なぜ間違うのか
2022.09.03 15:24
判断についての誤解があり、なぜ間違うのかということに興味があるので考えたい。人は理解していない事柄について安易に判断してしまう。理解していない事柄とは、知らない領域のことである。間違うとは端的に言って、自分がよく知らない領域について、判断できるものと錯覚してしまうことからその判断を誤るのではないか。そもそも判断してはいけない事柄について判断してしまうという人間的な本性により判断を誤る。専門家とて専門外のことについては素人同然である。意図的に努めてエネルギーを集中投下したものに限り優れることができるが、それ以外については、ほんらい無知であるはずなのだ。無知であるはずの領域に無謀にも頭を突っ込み、知っていると錯覚して判断を下そうとするから間違うのだ。判断不可能あるいは判断してはならない事柄について安易に判断できるものと思い込むことによって間違った判断が生じる。
理解すべき対象を、世界全体に広げるのではなく、理解すべき対象を明確に限定しなければならない。そして努めるべきは、この領域の範囲内でのみ行われるようにする。どの領域をよく知っているのかを、判断する本人が知っていなければならないからだ。判断されるものはこの自分が知っている領域に限られるべきであって、この外側にはみだした領域についての判断は控えるほうがいい。なぜなら知らない領域の判断は必ず間違う。判断する領域ではない場合における判断は、無知の中で下されるのだからあたりまえである。判断がいつもどこでも容易にできてしまうという誤解があるが、現実的には判断に制約が与えられている。この制約は自分であらかじめ決定しておくべきものである。自分がどこに通暁しているのか(あるいはするのか)を確定させる。そうすることによって判断のできない事柄については判断しないという姿勢をとることができる。つまり判断できる事柄のみについて判断するが、判断できない事柄については判断を差し控えるということである。間違った判断をするような状態を事前に知っておくことが唯一の処方箋になるだろう。
重要な盲点がある。それは自戒の念を込めて言うのであるが、何かひとつに優れるとある種の万能感に浸ってしまい、自分の領分以外についても知っているような錯覚に陥りがちであるということだ。実際は、時間とエネルギーを注いだ「ここ」においてのみ熟練しているだけであるのに、「ここ」の範囲を超えて判断ができるものと勘違いしてしまう。これは知的越権行為に他ならない。努力している範囲でのみ優れることができるけれども、この場で生じた慢心は「ここ」以外では全然通用しないのである。何かに優れると、その分野以外についてもできてしまいそうな感覚に陥る。だがこれこそ罠なのである。できる分野のことはできるが、できない分野(そこにエネルギーを投入していないこと)には無知なのだから、厳格な制限を設けるべきなのである。制限と言うと偏狭で息苦しいと思われるかもしれないが、判断する場合に限定しているだけであって、生きること自体は自由のままだ。ただ判断可能な事柄とそうではない事柄を考慮することにより、誤った判断を回避できるかもしれない。