私的民芸論。
日ごろから民芸の器を使っていて感じるのは、使う喜びというものは単純に美しさや楽しさだけではなくて、ふとした時に安心したり、心が穏やかになったり、襟を正すような気持ちになったりといういくつもの複雑な感覚がいりまじったものであるということです。この感覚をなんと言語化するのか…考える日々が続いたのですが、対話を重ねるなかで気がついたらすっと霧が晴れて、自然と言葉になっていました。その感覚はモノと対峙したときに『対話しているような親しみ』と『気付き』を感じられるかどうかという感覚です。
僕はそんな感覚を感じさせてくれるものが「民藝」と称されるモノの本質であると考えます。それは実りが多いと感じる対話をした時の、高揚や反省や内省といった様々な感覚と、自分にとって心から「よいモノ」と出遭った時に感じる感覚が、同質のものであることに気がついたからです。
対話的になるかならないかの差は、技巧やしつらえといった世間が認知する表面的な価値観ではなく、そのモノと向き合った時に自身が「嘘偽りのない自然な心」で対峙できているかということに左右されます。ここでいう自然というのは、プライベートのような砕けた会話を指しているのではなく、向き合った時に応じた関係性に基づいての「自然な心」です。家族と接する時の、先輩と接する時の、尊敬する方と接する時のその時々の関係性に基づいた「自然な言葉・心構え」です。先入観や思い込みがなくて、そういう自然な姿勢でモノと向き合えた時は驚くほど素直に「対話」ができると思うのです。
大切になのは『討論』と『対話』 が大きく違うということです。世の中の多くは討論の理屈で動いていますが、民藝を考える際は対話の原理を理解することが必須になります。おおまかにふたつを比較すると以下のようになります。
「討論」
・声の大きい人が有利
・違いがあれば責めあう
・最後まで考え方を変えない
・自分の想像の枠で話をする
「対話」・声の大きさは関係ない・お互いの違いの根拠を探求する・最初と最後で考えかたが変わっている・想像を超え、新しい世界を知る
モノの表面に浮かんでいるデザインや用意されたストーリーではなく、そのモノと対峙した自分とモノの間に交わされる言葉が「対話的」であるかどうか、その点がモノ選びにおいて大切なことであり、民芸か否か。といった水掛け論に応える言葉であるように思うのです。
濱田庄司は、モノを買うときは「自分が負けた」と感じた時だけだと言い「モノ買ってくる自分買ってくる」という言葉を残しました。濱田はなにに負けたのでしょう?なにをもって負けたと感じたのでしょう?そこに単純な勝ち負け以上のものを感じます。また河合寛次郎は「驚いている自分に 驚いている自分」と言いました。両者に言葉は同じことを言っているように思います。どちらも「負けた」ということ言いながらも、実に清清しく喜びに満ちた感覚を与えてくれる言葉です。本来の勝ち負けだとしたら、負けたら悔しさや辛さと言った印象になるはずです、しかし二人は違った。これは、二人の言う「負け」が対話の末にたどり着いた新しい感覚であったため「してやられた!」と膝をたたいて喜ぶような感覚になったことを言っているからだと思います。それは「自分という存在と目の前のモノという存在の違いを探求した結果、思いもよらなかった自分に気がつき、目を上げたら最初に対峙した時とは世界がまるで違って見える。超えられないと思い込んでいた自分の壁を軽やかに超越させてくれたモノとの出会ってしまった」その感情を「負けた」と言い表した時に、にやりとしながら負けた負けた!と笑えるのです。その負けは実に清清しいものです、翼が生えたような喜びでしょう。民藝の魅力とはそのような「対話」的な喜び、驚き、感動をモノの内側に見つけたことにあるのです。
柳宗悦は晩年、三度にわたって民藝の定義について書き残しています。そのなかで柳は「民藝と言う言葉に縛られるな」ということを再三書いてます。亡くなる二年前『三度民藝について』のなかで柳はこう言います「民藝になりきったら民藝などという看板を一々ぶら下げる必要はあるまい。そんなものをぶら下げて歩くのは、未だ民藝になりきっていない証拠であろう」という痛烈な言葉を投げかけています。民藝は定義がないから分かりにくい。という話を時折耳にしますが、民藝を生み出した時代、その土壌について学べばそれは必然的であったといえます。民藝は白樺派とよばれる運動のなかから花ひらいたものであり、柳は戦中・戦後という激動の時代を生きた白樺派の同人の中で終生その信念を貫いた数少ない人物です・白樺派の思想の根底にあったのは「個人」の徹底でした。「まず自我を肯定し、世界に対してさえ独立した自我を示す」そのうえで「卓越した個人の良心」が世界を正しい方向へ導く。