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Okinawa 沖縄 #2 Day 209 (07/09/22) 西原町 (9) Gaja Hamlet 我謝集落

2022.09.07 12:01

西原町 我謝集落 (がじゃ、ガージャ)


台風11号で、連日強風、豪雨が続いていた。やっと台風は過ぎ去ったのだが、昨日は雨。今日は久しぶりの晴天で、気温も28度、風もあり、サイクリング日和だ。雨が降るかも知れないが、降っても、それほど強い雨にはならないだろう。雨が降れば、切り上げ帰宅する。濡れる時間が少ない方がいいので、中城村ではなく、見落としていた文化財がある西原町の我謝集落を訪れる。この我謝集落には2020年5月28日に訪れている。今日はもう少しじっくりと見たいので再訪と見落としていた文化財を訪れる。と天気が続いていれば、与那城などにも足を延ばしたい。



西原町 我謝集落 (がじゃ、ガージャ)

我謝は、西原町南端の運玉森の麓に位置し、南側は与那原町に、東側は十二区に、北側は与那城 に、西側は安室にそれぞれ隣接している。我謝は我謝毛を腰当 (クサティ) に、南東側傾斜面に集落が立地している。我謝入口からアムルタカムイ間の町道を挟むように、民家が帯状に立ち並んでいる。集落の南東側 にサトウキビ畑が広がり、中城湾に面している。我謝入口付近の国道329号線沿いや海岸沿いには、多くの事業所や工場が立地している。おもろさうしには「我謝の浦の・・・」とあり、かつては、 海岸線が集落近くまで伸びていたことが窺える。

我謝部落の発祥地は黄金毛 (クガニムイ)、又は我謝毛 [森] (ガージャモー、 ガージャムイ) と呼ばれる丘陵地の上ヌ嶽付近だといわれる。ここを腰当 (クサティー) として我謝の原型集落が形成されるようになった。 当初、そこに居を構えたのは我謝の国元 (クニムトゥ) である上神座 (ウィーカンジャ) の宗家 (ムートゥヤー) だといわれている。琉球千草之巻によると、我謝村の世立始めは「中城泊村より来る我謝子、在所 根所」とあり、地組始めとして「上与那原より来る我謝、在所 座神」とある。 

1908年 (明治41年)、我謝 (現在の兼久一番地) に沖縄で最初の近代的製糖工場が竣工し、工場付近には、各地からの労働者らが集まり住むようになった。 会社ヌ前と呼ばれる屋取集落で、後に兼久として独立行政区になった。その他にも、我謝の屋取として、我謝入口付近に名幸屋取があった。


沖縄戦では、我謝からも多くの犠牲者が出ている。集落住民の55.3%にあたる599人が戦没され、一家全滅が全世帯数の約30%に当たる68戸もあった。沖縄全体の戦没率は25%、西原町では47%なので、我謝集落の戦没率はかなり高い。終戦後、生き残った人々は、知念や胡差、石川、宜野座などに分散収容されていた。

1946年 (昭和21年) 4月、西原村の中では、この我謝地域のみに居住許可がおり、各地に分散収容されていた西原村民らが、県農業試験場跡や製糖工場跡 (現在は兼久) などを宅地として割当てられ居住するようになった。その後、各集落への居住許可もおり、我謝から元の集落へ帰還するようになったが、東部海岸地域の仲伊保、伊保之浜、崎原、小那覇などの住民らは、土地が返還されず我謝での生活を継続していた。


明治時代から戦前まではほぼ同じ人口だったが、沖縄戦で住民の半分を失った。それ以降は急増している。2000年以降は人口増加は鈍化し、そして減少に転じており減少傾向は続いている。

西原町の他の地域との比較では、明治時代はそこそこ人口の多い地域だったが、戦後帰還がかなわない他の地域の住民が我謝に住みはじめその一部は定住したことで戦後は最も人口の多い行政区となった。2000年を過ぎると人口は減少に転じ、現在では三番目に人口の多い地域になっている。人口の伸び率もそれを表しており2000年までは西原町の平均の伸び率とほぼ同じだったが、それ以降は平均を下回り、近年は更に鈍化し減少傾向になっている。


我謝は歴史の古い部落で、他集落に比べて拝所や拝井泉などの聖地が数多く残っている。琉球国由来記には我謝の祭祀処として以下の拝所が記載されている。

  • 御嶽: 上之嶽 (神名: マヤリ君ガナシノ御イベ、消滅)、謝名越嶽 (神名 アムトセジコムトセジノ御イベ)、惠帽子井嶽 (神名: 君が御水主ガ御水ノ御イベ)
  • 殿: なし
  • 拝所:我謝巫火神 (下之殿)、我謝根所火神 (中之殿)、我謝里主所火神 (上之殿)
  • 拝井: マカーガー、フジュンガー (与那城集落の拝井)、ウクレーガー、 カニクガー (消滅)

