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野崎島の集落跡(北松小値賀町) 神道の聖地に隠れ住む 険しい地形で苦難の生活

2023.01.10 06:40

もしかして野崎島はカルスト台地では?

https://nordot.app/317932252234138721 【野崎島の集落跡(北松小値賀町) 神道の聖地に隠れ住む 険しい地形で苦難の生活】より

 空と海と山が織りなす雄大な風景の中に、れんが造りの小さな旧野首教会がぽつんとたたずんでいる。素晴らしい眺めに心が洗われる思いがする。

 野崎島は小値賀島の東に浮かぶ南北約6キロ、東西約1キロの細長い島だ。1960年代初めには野崎、野首、舟森と三つの集落があり、670人が住んでいたが、現在は廃校を改装した宿泊施設「野崎島自然学塾村」の管理人が籍をおくだけで、ほぼ無人島といっていい。島には約400頭のニホンジカが生息しており、至る所で出くわす。

 野崎島は古来、神道の聖地だった。島北部の山頂付近には、五島列島一円の信仰を集める「沖ノ神嶋(こうじま)神社」が鎮座する。社の歴史は非常に古い。祭神は神功皇后の三韓征討に従った「一速王(いちはやおう)」で、飛鳥時代の704年、小値賀島にある「地ノ神嶋神社」と分けて祭られたという。

 原生林をはじめ豊かな自然が残る野崎島は全域が西海国立公園に含まれている。2011年には「小値賀諸島の文化的景観」として国の重要文化的景観にも選定された。

段々畑の跡の中に旧野首教会がたたずむ「野崎島の集落跡」=小値賀町野崎郷

 ■氏子を装う

 野崎島には元々、東部の野崎集落に沖ノ神嶋神社の神官や氏子が住んでいた。江戸幕府の禁教令の下、ひそかにキリスト教への信仰を続けていた「潜伏キリシタン」が移住してきたのは19世紀以降のことだ。彼らは長崎・外海(そとめ)地区から五島列島や天草などを経て、さらなる安住の地を求めてやって来た。

 彼らは島中央部の野首と南端の舟森で集落を営んだ。野首は18世紀初め、捕鯨で財を成した小値賀島の豪商小田家がいったん開発したことがあり、そこに五島の久賀島や三井楽から来た潜伏キリシタンが居付いた。舟森は未開地で、小値賀の船問屋田口徳平治が1845年ごろに外海で捕まっていた潜伏キリシタンの親子を助け、住まわせたとされる。

 移住者は険しい斜面を切り開き、やせた土地でイモや麦などを栽培し、海岸で海藻を採って暮らした。彼らはキリスト教への信仰を隠すために沖ノ神嶋神社の氏子になった。信仰生活の規範になる教会暦をつかさどる「帳方(ちょうかた)」と、洗礼を授ける「水方(みずかた)」という役職者がいて、組織的に信仰を続けた。北松小値賀町教委が実施した舟森墓地の発掘調査では、禁教期とみられる墓から、「西方浄土」の西に背を向けて埋葬された潜伏キリシタンと思われる人骨が出土している。

 長崎の大浦天主堂で外国人宣教師と浦上村の潜伏キリシタンが対面した「信徒発見」が起きた翌年の1866年、野首の水方ら4人は同天主堂を訪ね、以後宣教師の指導下に入った。明治初めには野首と舟森の信徒約50人が平戸藩に捕まり、投獄されている。

急斜面を開拓した跡が残る舟森集落跡=小値賀町野崎郷

 ■相次ぎ廃村

 殊に貧しい生活が「来世の救い」をこいねがう思いを強くしたのだろう。野首と舟森の人々はあつい信仰心を培っていた。キリスト教信仰が解禁されてから9年後の1882年には両集落につつましい木造教会が建っている。

 さらに野首の信徒は共同生活をして食費を切り詰め、キビナゴ漁で資金を蓄えて、1908年に野首教会を建てた。教会建築の名手、鉄川与助が初めて手掛けたれんが造りの教会堂で、貴重な建築物だ。県有形文化財に指定されており、現在は小値賀町が管理している。