というのが、白樺派の主張です。現代を生きる我々からしたら当然なことかもしれませんが、軍国主義に染まった日本でこのような「個人」や「自由」を貫くことは、なみのことではありません、お国の為に尽くすのが美徳であるとういう教育を受けた人が世間のほとんどなのです。しかし、白樺派の多くは華族や軍のお偉いさんの家計の産まれで、そういった情勢を少し離れたところから俯瞰する立場にいました。学習院という天皇の通う学校で彼らは、大人達が捻じ曲げ権威として振るっている西洋的価値観に異を唱え、よく学び、東洋と西洋の正しい融合を目指しました。それは、誰もが自由にものを言い合える対話的な社会を目指すと言うことでしたが、多くの庶民は学習院に通えるような富裕層のようには思考するすべを持ちませ。そのような教育も受けていなければ、心の余裕もなかったのです。しかし、当然のことですが、彼らは彼らの生き方しか知りません。ですので終生なにも持たない庶民になりたいと願ったのです。贅沢だと感じるかもしれませんが、庶民も富裕層もどちらに産まれても生きている社会に違和感を感じた瞬間に、それは生き辛い社会になるのに変わりはありません。庶民がお金持ちになって楽な暮らしをしたいと願うように、もって産まれた人はその責務から逃れたいと願うのです。芸能人が海外に住むのと同じようなものです。すくなくとも柳にとっては貴族院の一員として生きて名誉を得ることよりも、在家で信仰に生きた妙好人の生き方が尊いものに映ったのでしょう。
柳が「民藝」という言葉にしばられるなと言った背景には、その言葉という権威にすがりつくのではなく、自身の内なる可能性や善意を信じて対話的に生きて欲しいというメッセージがあります。主観的な人生観は、おおくの自己啓発本に書かれることですが、本に書かれた方法を実践したところで、それを実践するにあたり真に自己を捨て去れなければ真の主体的な取り組みにはなれません。○○したら金持ちになれる、みたいなのを追いかけることと、出家して厳しい修行に耐えることは本質的に異なるのです。しかし、それを言葉で教えるというのは困難なことです。おおくの宗教の言ってることが理解できないのと同様で、○○宗の教えの真髄はこれです。と示されてそれを丸暗記したら良しではないのと同じことで、むしろそんなことで救われるいうお気楽宗教的なものを誰が信じるのかという話になります。わからないことに意味があるともいえます。お金を出したらそれに見合った対価をもらえるという仕組みは、教育の世界では本来通用しません。たとえば、真宗で南無阿弥陀仏と唱えたら救われると説くのは、スマホ片手に適当に何回か波阿弥陀仏と唱えたら救われると言っているのではありません、「スマホをいじるという何気ない日常の仕草のなかにも真理はあるのだ」という学び取ろうとする主体性があればどのような境遇の人でも救われる。という話です。そして、戦後教育の枠組みのなかにその学びの方法について答えてくれる点はほとんどありません。
熱心に「教わる」という受身の態度が必要とされる教育は、考えることよりも覚えることに重きを置いています。学生時代、散々「考えるな覚えろ!」という教育をうけてた我々は、社会に出たとたん「覚えるだけならだれでもできる考えろ!」と言われる。これが現代社会です。これはおかしなことだと思いませんか?でもこのねじれを解く公式は現代の教育のやり方の中にはありません。なぜかと言えば、我々の思考回路は骨の隋まで「AとB の優れたほうを採用する」討論の理屈に縛られているからです。このねじれから脱する為には対話的な思考を採用するほかありません。その学び方を日本は江戸期まで実践していました。たとえば「徒弟制度」です。この制度においての学びとは、むしろ「気付き」と呼ぶのに近い構造です。たとえば…
『毎日言い渡される床磨き、自分は僧侶になりたくて学びに来たのに文字ひとつ教えてもらえない…しかし師のことだからなにかわけがあるはずだ』そう信じて懸命にこなしていたらある日、師が話してくれる仏様の後光の輝きを、自らが吹き清めて鏡のようになった床板の輝きに感じとる。その瞬間、師は日々人々が踏みしめる穢れた床であっても懸命に磨けば光を放つようになる、やはりこれは悟りへの道だったのだと気付き心打たれて、師にそのことを伝え感謝をのべる、師は何も言わずただうなずく。