上記の拝所では我謝ノロによって祭祀がとり行われた。

我謝には、稲作に関連する伝統的な年中行事が、かなり継承されている。 とくに、我謝を代表する中行事は400年以上の伝統を誇る綱曳で、村の五穀豊饒・無病息災を祈る神事として行われていた。戦前まで、綱引には旧藩時代、首里王府から下賜された「グヘイローバタ (御拝領旗)」が使われてい た。我謝綱の由来について言い伝えがある。

大昔、我謝の根屋である上神座家に二人の兄弟がいた。 その当時、我謝一帯の田畑はすべて神座腹の所有地であった。兄弟は我謝を二分し、兄はリンゴー与 (くみ)、弟 はウフカー与 (くみ) として農作業を競いあった。兄弟はそれぞれ、自分の与が優っているとして、互いに譲らなかった。 兄が「作柄の良い薬で作った綱は強いはずだ。収穫後の藁で大きな綱を作り、二手に分かれ綱を引きあい勝敗を 「決めよう」と言って、リンゴー与とウフカー与でもって綱引を行うようになった。
我謝大綱曳は毎年、旧暦6月25日 (または次の日曜日) に行われている。我謝では、現在でも綱曳は上割 (上区、リンゴー) と下割 (下区、ウフカー) で組分けされている。


我謝集落訪問ログ



国道329号線から我謝集落に向かう。


土帝君・恵比寿の拝所

国道329号線の我謝交差点近くに2基の祠の拝所があったのだが、今日立ち寄ると無くなっていた。ここには土帝君と恵比寿の拝所があったのだが、何回か場所が変わっており、遂になくなっていた。我謝公民館で聞いてみてもわからないそうだ。そこで紹介された近所のおばあに聞いてもわからないという。この場所はかつては与那城集落があった場所なので、我謝の拝所ではなく、与那城の拝所かも知れない。


フジュンガー

同じく、国道329号線から我謝集落に入った小径にフジュンガーがある。産井 (ウブガー) とも呼ばれている。現在は水は枯れているが、長方形の石や自然礫で井戸口が囲まれているのが残っている。 我謝集落にあるのだが、この周辺は古くは与那城の古島があったので与那城集落での村御願で拝まれている。


井戸跡

集落内の細い路地に井戸跡があった。


西原児童館、美咲区公民館

西原町には旧来の字の区割りとは別に32の行政区がある。この場所に美咲区の公民館が置かれている。番地は我謝になり、旧農事試験場跡地に美咲区公民館とその前に西原児童館が建てられている。美咲区の人口は2021年末で911人 (377戸) で一時期は1000人を超えていたが、ここ数年は人口は減少傾向にある。


発動機屋跡 (ハツドーキヤー)

現在の西原児童館の後方、同じく農事試験場跡には、石油発動機式サーターヤー (ハツドーキヤー) が集落のはずれに設けられていた。現在は住宅地になっている。


井戸跡

公民館に向かう道沿いに井戸跡があった。この井戸についての情報は見つからず。


上神謝 (ウィーカンジャ) の神屋

集落民家の中に我謝部落の創始家である根屋 (ニーヤー) の上神座 (ウィーカンジャ) の屋敷がありそこに神屋が置かれている。かつては、上神座の屋敷は、現在の我謝守護神の付近にあり、その屋敷内に上ヌ殿が置かれていた。その後、上神座の宗家は、何回か屋敷を移転している。 上ヌ殿から中ヌ殿、更に下ヌ殿に移り、その後、兼久ガーに移り、現在地へと転々としている。集落の移動とともにしだいに低地部に移っている。その移動の原因はいろいろ考えられるが、風水 (フンシー) と集落の発展が主な要因だと考えられている。神座腹一門は平良姓を名乗り、我謝部落で最も多い姓になる。昔、神座腹から神座前後 (カンジャメークシー) という強力な武士が出たという。その後、神座腹一門は沖縄各地に分散していった。


村屋跡

我謝公民館の前にかつての村屋があった。今はその面影はなく民家になっている。


我謝公民館 (サーターヤー跡)

