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登志夫が小学生時代に受けた戦時教育⑥/昭和10-11年の登志夫の日記より

2022.09.10 12:00

左は6年生の登志夫。右は5年生の日記帳です。この頃の登志夫の生活を日記から抜粋します。

昭和10年4月6日の日記(5年生)。

「今日は満州国皇帝が東京へいらっしゃるのだ。夕刊が2つ来て、両方とも満州国皇帝のことで、大体うづまっている。」

4月8日

学校で満州国の国歌をレコードで聞き、明日は観兵式、大向小学校からは500人が観に行けると書いています。

4月9日

「観兵式は、皇帝陛下は天皇陛下とご一緒。分列式のタンク隊はみごと、兵隊さんは規律正しい。」

5月25日

楠木正成(七生報国の教え)の600年祭!

5月27日

海軍記念日の式。30年前の東郷大将の話。

6月26日

防空演習…。寝てしまった。

7月3日

代々木の虫捕りで兵隊さんに会う

7月3日

防空演習…。まさに実戦、こんなことが日常的に行われていたとは。

11月22日

新なめ祭のお話。

12月17日

元寇(神風が吹く)の勉強。

昭和11年2月4日

「久保田万太郎さん来宅。僕が豆をまいた…。」節分ですね。

2月7日

お父さんとまぼろし城主をつくる。坪内士行さん来宅。

この年、2月26日(前述)226事件おきる。

4月27日。登志夫は6年生。

賤ヶ嶽の7本槍を調べる。

28日

綴り方で、物語を自分で作り発表。みんな上手だ。

5月1日

お父さんがラジオで日本の演劇の話。至誠日に国旗と君が代。

8月11日

ベルリンオリンピック。前畑が200メートル平泳ぎで、ゲネンゲルを1秒差で破り日本女子初の金メダル。前畑頑張れのNHKの放送で日本中が熱狂。

8月15日

地理と花火とオリンピック。


昭和10年頃から、美濃部達吉の天皇機関説が攻撃され、政府が「国体」がおろそかになると、第一、第二次の「国体明微声明」を出していました。

続いて、226事件や政党と軍部の対立、マルクス主義の台頭などが顕著になり、国論をまとめるために昭和12年5月、文部省編纂の『国体の本義』が発行されました。

①天皇に絶対随順、奉仕することが国民の唯一の生きる道である。

②天皇の御ために身命を捧げる事は、国民としての真生命を発揚することである。

③人間を個人の対等な人格関係と見るのは、日本の国体になじまない。


教育勅語より踏み込んで、はっきりと「天皇の御ために身命を捧げる事」と言っています。

そしてこの本の中に大伴家持の歌があげられ、第二の国歌といわれた曲が、信時潔により作曲されました。「海行かば」です。


「海行かば 水漬くかばね 山行かば 草むすかばね大皇(おおきみ)の辺にこそ死なめ かへりみは せじ」


7月には日中戦争が始まり、8月、国民精神総動員実施要綱が決まり、ますます軍国的な暗い時代に入っていきます。この年登志夫は大向小学校を卒業して、中学生になり、修身の時間にこの「国体の本義」を勉強することになります。


40年後の登志夫の随筆です。

「心に太陽を持て」

書庫の一隅に少々古びたやや大型の本がある。「日本国民文庫」中の山本有三著「心に太陽を持て」。

初めて読んだのは昭和10年11月刊の初版本だった。

それも家ではなく、学校で読んだのである。渋谷の大向小学校5年生の時だ。担任のK先生は若く理想に燃えた人で、当時すでに名門校とされたため、受験向きの詰め込み主義だったのに反対し、グループごとに課題を与え、空の知識よりも勉強の仕方や物事の値打ちを自分で悟らせると言う方針。週に1、2度の読書の時間もそのひとこまであった。大抵、1番できるKという子と私が読み手になったが、その中にこの本があったのである。 


心に太陽を持て

あらしが吹こうが

雪が降ろうが

天には雲

地には争いが絶えなかろうが

心に太陽を持て

そうすりゃ

何が来ようと平気じゃないか!

どんな暗い日だって

それが明るくしてくれる!


この句で始まるテーマ詩以下、長短約20編の史話逸話。皆この著者らしい人道主義的な内容だが、記憶に鮮やかなのは「パナマ運河物語」である。密林と岩山と黄熱病という自然の脅威とたたかい、何度もの失敗にめげず運河を貫通させるまでの苦難と愛憎の物語は、子供心にも感動的であった。人間の価値は人を押しのけて名や金の1番になることではなく、人類みんなのために共に生きることだということと、不撓(とう)不屈の魂ということを、この物語から私たちは教えられた。

あれから40年…、細部は忘れたが大筋と主題だけは「心に太陽を持て」という言葉の爽やかな響きとともに私の心にとどまり、戦中戦後、事あるごとに私を励ましてくれた。

「ひどく病弱の子であったが病弱コンプレックスを緩和するのに役立ったのは、綴り方と朗読あるいはお話であった。学校でも作文は時々選ばれたり、名作物語の朗読や即興の話などをよくやらされたが、家でも父母をつかまえて無理矢理朗読を聞かせたりした。「赤い蝋燭と人魚」が好きだった。

父も若い頃信州の実母や糸女に、よく講談を読んで聞かせたというから遺伝もあるかもしれぬ。父は私にも幼いころ、風呂に入りながら「松山鏡」や「雷電為右衛門」、「安寿と厨子王」などの話をしてくれた。」

「病弱故に自然に身につかざるを得なかった多少の意地と忍と容の気持ちが、今日まで事あるごとに私を支えてくれた面はなくもないようだ。とすれば、塞翁が馬と言うべきであろう。」(「酒は道連れ」)


太平洋戦争前後の中学から高校大学の話は次の機会に。