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Okinawa 沖縄 #2 Day 208 (02/09/22) 西原町 (8) Kakeboku & Sakihara Hamlets 掛保久/崎原集落

2022.09.02 14:25

西原町 掛保久集落 (かけぼく、カキブク)


西原町 崎原屋取集落 (さきはら、サチバル)



昨日、一昨日と台風11号で二日とも強風と雨だったが、今朝起きると快晴、天気予報は終日雨。台風は南下して今夜から北上して沖縄本島に再接近するので、今日はその合間になる。明日からは連日雨予報なので、思い切って今日は集落訪問をする事にした。いずれ雨が降りだすだろうから、近場の集落を選ぶ。西原町の各集落でまだ見ていない文化財を巡る事にした。我謝、与那城、嘉手刈、小橋川、掛保久などまだ見ていない文化時を巡った。訪問記は集落訪問がほぼ終わった所から書いていく。今日は掛保久集落の訪問記とする。この掛保久集落は今日で三回目の訪問となった。



西原町 掛保久集落 (かけぼく、カキブク)

掛保久は、西原平野の北東部の微高地に立地する小村落で、北側はかつての崎原屋取に、西側は内間に、南側は嘉手苅に隣接し、東側には肥沃な農耕地が広がっている。

現在の公民館周辺にアシビナー、殿、火神、旧家の屋敷跡などがあり、部落発祥の地だといわれている。古くは、掛保久は内間村に包含されており、絵図郷村帳「かけほこ村」と表記されている。琉球千草之巻には、掛保久村の世立始めとして「西原幸地より来る呉屋大主 在所根所」とあり、地祖始めとして「西原嘉手苅より来る古波津子 在所座神」とある。これとは別に地元の伝承によると、掛保久村の創始家は當山家、玉城家、城間家の三家だといわれる。その中で最も古い創始家は當山家で、180年ほど前に絶家したといわれ、公民館前の屋敷跡地には、御神家のみが残っている。その子孫は、大里村真境名、古堅、与那原町与那原、与原などに多く、その子孫は、節日・折目には宗家跡地にある御神家を拝んでいるという。玉城家の宗家は約300年前、中城間切屋宜村から掛保久に移住し、その後、城間家が北谷間切から移って来たという。この三旧家は殿を腰当 (クサティ) にして、城間家、當山家、玉城家と並列に屋敷を構えていた。それらの旧家のあった殿付近から、次第に西側の親川一帯に分家筋が住居を構えるように集落が拡張していった。王府時代には、西原間切の地頭代は、掛福親雲上を名乗り、地頭代を勤めた家は掛福 (カキブク) の屋号で呼ばれた。王府時代、貢租の負担が厳しく、掛保久村はあまり発展しなかったといわれる。

掛保久集落は上の森から下る斜面に形成されている。

明治大正時代には掛保久内には屋取集落として崎原が含まれていた。当時は掛保久全体で70戸で、その内、崎原屋取は30戸程であった。昭和初期に崎原屋取は掛保久から分離独立して行政区となっていた。1977年 (昭和52年)、行政区の改編が行われ、掛保久は、嘉手苅や小那覇とともに第八区に編入された。ただ、それまの字の行政地域のまま、自治は行われており、新しくできた区の区長はそれまでの字の自治会との連絡の役割を果たしていた。この様に二重の地域行政システムになっている。これと同じ様に二重システムは南城市も採用しているが、南城市でも自治は旧来の字単位で行われている。沖縄では昔からの集落単位の結束が強い。


掛保久の人口は1879年 (明治13年) では217人、1903年 (明治36年) には279人まで増えたがそれ以降は1980年代までは人口は増えていない。それ以降、2000年頃に480人程まで増え、横ばい状態となったが、2010年からまた人口が増えている。2020年に20% (約100人) も増加しているので、新しく集合住宅がつくられたのか、区割り変更がされたのか? この年に隣村の内間では62人の人口減少があるので、区画が変更されたのではと思う。

西原町の他の地域との比較では、戦前から戦後にかけては人口が少ない地域だった。現在では、ランクは少し上がったが、やはり人口は少ないグループに属している。人口の伸び率も西原町平均の伸び率の半分程になっている。


沖縄戦では、掛保久では63人 (46%)、崎原では59人 (40%) もの犠牲者が出ている。西原町は比較的犠牲者が多い地域だ。この地域は、米軍が北から首里に向けて侵攻してきた途中で、丘陵高台に陣どった日本軍と米軍との激戦が行われた。集落で犠牲になった人もいるだろうが、南部に日本軍と共に逃げていった人たちの犠牲は非常に多かった。

戦後、外地からの引揚者で、掛保久集落が再建された。終戦直後の一時期、集落後方の丘上に米軍施設が建設され、元集落には帰還できず、他の集落での生活を余儀なくされていた。


琉球国由来記に記載されている拝所

  • 御嶽: なし
  • 殿: 袖花之殿 (ソデバナヌトゥン、殿、ビジル)
  • 拝所: 掛保久火神 (火ヌ神)