かつての村屋の前の道路を挟んだ所に、村屋が移動し公民館が建てられた。公民館の前の広場は我謝児童公園になっている。この場所には戦前は上ヌワリー、西ヌワリー、中ヌワリー、 ヤガマー4ヶ所の在来式のサーターヤーが置かれていた。公民館の中には我謝大綱曳で使われる旗頭の旗竿の先端に付けるトゥール― (灯籠) が保管されていた。 


新井 (ミーガー)

公民館の南側の畑の中に新井 (ミーガー) がある。大きな石灰岩の下から水が湧いている。湧泉はその石灰岩から相方積みで長方形に積み回されている井戸で、石灰岩前庭部を囲うように井戸口が造られ、井戸口の前庭部の洗い場状の部分は広めに造られている共同井戸だった。水量は豊富で現在も利用されており、亀が泳いでいた。この周辺は我謝集落が新島から移動してきた場所で、現在地に移動してくる前の集落があった場所になる。


イチヌカー

公民館から我謝の合祀拝所に向かう途中に、井戸跡があった。イチヌカーと呼ばれる井戸だ。詳細は不明。


夜学校跡

1899~1903 年 (明治32~36年) にかけて行われた土地整理で、旧来の農民保有地に私的所有権を認め、定率金納地租に改めることになった事から、この土地所有の立場の変化で部落民間の確執が激しくなり、我謝村でも、カヤモー (茅場) 収入の件から250戸余のウフムラ (大村) と 40戸余のクムラ (小村) に分かれ確執し対立するようになった。土地整理は、農地の私的所有権を確立する一方、農民層の分解をいっそう促進し、土地を集積するものと、土地を喪失する者を生じさせた。土地を失った者は、本土への出稼ぎや海外への移民を余儀なくされた。我謝村からも約60世帯を越す多くの移民が出た。当時の間切長らがウフムラとクムラ の融和策についてさまざまな手だてを尽くしたが、あまり効果はなかった。1907年 (明治40年)、間切長や小学校長らの勧めで村人らの親睦、融和をはかるために我謝村青年夜学会が開設された。若者に期待していたのだ。これは他の集落でも同じで、青年会が村の結束を強める役割をはたしていた。その後、村人らは一致協力してさまざまな行事にあたるようになった。 その一つに綱引があった。戦前、 我謝の綱引は村内最大の行事で、隣の与那原大綱引は我謝綱を使ったといわれる。


宮平 (ナーデーラ) 門中神屋

夜学校跡の下側に宮平門中の神屋が置かれている。宮平門中は我謝集落の五つの主要な門中の一つで、第二尚氏初代王尚円の康永と伝わっている。ちなみに我謝五大門中は神座腹 (カンジャバラ)、我勢頭腹 (ガーシードゥバラ)、 読谷山腹 (ユンタンジャバラ)、宮平腹(ナーデーラバラ)、伊佐腹(イサバラ) 。その他その隣にも神屋があった。両方とも空き地に建てられている。かつては屋敷だったのだろうが、絶家になったのか、移住したのか? 我謝集落中心地には空き地が目立っていた。


知念井小 (チニンカーグヮー) (2020年5月28日 訪問)

ユブシガーに向かう途中にあった井戸。知念井小 (チニンカーグヮー) と呼ばれているが、詳細は不明。


烏帽子井 (ユブシガー、エボシガー) (2020年5月28日 訪問)

運玉森の麓に位置している長方形の掘り込み井戸で琉球国由来記に天女伝説が記されている。その中でこの井戸の名前の由来が記されており、「神名、君が御水主が御水ノ御イベ此エボシガワハ 昔、 古波津村二古波津爾也ト、芸者在り。彼畠中二、泉有テ、常二茅ノ鳥帽子ヲ覆置キ、耕耘ノ砌、用タリ。 此故ニ、エボシ川ト稱スル也。」(昔、古波津̪爾也という人がその泉を自分の鳥帽子で覆い、農耕に用いたのに因んで、そこをヱボシガワと称するようになった。) とある。闘得大君加志らによって毎年二・三月に祭祀が行なわれたことが球陽に記されている。 この井戸の井壁は野面積みで積まれている。現在は整備され、屋根が造られている。小波津門中が拝みを行なっている。この井戸からは、酒が湧き出たという伝承もある。

この場所にも天女羽衣の伝説が伝わっているらしい。それは南風原町宮城集落の御宿井の羽衣伝説や宜野湾市真志喜集落の森之川の羽衣伝説と全く同じだ。

西原間切我謝村に、烏帽子井があります。 古波津爾也 (こはつにや) が、ある日のこと、天女が水浴みずあびしているのを見ました。天女の飛衣 (とびんす) を稲束 (いなづか) の中に隠かくしたため、それから後、天女と夫婦になりました。 ある日のこと、子どもが歌う子守唄から、飛衣のありかを知った天女は、二人の子どもを両脇に抱かかえて、天高く舞上がると、飛去さっていきました。 なお、その井泉のそばにある嶽を祀まつって「烏帽子井の嶽」と呼ぶようになりました。



