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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

🎼フレデリック・ショパン🇵🇱ワルシャワ高等音楽院の枠にはまらなかったフレデリック

2022.10.19 14:29

フレデリック16歳(15歳)1826年の8月の頃、母ユスティナと身体が弱かったフレデリックの療養のため、当時ドイツ領であった(現在ポーランド)ドゥシュニキ・ズドルイの温泉保養地を訪れていた。

フレデリックは療養地のライナーツから、

ワルシャワ高等音楽院の校長であったヨゼフ・エルスナーへ書簡を送った。現存するものは2通)

「新鮮な空気と乳清を丹念に取ったおかげで私の健康は回復しました。

私はワルシャワにいたときとは全く変わってしまったほど回復しました。

私は、美しいシレジアの素晴らしい景色に魅了され、喜びを感じています。

しかし、ライナーツの魅力には代えがたいものがあるのです。それは、良い楽器です。

ここには良いピアノが一台もないなんて、信じられますか?

喜びよりも苦痛を与える楽器しか見たことがありません

幸いなことに、この殉教は長くは続きません。ライナーツから出発する時間が迫っていますから。」フレデリックはエルスナーにライナーツの様子を伝えた。

フレデリックはエルスナーに1822年の12歳の頃から作曲を習っていたが、この年の1826年にライナーツから戻ったフレデリックはいよいよワルシャワ高等音楽院に入学し、エルスナーの下で和声学や対位法などの作曲技法を本格的に習得していった。

ワルシャワ音楽院の一年生の時にフレデリックがエルスナーの指導の下で初めて完成させた作品が『ラ・チ・ダレム変奏曲』(正式名:モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の『お手をどうぞ』による変奏曲 変ロ長調 作品2)であった。翌年1827年に完成させた。

ショパン家はこの年の4月に末娘のエミリアを

結核で亡くしている。フレデリックは、自身の病と妹エミリアの病と別れの悲しみを経験しながらもこのロマンチックな曲を書き上げた。ショパン家はエミリアを亡くした悲しみから逃れるかのようにジェラゾラビラからワルシャワへ居を移した。その2年後には、フレデリックの名前は世に知られるようになった。1829年8月11日フレデリックかウィーン旅行でのケルトナー劇場にて『ラ・チ・ダレム変奏曲』を初演しデビューしたことでフレデリック・ショパンの名は一躍有名になった。フレデリック・ショパンの人気を知ったロベルト・シューマンは、ライバルの出現に心穏やかでなかった。シューマンは自身の評論を掲載し出版していた[レヴュー・ムジケ]の1831年12月7日号で「諸君、天才に脱帽したまえ!私はこのような巨匠に頭を下げる」と称賛したかのように見えたが、フレデリックの作品を1小節ずつ皮肉った解釈を掲載した。フレデリックはこの時のことを次のように語っている。

「数日前、私はカッセルのドイツ人から10ページにわたる批評を受け取ったが、彼はこの曲に対する熱意に満ちていた。長ったらしい前書きの後だ、

彼はこの曲を一小節ずつ分析し、この曲は普通のヴァリエーションではなく、幻想的な絵画あると説明している。

第2変奏では、ドン・ジョヴァンニがレポレロと一緒に走り回ると言い、

第3変奏では、マゼットの怒りが左手に描かれる中、ドン・ジョヴァンニがゼルリーナにキスをし、アダージョの第5小節では、ドン・ジョヴァンニがゼルリーナにD♭でキスをしていると宣言している。昨日、プラター1が彼女のD♭はどこかと聞いてきた、などと!

このドイツ人の想像力には、笑い死にしそうだ。」

このようにフレデリックはヴォイチェホフスキへ宛てた書簡で(1831年12月12日)

シューマンの皮肉に対して皮肉で切り返した。

この曲の主題はモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』第1幕第3場のドン・ジョヴァンニとツェルリーナの二重唱「お手をどうぞ」が基となっている。出版は1830年であった。親友ティトゥス・ヴォイチェホフスキに献呈された。フレデリックはティトゥスに宛てた書簡で次のように伝えた。

私は大胆にもあなたの名前を書きました。私の愛情がそうさせたのであって、あなたがそれを悪く思わないと信じています。」

ティティウスは原稿の表紙に「嬉しく思います」と一筆添えている。二人の友情は生涯続いた。

ラ・チ・ダレム変奏曲

モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の『お手をどうぞ』による変奏曲

変ロ長調 作品2

作曲:フレデリック・ショパン

完成は1827年−1828年、フレデリック・ショパン17歳の意欲作。ワルシャワ高等音楽院校長で作曲家ユゼフ・エルスネルの指導の下、ショパンは完成させた。学校内ではショパンの作品が法則に従っていないと批判があったが、エルスネルは「放っておけ、彼の才能が平凡な人生を歩まないことを決定した。彼は将来、独自の独創性で評価されるようになるであろう」と語ったことからフレデリックが独自の意思で完成させたことが解る。

ショパンの父ニコラの夢であった息子フレデリックをモーツァルトのようにさせたいという期待に応えるかのように、ショパンはモーツァルトのオペラを常に勉強し憧れていた。ショパンがテーマに選んだのは[ドン・ジョヴァンニ]第1幕第3場のドン・ジョヴァンニとツェルリーナの二重唱「お手をどうぞ」の主題であった。このテーマを基にショパンは管弦楽付きのピアノ変奏曲を書いた。

初めてショパンが作曲した管弦楽付き作品となった。1829年8月11日、ウィーンのケルトナー劇場でショパンのピアノ独奏により初演された。出版は翌年1830年であった。ショパンの管弦楽曲は、ピアノ協奏曲の管弦楽部分の未熟さが常々か指摘されてきたが、この曲はピアノ独奏版の出版はショパンが望んだことではない。

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ピアノ演奏は20世紀を代表する巨匠

クラウディオ・アラウ

クラウディオ・アラウ・レオン

南米チリ出身

主にアメリカで活動した

出生地: チリ チヤン

1903年2月6日−1991年6月9日, オーストリア ミュルツツーシュラーク

ベートーヴェンなどドイツの作曲家の作品に定評があるが、ショパンの演奏にも目を見張るものがある。

この演奏はショパン青年の声が聴こえてくるかのような瑞々しいさが伝わってくるようだ。