 昭和30年代以降の高度経済成長期になると、離島の細々とした半農半漁の生活は立ちゆかなくなった。1966年に舟森が、5年後には野首が相次いで廃村になる。2001年には最後まで残っていた野崎の神職も島を去った。

 自然学塾村塾長の前田博嗣さん(56)の案内で、野首から舟森を目指した。山道を歩き1時間余。目の前に荒涼とした廃村が現れた。海から一気にせり上がる急斜面に家屋や段々畑の跡が残る。教会跡には瓦とがれきが散乱していた。

 この風景こそが、厳しい生活に耐えて信仰を守った潜伏キリシタンの労苦を物語る証人だ。「昔の人の苦労はわれわれが軽々しく語れることではないが…」。前田さんの声が、廃村に打ち寄せる波の音にかき消えた。

 ◎メモ

 佐世保港から高速船で小値賀港まで1時間25分。同港隣の笛吹港から町営船で野崎港まで35分。同港から旧野首教会まで徒歩30分。同教会から舟森集落跡まで徒歩約1時間半。野崎港近くの「神官屋敷」は一般公開されている。渡航連絡とガイド(有料)の問い合わせは、おぢかアイランドツーリズム協会(電0959・56・2646)。

http://www.ishimaru.ne.jp/travelogue/nozakijima.html 【五島巡礼①~野崎島】より

野崎島

[野崎島]

野崎島は、五島・小値賀島の東隣にある、南北6㎞、東西1.6㎞の細長い島です。僕がこの島を訪ねようと思ったのは、この島の「旧野首教会」が世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のリストに入っていたからでした。

これまで「世界遺産候補」というのを意識して教会巡りをしたことはなかったのですが、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のリストを見ると、行ったことがないのは「五島」にある四つの教会だけであることに気づきました。だったら、五島の教会巡りをしようと思い立ち、「五島巡礼」の手帳を手に入れたのですが、実際に計画すると、「離島」の壁は思った以上に高い。まずは、なんといっても時間の壁です。

今回の目的地は、野崎島「旧野首教会」と舟森の集落跡だったのですが、最初に計画したときは、「旧野首教会」の修復工事と重なってあえなく断念。今回は、野崎島に渡る町営船の運休日と重なり、一泊では無理ということになってしまいました。ただ、これを外すとまたいつになるかわからないので、結局二泊三日の日程で決行。たった3Kmほどしか離れていない二箇所を巡るのに二泊三日。効率優先の思考回路ができあがっている身からすると、これまで考えたこともないような日程です。それが結果的に、これまで経験したこともない感動を得る旅になるのですが、今回はその報告です。

野崎港に入る直前、野首教会堂が僅かの時間見える

[野崎港に入る直前、野首教会堂が僅かの時間見える]

野崎集落の廃屋

[野崎集落の廃屋]

殻つきピーナッツを二つに割って伏せた姿を想像してください。中央部のくびれを境に、大きくは南北ふたつの山でできているような縦に細長い島が野崎島です。くびれた部分だけが緩やかな斜面で、古より人の営みがあった地域です。それ以外は、島全体が殆ど切り立った断崖に覆われています。

小値賀島の笛吹港から出航する一日二便の町営船「はまゆう」は「六島」を経由した後、野崎島の北部を回りこみ、島の東側中部「野崎」に着きます。

野崎島に着いて最初に目にするのは、船着場周辺の廃屋です。ここは、歴史的に最も古い集落で、島にあった三つの集落のうち、一番最後まで人が残っていた集落でした。他の二つの集落跡には、今は廃屋すら残っていません。

野崎島自然学塾村。廃校となった町立小中学校の校庭や、昭和36年建築の木造校舎を利用している

[野崎島自然学塾村。廃校となった町立小中学校の校庭や、昭和36年建築の木造校舎を利用している]