マカーガー

我謝古島の付近に古い拝井泉のマカーガーが残っている。掘り込みの半円形の石積みの井戸で、井壁は野面積みで、現在は、コンクリート製の屋根が造られている。我謝に住んでいたマカ―という人物が、海から石を運んできて、井戸の石積みをしたことから、マカーガーと呼ばれるようになったそうだ。この辺りから北東の地域は我謝集落の古島で、上ヌ嶽付近に始まった我謝集落が17世紀に古島に移動し、更に、その後この南西地域 (新島と呼ばれている)に移動している。


トクミガーグヮー

マカーガーの前の道を少し登った所には拝所らしきものがある。拝所らしいので写真を撮って、後から調べるとトクミガーグヮーという井戸跡だった。


我謝遺跡、上ノ嶽 (消滅)、兼久井 (カニクガー 消滅) 

我謝集落のと与那城集落の後背、北西部は標高40~50mの高台になっており、現在は西原ハイツになっている。この地は黄金森 (クガニムイ) とか我謝森 (ガージャモー) と呼ばれ、かつて我謝部落の上ノ嶽 (消滅)、兼久井 (カニクガー 消滅) があった。

本土復帰直前の1971年 (昭和46年)、エッソ・スタンダードの進出で、その従業員らの社宅がこの我謝毛に建設されていた。その後、民間デベロッパーに払い下げられ、分譲住宅団地の西原ハイツとなった。ここからは西原町、与那原町の街が眼下に広がり、その向こうには南城市の知念半島が見える。

1982年 (昭和57年) に宅地造成工事時に緊急発掘調査が実施され、グスク系土器を主体に輸入陶磁器、須恵器など沖縄貝塚時代後期からグスク時代にまたがった比較的古い時期のものが出土している。我謝遺跡と呼ばれている。上ノ嶽 (神名マヤリ君ガナシ御イベ) は上ヌ毛中腹付近にあり、上ノ嶽の下側には我謝集落で最も古い産井 (ウブガー) の兼久井 (カニクガー) はあったのだが、消滅してしまっている。この一帯は、我謝部落発祥の地とされている。我謝 の根屋である上神座の屋敷もあった。西原ハイツの宅地 造成工事に伴い、上ヌ毛はなくなり 上ノ嶽は近くの祠に移されている。


我謝守護神 (2020年6月2日 訪問)

黄金森 (クガニムイ、我謝毛 [森] ガージャモー [ムイ]) は現在は西原ハイツになっており、西原ハイツ公園に合祀所の我謝守護神があるというので、2020年5月28日行って見たがそれらしきものはなかった。後で調べてみると、公園は北部と南部に分かれており、拝所は南部にあるとなっていた。北部に行ってしまったのだ。後日 (2020年6月2日)、再度ここに来て我謝守護神を見学した。琉球国由来記に記載されている三つの殿が、合祀されていた。拝所我謝守護神という拝所には、向かって右から、上ノ嶽 (神名:マヤリ君ガナシノ御イベ) の上之殿 (我謝里主所火神)、中之殿 (我謝根所火神)、下之殿 (我謝巫火神) が祀られている。上ヌ殿の付近に中ヌ殿、下ヌ殿として分かれ、それぞれの殿を結ぶと三角形の位置にあったが、西原ハイツ建設に伴い、かつては獅子屋 (シーシーヤー) があったこの地に移設合祀されている。琉球国由来記によると、稲穂祭三日崇の時、我謝根所火神において我謝、与那城、安室、桃原などから米神酒などの供物を出して、我謝ノロが祭祀を行った。同様に我謝里主所火神でも稲二祭の祭祀が行われた。

合祀拝所の前は公園で広場になってい。草が生え放題だ。その中にには黄金徳 光之神と書かれた拝所があった。詳細は不明。拝所を巡っていると、村の祠以外に比較的新しい祠や香炉を見かける。宗教団体や霊感のある個人が、風水やお告げで拝所を置くケースが多々ある。これもそうかも知れない。



これで、資料に出ていた我謝集落の文化財は見終わった。晴天は続き、雨は降りそうにない様だ。隣の与那城集落に移動する。与那城集落訪問レポートは別途。


参考資料

  • 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
  • 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
  • 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
  • 西原町 歴史文化基本構想 (2017 西原町役場)