掛保久は百姓平民村落なので、他部落同様に様々な年中行事が行われていた。掛保久は水の豊富な集落で、農耕地は水田に適しており稲作が行われていた。年中行事にも稲作に関連する物が多かったそうだ。現在では村としての祭祀行事はそのほとんど残っていない。この様に伝統的な門中の影響が少ないことから、町外からの転入者も多くなってきて、特に復帰後は急速に都市化が進み、他市町村からの転入も多くなっている。地元民との関係も良好という。旧藩時代には旧7月17日に綱引を行っていたが、廃藩置県以降は廃止され、小那覇の七年マールの大綱引に村加勢 (ムラガシー) として参加するようになった。 掛保久と仲伊保は雌綱 (北組)、嘉手苅と伊保之浜は雄綱 (南組)をそれぞれ加勢していた。聖地として琉球国由来記に、掛保久火神、ソデバナノ殿の記載がある。琉球王統時代は内間ノロによって袖花之殿で稲二祭が行われていた。


掛保久集落訪問ログ



掛保久公民館 (2020年6月2日 訪問)

公民館は殿 (トゥン) の敷地跡、遊び庭 (アシビナー) 跡地に掛保久字有地 (サーターヤーや上ヌ森、チマサーなど) の売却、弁務官資金、 住民の寄付を財源として、1972年に建てられた。ここには殿、火之神が当時の地図に記載されている。公民館の入り口を入ったところにそれぞれの祠がある。


殿 (トゥン、袖花殿 ソデバナートゥン) 

向かって左側の祠は地元の人からは殿 (トゥン) と呼ばれ、琉球国由来記に記載されている袖花殿 (ソデバナートゥン) とされる。資料によってはこの祠をビジルとしている。稲二祭 (ウマチー) のときには、その殿に花米九合完、五水六合完、神酒半完を掛保久大屋子より、神酒半完を地元からそれぞれ出し、内間ヌルによって祭祀がとり行われた。


火ヌ神

現在の公民館の南隣に當山家の宗家の屋敷があったといわれる。この屋敷内に琉球国由来記に記載ある掛保久火神があったのだが、當山家宗家が180年程前に絶家 (チネードーリ) したため、集落住民が大正期に公民館敷地の一角に移し拝んでいる。これが公民館にある向かって右側の祠の拝所だ。


當山家御神屋

公民館の前はかつては、掛保久集落の村立てを行った當山家の屋敷があった場所。當山家は、180年ほど前に絶家となった。村立てを行った當山家の宗家は、かつては掛保久當山とよばれ、屋敷は260坪もある豪農で、内間の田場 (ターバ)、翁長の神田 (カミダ)、我謝の大田良 (ウフダラ) などの豪農らと金持勝負 (ウェーキスーブ) をしたといわれる。 屋敷は以前は空き地となっており、そこに写真右下の神屋が立てられていたが、現在は屋敷跡地には、マンションが建ち、その隣に神屋が置かれている。當山家の子孫は、大里村真境名、古堅、与那原町与那原、与原などに多く、その子孫は、節日・折目には宗家跡地にある御神家を拝んでいるという。


拝井泉 (2022年9月20日 訪問)

當山家屋敷跡に拝井泉と記載された井戸がある。公民館を囲む塀を掘り込んで残されている。拝所となっている。詳細については書かれていないのだが、當山家と関わりがある井戸だろう。と資料にあったので、再度ここを訪れると、井戸跡はあったのだが、資料の写真 (右下) とは少し変わったいる。拝所としての造りは取り払われ、口が金網で塞がれていた。この敷地内に新しく建てられた當山家御神屋に合祀されたのかもしれない。


井戸跡

當山家御神屋の横の坂道の上と下にも井戸跡があった。掛保久集落は水の豊富だった。今でも、多くの個人宅に井戸が残っている。


後間毛 (クシマモー) の拝所 (2020年6月2日、2022年8月27日 再訪)

掛保久と小那覇との字界付近に小高い森があり、そこは後間毛 (クシマモー) と呼ばれる。この地はかつては小那覇村の所有のあったクシマモーと呼ばれる丘で、後に掛保久の一部になった。小那覇はこのクシマモーを腰当 (クサティ 聖域) に小さな集落を形成していた。小那覇の古島にあたる。小那覇は、その後、しだいに南側の平坦地、現在の小那覇公民館周辺に住居を構えるようになっていった。

後間毛 (クシマモー) の丘の上に拝所がある。掛保久・小那覇の村民両方で拝まれている。言伝によると、本来その森は小那覇村の所有であったが、酒一升で掛保久村に払い下げられたといわれる。現在は掛保久後間毛都市緑地になっており、そこの丘の頂上には小さな祠があって、才口 (セーグチ) 門中の宗家のある久志江間へのウトゥーシ (御通し) の拝所となっている。戦前そこで出征兵士の武運長久を祈願したといわれる。何故か祠が二つある。資料にはそれぞれの拝所が何を祀っているのかは書かれていないのだが、この後間毛は小那覇と掛保久の二つの集落で拝まれているので、それぞれの集落の拝所ではないだろうか?上の方にあるコンクリート製の祠は小那覇後間毛拝所と書かれている。赤瓦の祠が掛保久集落の拝所だろう。