野崎集落は、大半が沖ノ神島(おきのこうじま)社の氏子で、神道でつながった集落でした。船着場の傍にも鳥居と石段があり、登ると狛犬が「阿」「吽」の形で座しています。ただ、社は台風に倒れ、潰された屋根が無残な姿を曝したままです。

平成13年、野崎島最後の住民であった神官家族が離村することで、野崎島は事実上の無人島になりました。「事実上」と断るのは、廃校となった中学校の跡地を「自然学塾村」として活用、交流人口を増やすために、ひとりだけ住民票をこの島に残しているからです。この一人がいなくなると、町営船の運航もできなくなってしまいます。

教会の下の畑にいる野性鹿。鹿が草を食べるので芝刈り機をかけたようになっている

[教会の下の畑にいる野性鹿。鹿が草を食べるので芝刈り機をかけたようになっている]

この島では、いつも鹿に見張られているような気がする

[この島では、いつも鹿に見張られているような気がする]

住民票をおくのはひとりですが、この島には古来から多くの別の住民がいます。400頭とも言われる野生のシカです。人に媚びることのない純正の野生鹿で、島の草だけを食べていますから、精悍というより痩せています。

歩いていると、道の先のほうにひょっこり姿を現し、こちらの様子を伺っています。しかし、決して近寄ってきたりすることはありません。鹿と人間との付き合いは相当に長いはずですが、互いに一定の距離をおく良い関係を保っているようです。

野首港の近くにあるキリシタン墓地

[野首港の近くにあるキリシタン墓地]

野首海岸

[野首海岸]

鹿の遠慮がちな出迎えを受けながら細い道を辿っていくと、「野首」集落に至ります。野首集落は江戸時代、弾圧から逃れるために外海のキリシタンが移り住んで拓いた土地です。かつて住民すべてがキリシタンだった大村藩(外海も大村藩です)は、弾圧が始まると厳しい監視の目に曝されることになります。また、藩の経済的な理由によって、子供はひとりと、まるでどこぞの国のような命令が下され、子供の間引きが強要されていました。それはキリシタンの宗旨に背くことでしたから、平戸藩領であるこの野崎島に逃れてきたのです。

坂道を登ると、教会堂が見えてくる

[坂道を登ると、教会堂が見えてくる]

同じ潜伏キリシタンが拓いた、もうひとつの集落が舟森(瀬戸脇)です。急峻な斜面を切り拓いてできた集落で、集落としては最も険しい所にあります。島の南端に位置し、中通島北端とは僅か600mほどしか離れていません。

野首集落から舟森に至る山道をキリシタン街道と呼びます。この島で世界遺産候補になっているのは、野首教会堂と、この舟森に至るまでの街道の景観です。今回の旅の目的も、そこにありました。島の北部には、野崎の人達が信仰した「沖ノ神嶋(おきのこうじま)神社」とそのご神体である王位石(おえいし)がありますが、これは対岸の小値賀・地ノ神島神社から双眼鏡で眺めただけで、間近に見ることはできませんでした。高さ24mもある巨石が鳥居のように組み合わさったもので、人が作ったものか、自然に出来たものなの今なお謎に包まれているそうです。

澄み透ったコバルトブルーの海

[澄み透ったコバルトブルーの海]

そんな野崎島を訪ねたのはまだ夏の日差しが残る9月の中旬、拠点とした自然学塾村のグランドでは、キャンプをしている20名くらいの短大生の声が響いていました。

http://sazanami217.blog.fc2.com/blog-entry-952.html 【王位石・知られざる秘境に立つ未知の巨石文化】より

2019/12/20 16:00

日本の古代文化の中で、巨石文化や磐座信仰に関わる最大の謎は、長崎県の野崎島にそびえる王位石(おえいし)だと思っています。

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とりわけ重要だと思うことは、日本国内における神社やご神体や磐座等の概念だけでは、この巨石の本質は解明されないと思う点です。