…この時に師は弟子に具体的なことは何も教えてはいません、他の人からしたら毎日床掃除させてるだけの適当な師に見えているかもしれません。にも関わらず彼のなかで思考の大転換が起こった。教育とは多様な人間の持つ思考の切り替えを促すものにすぎません、手取り足取り教えることは本来学びの初期段階にすぎないのです。さらにこの学びの場合は、師は別にどんな人格者でもかまわないので、極論思い込めばモノ言わぬ木でも川でも近所のおっさんでも目に映るすべてが師となり得ます。先ほど書いたようにスマホをいじることにも救いや真理を見出した瞬間、心から救われたと感じたあふれ出た心。気付きのスイッチに名前を与えたのが「南無阿弥陀仏」です。ということは…濱田と河井の「負けた喜び」と、この「気付き」は同質のもであるということです。そして濱田・河合・柳はこの「気付き」を与えてくれたモノに名前を付けました「民衆的工芸品=民芸」という名前を。
民芸は先ほどの話に出てきた師匠のように、言葉でわかりやすく真理を教えてはくれません。ただ傍にいて我々を見守るだけです。禅語に「啐啄同時」という言葉がありますが(鶏の雛が卵から産まれ出ようとするとき、殻の中から卵の殻をつついて音をたてます。これを「啐」と言います。そのとき、すかさず親鳥が外から殻をついばんで破る、これを「啄」と言います。そしてこの「啐」と「啄」が同時であってはじめて、殻が破れて雛が産まれる)この話は鶏に限らず、師匠と弟子。親と子の関係にも学ぶべき言葉で、民芸のモノの持つ性質とも重なります。民芸が気付きを与えてくれるものである為に、つまり人と対話的な関係を維持する為の条件として、柳宗悦は民藝品について8つの条件を定義したのです。
・実用性:鑑賞の為でなく実用性を備えている。
・無銘性:無名の職人によって作られた、名をあげるための仕事でないこと。
・複数性:民衆の需要に応じるために数多く作れること。
・廉価性:日用品として購入できる安価であること。
・地方性:色、形、模様など土地の暮らしに根ざした性質があること。
・分業性:量産を可能にするため熟練者による共同作業で作られていること。
・伝統性:先人が培ってきた技術や知識の蓄積に乗っ取っていること。
・他力性:個人の力よりも気候風土や伝統などの他力に支えられていること。
この定義は社会の仕組みの中で自身が奢らない為に、自らに課す戒めや教訓の側面があります。柳はこうしろと言いたかったのではなく、ものづくりを通してこのような人間性であれと言いたかったのではないでしょうか。だからこの定義はそっくりそのまま「ローカリズム」の作法としても使うことが出来ます。白樺派がめざした普遍的な良心をもった人間の理想の姿を、ここでもはモノ作りと職人の気質として語っているのです。すべてにおいて重要なのは対話的な手法による主体性を持った個人の存在です。しかし、ただ個人であることを良しとしなかったのは、個人でいることで多くの人が権威や立場といった社会的名声に飲まれてしまうことを避ける為ではないでしょうか。実際にはワンマン社長でもすばらしい人はいますし、優れた良心を持った独裁者は誰からも独裁者とは呼ばれません。しかし、彼らは個人でしたが、けして一人ぼっちではなかったでしょう、会社の従業員や国民に慕われていても「個人」であることにかわりはありません。柳が戒めた「個人作家」とは孤立して天下を独裁的に振舞う一人ぼっちの個人のことであり、河井や濱田のことではありません。実際多くの人が思い描く理想的な個人とは宮沢賢治のアメニモマケズの詩のような人物であるはずです。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニ ワタシハナリタイ
柳はここにこのような貧しく美しい慎ましい暮らしの姿を、名のない職人の作った生活雑器に見出しました。民芸の美しさとは「こういうものに私はなりたい」と賢治の言った存在の美しさや健康さと同じものなのです。
昭和初期を生きた柳は、朝鮮の壷を見て心打たれ、このような美しいものを作る民族を知りたい、愛したいという思いで朝鮮の文化財を保護し美術館を作ります。そののち日本で木喰仏と出逢い、その研究の旅の中で日本の雑器と出逢い民芸運動へと広がっていきます。朝鮮の壷との出逢いも目喰仏との出逢いも、自邸に訪ねてきた時と他人のお宅を尋ねた時の出来事なので、おそらく数時間の出来事だったと思いますが、その刹那にその意味を理解して没頭できるほど、観るものから学び取る姿勢と心構えで生きていたことが伺えます。柳は元から藝術としてモノを蒐集していったのではなく、集めたモノから感じ取って、晩年に仏教思想と融合した民芸の思想観をまとめ上げます。民芸はその時代背景と時間軸をしっかり理解したうえで学ばないと、支離滅裂な話に見えてしまいます。一人の人間が二十代から七十二歳まで展開した理論がまったく変わらないほうが可笑しな話ですし、当時の庶民と現代の詩庶民では生活環境が天と地ほどのひらきがあります。