クシマモーの上からは、小那覇の街、奥には南城市の丘陵が臨める。


親川 (ウェーガー) (2020年5月24日 訪問)

親川 (ウェーガー) は掛保久部落のほぼ中央にあり、掘り込みの共同井戸として利用され、部落の拝井泉。この井泉は水量が豊富で、1904年 (明治37年) の大旱魃の時にも水が枯れることはなく、近隣部落から水をもらいにつめかけたという。親川は沖縄戦で破壊され、埋れたままに放置されていたが、1966年 (昭和41年) に改修し、拝所が造られ、今でも部落の拝井泉として崇めらている。これと同じ造りの井泉が、与那原町にもあり、その井泉も同じく親川とよばれ、掛保久親川と一対であるといわれている。


チンガーバル (2022年9月20日 訪問)

掛保久集落の北東の上ヌ森付近に、チンガーバルとよばれる墓地地帯がある。戦後、そこは一世帯あたり八坪ほどの墓地を割り当て、登記し、個人所有になった。 現在そこには字民らの墓、50~60基が建っている。




西原町 崎原屋取集落 (さきはら、サチバル)

崎原 (サチバル) は掛保久の小字尻原と内間の小字宇須久美多原、三方山に囲われた狭隘な地に、 崎原山を腰当て (クサティ) に南側斜面に20戸ほどが点在する屋取集落だった。今からおよそ260年前の第二次屋取期 (尚温王時代 1795年以降 ~ 廃藩置県 1875年) に新田家がこの地に移り住んだのに始まる。約220年前、首里池端から仲伊保に田舎下りしていた崎原一門の宗家である大屋崎原 (ウフヤーサチバル) が新田家と姻戚関係を結び、仲伊保からこの地に移り住んでいる。その後、崎原一門は繁栄し、集落全体の七割近くを占めるようになり、崎原小屋取 (サチバルグヮーヤードゥ イ) と呼ばれるようになったといわれる。近隣部落の人々は崎原屋取を宇須久美多屋取 (ウシクンダ) とも呼んでいる。

昭和初期 (昭和7年?) には、崎原も他の屋取集落と同様に一行政区として内間と掛保久から独立した。

戦時中、集落住民は小那覇飛行場の建設や陣地構築などに徴用された。沖縄戦当時には、集落近くの山野 (米軍はSkyline Ridgeと呼んでいた) に陣地が築かれ、日本軍がむらに駐屯するようになった。沖縄戦では、崎原一帯でも日米両軍の凄まじい戦闘が展開されていた。

戦後、崎原一帯は米軍により軍需物資の集積所やモータープールとして接収されたために、住民は村には帰還できず他部落での生活を余儀なくされ、昭和23年に与那城の現在の国道329号線沿いに新部落を作り、多くの崎原出身者が移り住むようになり、字崎原として行政区の一つとして運用していた。その後、元の崎原集落が解放された後も、そこは交通の便が悪く人里離れた場所だったので、戻る人がいなかった。

昭和52年の行政区改編により崎原は行政区からは消滅してしまった。



上之御井(イーヌカー)、新田之御井 (2022年9月20日 訪問)

三方を丘陵に囲まれていた崎原小屋取集落の北側丘陵は沖縄戦で米軍から Skyline Ridge と呼ばれていた。激戦地となった場所だ。

崎原は屋取集落だったので、他の百姓平民村落のようには御嶽や殿、火ヌ神などの聖地はなかった。丘陵斜面の上部に上之御井(イーヌカー) が拝所となっている。

この場所は崎原屋取集落の約260年前にこの地に移り住んで村立てを行った新田家の元屋敷跡にあたり、井戸は、布積みの井壁をもつ円形の掘り抜き方式で、中を覗くと現在でも水が溜まっている。この井戸は崎原集落の産井 (ウブガー) として崇められており、崎原唯一の祭祀行事だった毎年旧暦2月2の腰憩い (クスッキー) には、崎原出身者が多数が集まり祭祀が行われている。上之御井の隣にも井戸がある。新田家と婚姻関係を結んだ崎原家がこの新田家の屋敷を買い取り、ここの住居を構えた。新田家はこの場所から少し西に新しく屋敷を移した。その新屋敷内に造ったといわれるのがこの新田之御井だった。昭和55年から59年にかけて行われた崎原地区の農地整備の際に、この上之御井の隣に移転され、形式保存されている。中を覗いても、やはり砂利だけだった。



今日 (2002年9月2日) はお昼過ぎまでは快晴だったのだが、突如、空に黒い雲が広がり大雨となった。台風11号の影響だろう。風が強く雲がかなりの勢いで移動している。あの黒い雲が過ぎ去るまで、雨宿りで休憩をする。1時間ほどで、雨があがった。集落訪問を再開するが、時々雨が降ってくる。台風が近づいているので、今日は少し早めに切り上げることとした。明日からは本格的に強風、豪雨となる予定で4∼5日は雨で集落巡りはできないだろう。



参考資料

  • 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
  • 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
  • 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
  • 西原町 歴史文化基本構想