生と死
フェースブック・Manish Kazuo Nukiiさん投稿記事
聖フランチェスコは死ぬとき、その死の床で突然目を開け、自分の肉体に感謝したそうだ。
死にゆく前、別の世界へ移る前、自分の肉体に感謝した。
彼は言った、「いろんなものが君の中に隠されていた。そして君は私をよく助けてくれた。
でも私はひどく無知だった。君と戦ったときさえあった。君を敵だと考えたときさえあった。だが君はいつも友人だった。私がこのような意識の状態に達することができたのも、
君のおかげだ」このような肉体への感謝は素晴らしい。
でも聖フランチェスコは、最後になってやっとそれを理解した。
タントラは、「最初から理解しなさい」と言う。
死ぬときになってからでは、肉体に感謝しても役に立たない。
それは、隠された諸力の宝庫、神秘的な可能性の宝庫だ。
タントラによれば、肉体の中に全宇宙が縮図となって存在する ―肉体はまさに全宇宙の縮図だ。それと戦ってはいけない。
もし肉体が縮図であるなら、セックスとはいったい何か。
もし本当に肉体が全宇宙の縮小版であるなら、セックスとはいったい何か。
宇宙における「創造」、それがあなたの中ではセックスとなる。
全宇宙を通じて、創造はやむことなく続いている。
それがあなたの中ではセックスだ。
もしその中に非常な力が存在しているとしたら、それはあなたが創造者として
必要とされていることだ。
もしセックスがこれほど強力なものであるとしたら、タントラにおける唯一の意味はこうだ。
― あなたは非創造的であってはならない。
創造するのだ。
もし何かもっと偉大なものが創造できなかったら、少なくとも生命を創造する。
もし自分より良いものが創造できなかったら、少なくとも自分が死ぬとき自分にとって代わるような者を創造する。
あなたが非創造的であることは、宇宙にとっては許しがたい。
だからセックスがこれほど強力なのだ。
にもかかわらず、あなたはそれと戦っている。
それを使うのだ。
セックスは生殖にだけ使われるものではない。
どのような創造にもセックスは使われる。
だからこそ、偉大な詩人や偉大な画家は、ときとしてセックスの要求をあまり強烈に感じなくなるのだ。
とは言っても、彼らが聖者だと言うわけではない。
もっと偉大なものの創造に携わっているから、その必要が満たされているということだ。
偉大な音楽家は音楽を創造する。
偉大な音楽が創造されるとき音楽家は大きな満足を得るが、それは世の父親たちには手が届かないものだ。
息子が親にもたらす幸福は、偉大な楽曲が音楽家にもたらす幸福、あるいは偉大な詩歌が
詩人がもたらす幸福に比べたら、些細なものだ。
それは高い領域での創造だ。だから自然は低い創造から解放してくれる。
そのエネルギーは高みへと向かっている。
タントラは言う、「エネルギーとは戦わずに、エネルギーの高みへと向かわせなさい」。
高みへ向かうと言っても、それはいろんな領域、いろんな次元がある。
ブッダは画家でも詩人でもないが、セックスを超えている。
いったい彼に何が起こったのか。最高次の創造とは、自分自身の創造だ。
最高次の創造とは、内側における全面的な意識の創造だ。― 内側で
<全体性>が、<一如>が創造される。
それこそが頂点、ヒマラヤの頂点だ。
ブッダはそういう頂点にいる。彼は自分自身を創造した。
セックスへと向かうとき、あなたは肉体を創造する。
つまり複製が創造される。
また、もっと高みへと向かうとき、あなたは精神、スピリットを創造する ― 魂を創造する。あるいは、こう言った表現が許されるなら、あなたは神を創造する。
たとえば、死がそこに存在する。
自分の恋人が死ぬ…あるいは自分の友人なり、娘なりが死ぬ。死そこにある。
さてあなたに何ができるのだろう。
死について考えることもできるだろう。
それについて考え、「 魂は不滅だ 」ということもできるだろう…
というのも、かつてそんなことを読んだことがあるからだ。
ウパニシャッドの中では、「魂は不滅であり、死ぬのは肉体だけだ」と言われている。
あなたはそのことを全く知らない。
もし本当に知っていたら、何の問題もない。
どこに問題があるだろう。
「魂は不滅だ」と本当に知っていたら、死というものは起こらない、だから全く何の問題もない。
しかし、問題は実際にそこにある…死は起こった、そしてあなたはそれに心を乱され、深い悲しみの中にいる。
そしてその悲しみから逃れたいと思う。
何とかしてその悲しみから逃れたいと思う。
そこで「魂は不滅だ」という説明にすがる。
それは一つのトリックとなる。
だからといって私は別に「魂は不滅ではない」と言っているわけではない。
しかしあなたにとってそれはトリックだ。
あなたは自分を騙そうとしている。
あなたは悲しみの中にいて、その悲しみから逃れたいと思っている。
それでこの説明が役に立つ。
そして自分自身を慰める…
「魂は不滅だ。誰も死なない。ただ肉体だけが死ぬだけだ。ちょうど着物を替えるように
あるいは棲家を替えるように魂は一つの家から別の家へと移った 」いくらそう考えたところで実際にそれについて何も知らない。かつてそのようなことを耳にし、知識として収集しただけだ。そういう説明を通じて、あなたは安心する。そして死を忘れ去ることができる。
実際、それは問題に対する解決ではない。
何も解決されていない。
次の日に誰かが死んだらまた同じ問題が持ち上がる。
さらにまた誰かが死に同じ問題が持ち上がる。
奥深くであなたは知っている 、「自分もまた死ぬのだ。死からは逃れられない」
そこに恐怖がある。
いつまでも延期することはできるだろう…説明によっていつまでも逃避することはできるだろう。
しかしそれでは役に立たない。
死は『存在』的な問題だ。
思考を通じて解決するわけにはいかない。
偽りの解決を生み出すのがせいぜいだ。
だったらどうすればいいか。
ここに別の次元が存在する…それは瞑想の次元だ。
思考の次元でも、考察の次元でもない。
瞑想を通じて、あなたはその状況に直面する。
死が起こった。自分の恋人が死んだ。
決して、思考に入ってはいけない。
ウパニシャッドやギータや聖書を持ち込んではいけない。
キリストやブッダに尋ねてはいけない。
彼らのことは放っておくのだ。
死はそこにある。それに直面し、対峙する。
全面的にその状況に身を置く。それについて考えない。
どこに考えることがあるだろう。
過去の戯言を繰り返すのがせいぜいだ。
死とは、全く新しい現象であり、未知なるものだから、知識はどんな意味でも
役に立たない。
だからマインドを去り、死と共に深い瞑想の中に入るのだ。
何もやってはいけない。いったい何ができるだろう…何かをしたところで、何の役に立つだろう。
あなたは知らない。だから無知の中にとどまるのだ。偽りの知識や借り物の知識を持ち込んだりしない。死はそこにある…
それと共にとどまるのだ。あくまでそれにとどまり、死に直面する。思考には入らない。
思考に入るということは、その状況から逃げ去ることであり、不在になることだ。
考えたりせず、死と共にとどまる。
悲しみはそこにあるだろう、痛みもそこにあるだろう、重荷はあなたの上にのしかかるだろう。
それはそれでいい。
それは一部だ…生の一部であり、成熟の一部であり、究極の覚醒の一部だ。
要はそれと共にとどまり、全面的に『そこにいる』ことだ。
これは瞑想だ。
それによって、死についての深い理解に至るだろう。
そうすれば、死はそれ自身、永遠の生となる。