五島列島 野崎島 無人島にある沖ノ神嶋神社へガイドさんと一緒いこう!
https://ameblo.jp/tomo-chupi/entry-12448592305.html 【五島列島 野崎島 無人島にある沖ノ神嶋神社へガイドさんと一緒いこう!その1】より
(前略)
すぐ見えている石垣は・・・野崎集落跡。もともとの野崎島の原住民、沖ノ神嶋神社の神官さん、氏子さんたちが暮らしていた所。
のちに、潜伏キリシタンの人達が、この場所以外の離れた所に集落を築いたそうだよ。
今は、どちらの集落も人は住んでいなくってあるガイドさんが、住民票を一人野崎島においているそうです。管理のため。(笑)
野崎島は、宿泊施設の管理の方がいるだけで、今は無人島なの~。
・・・っとそこに!とっても立派なお屋敷が。ここは、沖ノ神嶋神社神官屋敷跡
この野崎島の親、ともいえる神官さんが住んでいたお屋敷が、今は博物館になっていま~す。早速・・・わぁ、お庭にも祠がある~。!!と~っても広い~~。
沖ノ神嶋神社神官屋敷
神嶋神社は西暦七〇四(慶雲元)年、元来1つの社であったものを、小値賀島の近浦と野崎島の北端の山中に分けて祀ったと伝わる。
小値賀島の社を地ノ神嶋神社、,野崎島の社を沖ノ神嶋神社と称した。
祭神は、鴨一速王(かものいちはやのみこ 神嶋大明神)主祭神とし、十城別王(ときわけのみこ 志自岐大明神)、七郎氏廣王(しちろううじひろのみこ 七郎宮)の三神を祀る。
『前方村郷土誌』によると、『一速王は別名を稚武といい、日本武尊の皇子である。神宮皇后の三韓征伐に従い、戦功によって鴨の一字を賜り鴨一速王と称した。
一速王は凱旋して値賀浦(小値貿島近浦港)に入港し,この地に宮を営んだのが神島宮の起源である』とし、地ノ神嶋神社を起源としているが、実際は定かではない。
沖ノ神嶋神社は平戸松浦家の歴代の当主からの崇敬も厚く、記録では文禄五(一五九六)年、二十六代目当主鎮信による神殿の再建や寛永ニ(一六二五)年二十八代目当主隆信による氷代八石の寄進が確認できる。
その後、明治七(一八七四)年八月には郷社に列せられた。
郷社となってからは、旧暦の八月三日から十八日の期間、お山様参りと称し、小値賀島内集落毎に船団を仕立てての参拝がなされた。
神官は江戸時代より以前には野崎源七、加茂次右衛門の名が見えるが、江戸時代初期には岩坪家となった。
『沖ノ神嶋神社縁起書』によると、岩坪家は京都より下向したものと伝わる。
野崎集落はこの神官家を親家と称し、沖ノ神嶋神社の氏子が暮らす集落であった。
集落の起源は定かではないが、社が分祀された八世紀代まで遡ると考えられている。
沖ノ神嶋神社神官屋敷は,神官を務めた岩坪家が代々暮した屋敷である。
現存する建物は明治二十九(一八九六)年に他の場所から移築されてきにものである。
建物の構造は木造二階建て、瓦葺である。主屋の建築面積は二一九·ニ一㎡である。
東側には遙拝所を併設する。
悪天候等の理由で沖ノ神嶋神社に直接参拝できない場合に使用された拝み所である。
本来は神祗殿と称された、神祗信仰に基づく拝み所であったものが、明治期に入り、沖ノ神嶋神社の拝み所に変容したものと考えられている。
主屋は内玄関を入リ、ニワがある。ニワより東側に向かい,アガリグチ,ツギノマ、ザシキという接客の間が続く。ザシキは特別な場所で、来賓のもてなしや神道の祭事の際に使用されたが、特に後者の使用方法は遥拝所と一体をなす神官屋敷特有のものである。
なお来賓は住民が日常的に使用する内玄関ではなく、表玄関から招き入れられた。
アガりグチから北に向かい、3畳間、4,5畳間 チャノマ、ダイドコロ、ナンドが配される。
これらは屋敷に暮らす家族のための空間である。
チャノマでは、炉を囲みながら食事がとられた。
ナンドは、別名寝間とも呼ばれ、名の通り家族が眠るための空間である。
チャノマでは、炉を囲みながら食事がとられた。
ナンドは別名寝間とも呼ばれ、名の通り家族が眠る場所であった。
以上のように、遥拝所が併設された点や来賓用の表玄関や座敷に見られるよう、立派な接客空間が配された点が、沖ノ神嶋神社神官屋敷がもつ文化財建造物としての特徴である。
中も、広く立派、そして神様がいっぱい。
荒神様