つまり、古代東アジア全体、あるいは東南アジアをも含めたグローバルな視点が必要だと思うのです。

ここには、いつか再訪したいと思っていましたが、健康上の理由でハードな登山行為ができなくなりました。

そのため、乏しいながらも手持ちの史料を公開しますので、興味を持った方にぜひ謎の解明を目指していただければと勝手に願う次第です。

  ☆

さて、野崎島と王位石について、まったくご存じない方のために、あらためて概略を述べます。

野崎島は、長崎県北松浦郡小値賀町、五島列島の北東部に位置する事実上の無人島です。

南北6㎞、東西1.6㎞で南北に細長く、中央部のわずかな平地に港がありますが、標高350mの平岳をはじめ、ほとんどが山地です。

隠れキリシタンに関係する教会なども残っており、荒涼とした火山性の赤い台地は観光的にも魅力的です。

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ところが、交通アクセスがかなり不便なのです。

佐世保港等からまずは小値賀島(おぢかしま)へ渡り、そこからもう一度野崎島へ行く船に乗るのですが、それが一日たった二便。

野崎島には廃校の宿泊施設がありますが、食料は持ち込みです。

このため多くの方は

小値賀港発 07:25 → 野崎港着  08:00

野崎港発  15:10 → 小値賀港着 15:30

という時刻に合わせ、日帰りで行動されています。

  ☆

では、問題の王位石を説明します。

野崎島の最北端近くに、704年(大宝4年)創建、五島で最も古い神社である沖ノ神島神社(おきのこうじまじんじゃ)があります。

美しくもワイルドな風景を味わいながら歩けば、往復で五時間。

普通は「おぢかアイランドツーリズム」に道案内を頼みます。

案内の詳細は以下。

野崎島・王位石トレッキングツアーについて

催行期間:10月~6月(夏季休止)

予約期限:7日前まで

予約電話番号:0959-56-2646(おぢかアイランドツーリズム)

予約受付時間:9:00~18:00(年末年始を除き無休)

最小催行人数:2人

料金:1人あたり5,000円

(なお乗船する「はまゆう」の運賃が大人500円)

私たち夫婦は、山慣れしていることと、細かい地図とGPSを準備していたため、案内なしで歩きました。

そしてこれが、沖ノ神島神社です。

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その背後に、巨大な王位石がありました。

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そしてここからが、資料になります。

『小値賀島史の概要』という下の冊子は、平成12年11月30日に小値賀町教育委員会が発行したものです。

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この冊子の11ページには、野崎島・野首遺跡の解説と、地図が記されています。

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この地図は、下が五島列島と野崎島、中央が対馬、上が釜山など朝鮮半島南部を含みます。

なぜ朝鮮半島が入ってくるかというと、縄文時代前期の遺物をはじめ、総数30万点にも及ぶ出土物の中に、

「朝鮮半島から直接もたらされた新石器時代早期の隆起紋土器深鉢破片が5点、同じく韓国東南海岸の凡方貝塚や煙台島貝塚、えい仙洞貝塚などから出土している細沈線文深鉢破片が3点、同前貝塚からの出土がよく知られている赤色顔料塗彩の細沈線文壺破片2点の計10点」

が含まれているというのです。

当然ながら縄文時代に大韓民国も日本国もなく、朝鮮半島東南海岸と対馬、そして野崎島周辺は、縄文丸木舟などで盛んに交流がある同じ文化圏だった可能性があるわけです。

中世史の権威であった網野善彦先生は、かつてこう語っておられます。

「全羅南道、済州島、肥後をふくむ西北九州のあいだには、古くから海で結ばれた地域があり、そこには全く性格を同じくするといってもよい海民たちの、活動が展開されていたとみることができると思います。」

「済州島には倭語を解する人々があり、西北九州には本州と違う言葉で語り、むこうの言葉を理解する人がいるという状況があった。つまりこれらの人々の間では言葉も共通していたのではないかと思うのです。」

つまり韓国でも日本でも中国でもない、ある意味グローバルな文化圏が、縄文時代にはすでに存在したのでしょう。

王位石を考える時、まずはこのことを念頭に置く必要があると思います。