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創造の源から

勝手に解説シリーズ(11)「それは在る ある御方と探求者の対話」ヘルメス・J・シャンプ著

2022.09.04 11:00

※勝手に解説シリーズでは、本を読んでみて、独自の解説をつけています。




こんにちは、しゅんすけです。





今回、気になった文章は


13ページ13行目にある


「私が悟れば -ここでは悟りという言葉を使うが- 全ての人が悟るのだ」

「その時、私は存在しないし、あなたもまた存在しないことが理解される」


「あなたがいなければ、私という必要性もないのだから」

「また、悟りさえ存在しないことも明確に理解される」



です。




ソレから分離してると思い込む私。




ソレは全てに満ちいます。


あらゆる、空間に、時間に。




今、呼吸している。


そこにも、ソレ、が満ちています。




本来はわかれていない。


全て繋がっている。




けれど、「私」が存在するとき、ソレとのつながりがなくなったと思っています。


「私の」お金、とか。


「私の」家族、とか。


「私の」人生、とか。


ソレから分離していると思い込む時だけ - 本当は分離してないのだけれど、思い込むことはできる -、「私」が存在します。





私が存在するから、私以外も存在している。




例えば。


「私のチョコレート」がある思ったとする。



この時「私」は存在しています。



きっと、誰かがほしいと言った時、好きなら「私のチョコレート」あげるよ、と言えます。




「私」がいるから、チョコレートをあげる「私以外」が存在します。




「あげる」も「もらう」も「私(と私以外)」が存在しているからできます。




「私」の存在がない時は、「あげる」も「もらう」もできない。



例えば、散歩してて、カフェのテーブルにチョコレートがあったとすれば、「私のチョコレート」という認識は生まれない。



この時「私」は存在していない。



ただ、チョコレートがあるだけだ。



「私」は時と場合によって、存在したり、存在しなかったりする。



ただ、それだけだ。





「私の」悟りなどない。悟る「私」はいない。





悟りは私がするもの、ではない。



「私がする」の思っている「私が」が、時と場合によって存在したり、存在しなかったりする幻だと知ることが悟りだからだ。




私が目指す悟り、ではない。


「私が目指す」と思っている「私が」が幻だからだ。


「私」が存在しない時「悟り」はない。


「私」と同様、「悟り」もまた幻なのだ。





「私」が存在しない時


悟る私もいない、悟っていない私もいない。


すべてが繋がっている。


すべてがソレそのもの。