民間信仰における竈を守る神様である。ここからニワ(土間)を介して、北側に竈門が置かれたダイドコロがある。神棚・・・というより、神社ですなぁ。(笑)
興奮して、写真撮り忘れちゃったんだけど奥の部屋には、右側に神棚、左側に仏壇がおいてあったの。
一度キリシタンの取り締まりが厳しくなった時に野崎島は神道の島なんだけど全員仏教徒にならなきゃいけなかった時代があるんですって。
そんなわけで、仏壇もあるそうです。
龍石
沖ノ神嶋神社のお宮の脇にある、龍の形をした石
むかし盗人がお宮の宝剣を船に乗せて盗み出そうとしたが、船はぐるぐると廻るだけで海岸を離れない。
恐れをなした盗人は宝剣を海に投げ入れたが、剣はそのまま龍となってお宮に登り、石となったと伝わる。
それから毎年大晦日の夜には、海中から龍が現れ、沖ノ神嶋神社へ登っていく姿が見られるといい、これを龍燈と呼ぶ。
・・・っということは、沖ノ神嶋神社には、龍神様もおられるのね~。
明治初期に描かれた沖ノ神嶋神社と王位石
沖ノ神嶋神社と王位石(おえいし)
慶雲元(704)年にもともと一つであった社を小値賀島前方郷と野崎島に分けて祀ったと伝わる。
現存する拝殿、社殿は戦後新築されたものである
社殿の背部には高さ24mの2列の石柱に、畳8畳ほどのテーブル石を載せる奇石、王位石が聳える。いにしえより王位石そのものが信仰の対象であったと考えられている。
王位石は、写真をみてもこの形なの。神殿、鳥居みたいで、神秘的・・・。
沖ノ神嶋神社の疱瘡退散
遥拝所の厨子の中に祀られた御守護である。岩坪源治が神社から疱瘡退散のお祓いを受けたことがわかる。
三韓征伐で戦功を挙げた鴨一速王は、海の向こうの外敵を撃退する力があると信じられていた。疱瘡もまさに日本を脅かす外敵そのものであった。
江戸期の記録によると、遠くは熊本県天草地方まで神官が出向き疱瘡退散のお祓いをしていたことがわかっている。というわけで厄払い、疫病退散のご神徳が高い神社だねっ。
遥拝所の内部
手前にある彩色は墨書きより文政6(1823)年の製作であることがわかっている
奥にある厨子は年代は不明ながら、大阪で作られたものである
漆塗りで仕上げ、一部に金箔が貼られるなど、手の込んだ作りである
神鏡は江戸期のものである
ザシキ(拝殿)
客間としての機能にあわせ、本屋敷のザシキは遥拝所とセットを成し、沖ノ神嶋神社を拝む、拝殿としての性格があった。
時化などで海岸参道から参拝できない氏子は、このザシキから遥拝所を通じて沖ノ神嶋神社を拝んだ。
神祇殿(じんぎでん)
本来は神祗信仰に基づく拝み所であったものが、明治期に入り、沖ノ神嶋神社の拝み所(遥拝所)に変容したものと考えられている。
内部の美しい彩色は文政六年(一八二三)に作られたものである。
これは、そのまま家にあるってだけで神社そのもの、という感じ。(笑)
・・・っというわけでガイドさんの話、由緒をあわせて簡単にまとめると~~
沖ノ神嶋神社は、1300年ほど前、五島で最初にたてられた神社で神社が建てられる以前から、地元の人が巨石信仰をしていたと伝えられているそうなの。
野崎島の沖ノ神嶋神社は、小値賀島の地ノ神嶋神社と一対であるといわれており、祀られたのは704年ごろ。
この頃は、遣唐使の航路が南の方にかわった時期と重なるために、その航海安全を祈願して、五島列島の各地に神社が建てられた時代。
ご祭神は、全部で三柱の神様。
弟 神嶋大明神、こと一速王 その兄 志自岐大明神こと、十城別王 このお二人は、日本武尊の御子神といわれています。
それから、七朗大権現こと、七朗氏廣 お二人の付添人、従事者です。
主祭神の一速王は、三韓征伐の際に、功績をあげたことで天皇から、一速王は、鴨の名字をいただいて、鴨一速王(かものいちはやお)とも呼ばれているそう。
野崎島によそから入ってくる、疱瘡などを祓う神様として 伝染病、厄払い、病魔を祓い、あと、漁師さんもお参りしたので、大漁祈願などが有名。
島にとって大切な神様で、小値賀島の人達は、野崎島の海側にある鳥居まで小舟をこいでいってそこから上陸して、直登してお参りしたんですって。
現在大事なものは、小値賀島の六所神社に遷されたそうです。
再び、集落をぬけていきます~。
建物は崩壊しているのがほとんどだけどこの一つ一つ積んだ石垣ってずっと残っているんだね。
で~は~、ここから登山、がんばっていきますぞぉ~っ