここにいるんですか?」
「どうしてって…」
自分の無事を確認してから流れるように説教をし始めた兄を遮って、ルイスは兄の衣服をきゅうと小さく摘む。
暗いけれど、抱き合うくらいに近ければ互いの表情くらいは見える。
怪訝な顔をしている兄を見て、まだ嫌われていないことを嬉しく思った。
「…ルイスが僕に変なことを言う夢を見たと思ったら、ルイスがどこにもいなかったから。荷物も無くなっていたし、シスターも知らないと言っていたから…嫌な予感がして探していたんだ」
「そう、だったんですか」
「まさか街灯のない道を歩いているとは思わなくて、随分探したんだよ。どうしてあんな場所にいたんだい?あそこは治安が良くないから行ってはいけないと、あれだけ教えていたのに」
「それ、は…」
「うん」
「……」
見れば、兄も少ない荷物を全て持ってきているらしい。
ルイスがどうして院を飛び出してきたのかは分からずとも、状況によっては連れ戻すよりも一緒に町を出た方が良いと判断したのだろう。
そんなふうにしてもらえる価値なんてないのに、兄はいつだってルイスのそばにいてくれようとする。
心配する気持ちも偽りではないだろう。
どちらも嬉しいのに、いつかはこんなにも優しい兄に嫌われてしまうのかもしれない。
そう考えるとやっぱり怖くて、そんな未来など到底生きていけないと思った。
「…兄さんが、僕を嫌いになるのが、怖くて」
「え…?」
「僕はいつも、風邪を引くし、熱を出すし、その度に兄さんが看病してくれて、仕事も一人でやってくれて、僕、何も出来なくて」
「良いんだよ。ルイスだって、体がつらいだろう?僕は元気なんだから、ルイスの分まで頑張れるよ」
「でも、僕、なんの役にも立ってない」
「役に立つとか立たないとか、そういう話じゃないよ」
「だって、アンが」
「アン?アンがどうしたんだい?」
言いたいことはなんとなく伝わるが、核心に近い話が出てこないことを焦れったく思う。
兄は途切れ途切れになったルイスの言葉を辛抱強く聞いて、出てきた名前に眉を寄せた。
可愛い弟は、誰に何を吹き込まれたのだろうか。
「アンが、兄さんもきっと僕を迷惑に思ってるって」
「なっ…」
「体の弱い僕は迷惑しかかけてないから、今はそうじゃなくても、いつか兄さんも僕を嫌いになるって、そう思ったら…怖くて」
「…ルイス」
「…僕も僕のことが嫌いです。すぐ熱を出すし、咳が出るし、長く走れないし、兄さんに守ってばかりで…面倒だなって、自分でも思います。もし、兄さんにもそう思われたらと思うと、怖くなって」
「だから、出て行ったの?」
「兄さんには、僕のことをすきなままでいてほしかったから」
ぽつりと消え入りそうな声が辺りに響いて、すぐに消えてしまった。
兄がした質問の返事になっていないが、ルイスが抱く本心は十分過ぎるほど兄に伝わっている。
人買いに攫われそうになったところを助けられた、という非現実的な状況にまだ付いていけていないのだろう。
未だ落ち込んだように俯くルイスの頭を抱え込みながら、兄は静かに息を吐いた。
可愛い弟の可愛い悩みだけれど、放っておくことも出来ない誤解が生じてしまっている。
「…いつか僕がルイスを嫌う日が来る前に、僕から離れようと思ったの?」
こくり、と小さく頷く気配がした。
極端で、思い込んだらたとえ間違っていようと真っ直ぐに進んでしまうルイスらしいことだと思う。
だが絶対に来ることのない未来を心配して恐怖を感じるのは滑稽だし、そもそもルイスと離れることを兄は絶対に許容できない。
兄はルイスが知る以上に、ルイスに執着しているのだ。
ルイスを嫌うことなどあり得ないし、ルイスが自分から離れることもあり得ない。
けれどどう言葉を尽くしたところで、己自身を嫌うルイスがそれを信じ切ることはないのだろう。
ゆえに無邪気で残酷な少女の言葉をいとも簡単に信じてしまったのだから。
それでも、兄は弟に誤解がなくなるよう伝えなければならない。
「だいすきだよ、ルイス。僕はルイスがだいすきだ。ずっと一緒にいようね、ずっと僕のそばにいて」
「……」
「君を嫌いになる日なんて一生来ない。何があろうと、たとえ地獄に堕ちようと僕はルイスのことがだいすきだよ」
「…兄さん…」
「だいすきだよ、ルイス。だいすき」
ぎゅうと抱き込んだルイスにだけ届くよう甘く囁いた兄の声はきちんと届いていて、しがみついた指の力が強くなる。
きっとこの言葉もルイスの自信には繋がらない。
疑ってはいないのだろうけど、言葉が永遠にはならないことを本能的に知っているのだ。
兄はそれを理解しつつ、ひとまずはこの腕の中にルイスが戻ってきてくれたことに安堵する。
ルイスが自分から逃げようとしても逃すつもりはないし、病弱だろうがなんだろうが絶対ルイスには生きてもらうつもりだ。
それが兄の夢であり生きる目的なのだとルイスは知らないまま、「…怖かった」と鼻を啜りながら呟いた。
(今日はあそこの木の下で寝て、明るくなったら他の町へ行こう)
(でも、兄さんがいなくなったらシスターもみんなも寂しくなりますよ)
(良いんだ。ルイスはもうあそこに帰りたくないんだろう?だったら僕もルイスと一緒に新しいところに行くよ)
(兄さん…)
(次にお世話になるところでは、意地悪言うような子がいないと良いね。ルイスも何かあったら我慢せずに言うんだよ、黙っていなくならないでね)
(…はい)