得体を得たい
新しいことを新しいこととして受け入れるのは、意外に難しいのかもしれません。
知らないものに出会うとき、ワクワクして知ろうとする人も居れば、既に知っているカテゴリーに先入観で当てはめようとする人もいます。
「初めまして、γ(ガンマ)です。」
「Aみたいなものですか?Bみたいな?あぁ、Cなんですね。」
「いえいえ、だからγなんですけど。」
こう書くと笑い話のようですが、知っているカテゴリーにはまらないと安心できないタイプの方もおられる訳で。
そういう気質が作る痛みや病気もあるので、実はなかなか厄介です。
私の施術でいえば、
「整体ですか?エステですか?マッサージですか?」
と訊かれても、ある意味どれもYESでどれもNOです。
カテゴリーはさて置き、「自分に合う手当て」かどうかをまっさらで感じていただきたいなと思います。
得体が知れないものは不気味です。
早いこと得体を得て安心したいのも人情でしょう。
例えば、箱の中に何が入っているか分からないのに、手を入れるのは勇気がいります。
分かってしまえば安心します。
でも、中身が嫌いな生き物だったり害のあるものだったら、抱えて歩くのは気が進みません。
得体の知れない体調不良は不気味です。
症状から手繰って何科かを受診して、妙な話、病名がつくと安心したりします。
病名がついたから治った訳ではないのに、「これで解決してもらえる」ような気持ちになったりします。
ステップとしては有用なことかもしれません。
でも、お医者さんや薬や様々なサポートを受けながら、治っていくのは自分自身なのだということを忘れないようにしたいものです。
え‐たい【得体】 〘名〙 物事の本質、実態。正体。物事の本当のところ。
語源としては、
(1)「偽体(ていたらく)」の音読「いたい・えてい」が転じたとする説
(2)平安朝時代には僧侶の着ている衣で宗派や格式がわかったことから、「衣体(えたい)」が転じた説
があるそうです。
物事の本質は自分が体感して得ていくもの、だから得体、ふとそんなことを考えました。
得体を得たと思って終わりではなく、その先が深まるような過ごし方をしたいと思います。