柳等の生きた時代の「民」と我々の考える「民」の違いについて熟考しないと、民芸論はおおきくゆがんでしまうのです。ともかく柳は知識的な蒐集をしたではなく、集めたモノから感じて考える、感性の蒐集をした末に民芸論へと行き着いたのです。完成系を知っていて組み立てるパズルではなく、身近なものを組み合わせて造ったブリコラージュ的な発展でした。そのような柳だからこそ「民藝と言う言葉に縛られるな」ということを言い「民藝になりきったら民藝などという看板を一々ぶら下げる必要はあるまい。そんなものをぶら下げて歩くのは、未だ民藝になりきっていない証拠であろう」というに至ったのです。モノ言わぬモノは人間のように言葉巧みに嘘を語ることできません、ただ静かにこちらを見つめ説いてくるのです「私を美しいとお前は言うが、お前自身はどうなんだ。美しく健康的で威張らず自然でいるのか」そう問いかけてくるのです。
冒頭に民芸の本質は『対話しているような親しみ』と『気付き』を感じられるかと書きました。つまり僕にとって民芸とは、そのモノを通して『理想的な人格』を感じられるかでどうか、と言ってもいいです。その本質が真実どうであるかは関係なく、自分自身がそのモノの内側にそのような気配を感じられるかが重要なのです。自分自身が「このようにありたい」と感じられるものすべてがいうなればすべて「民芸」の部類に入るのです。今僕にとっては、住む家も暮らす地域も言うなれば「暮らしそのものが民芸的な気付きに満ちている」のを感じています。それらはこちらが耳を固めむければいつでも応えてくれます、すべては師であり友であり家族なのです。民芸は個人の気付きからの展開なので、人の数だけその姿があります。僕の民芸とあなたの民芸は違ってもかまわないのです、それをなんと呼んでもかまわないのです。それでも問題ないということを、僕らは器から日々学んでいます。テーブルと言う世界の上で和洋折衷いろいろな料理を載せられた産地も時代もばらばらの器がそれぞれの個性をもちながら調和している姿を毎日食卓で見ているからです。
明治四年築の古民家は最新の科学製品を持ち込んでも、海外の古い道具を並べても違和感を感じさせることはありません。とどのつまり僕らは何事からでも学ぶことができます、民芸はそのきっかけを与えてくれるものです。もの言わぬモノとの対話の作法は、多様性の時代を生きる僕らの対人関係の作法でもあります。あなたはなにを選びますか?あなたが選んだものたちはあなたの襟を正してくれますか?あなに家族とすごすようなぬくもりを与えてくれますか?お金がないと言いながらも食べるものすら作らずにお金で買う世界で僕らに求められているのは「選ぶ」ことです。そして、民芸はその選び方=生き方のロールモデルを示しています。それはステレオタイプ生き方ではなく、多様性に富んだ対話的生き方であるはずです。
「民藝になりきったら民藝などという看板を一々ぶら下げる必要はあるまい。そんなものをぶら下げて歩くのは、未だ民藝になりきっていない証拠であろう」
先日、日本民芸館の杉山学芸部長から「飛騨はいまも民芸の産地ですよ」というお話をお聞きしました。そこでハッとしたのです。おそらく僕らの暮らし方の目指すところは、今風に言えばローカリズムですが、とどのつまりは、柳等が昭和初期に訪ね歩いた山里で見た江戸から変わらない貧しく美しい暮らし方と同質のものです。民芸の産地というのはなにもモノ造りが盛んな所を指すのでなく、柳等が心打たれた日本人の本質的な暮らし方生き方をとどめている地域のことでもあるのだと。住みやすい地方というのは文字もかけないけれど実直に信仰に生きた「妙好人」暮らした地域のように、どのような弱きものでもそのままで生きられることを皆が美しいと思えるような多様性の生かされる地域のことなのかもしれません。
これまでばらばらだと思っていた民芸と地域とここに住む必然性が、また少し点と線で繋がりました。柳もこのような気付きの蒐集を生涯続けていたのではないかとおもいます。柳の生き方はおおくの示唆に富んでいます。柳は孤高の人ではありませんでした。多くの友と理解者と支援者と家族に囲まれて、自らの人生のほとんどを民芸運動に傾けることが出来たのです。「おかげさまの心」「お互い様の心」が民芸運動に携わった多くの同人の姿であったように、現代を生きる民芸運動の賛同者もまた、そのような先人に学び、自分の人生をどう生きるかを選び、出来る範囲で慎ましく生きることと、その思想が如実に現れる住まいと言う民藝館に人を招き、心ばかりのもてなしをすることで、この豊かで暖かな心、日本人の心の原風景ともいえる気付きの灯火を、次の世代へと繋いでいかなければと、切に思います。