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生き方を見つめよう~デス・エデュケーションを適用して

2018.04.08 08:54

http://irumakoren.web.fc2.com/jigyouhoukoku/jittusen-2001-3-3.htm  より

総合的な学習の展開例

 「生き方を見つめよう~デス・エデュケーションを適用して」

                          鷲宮町立鷲宮中学校 福田和己

1 はじめに

 「生き方」についての教育は、学校の教育活動全体を通じて行われるものである。このことは、学習指導要領における「道徳」と「特別活動」の目標に「人間 としての生き方についての自覚を深め、」と示されているとともに、総則に位置づけられた「総合的な学習の時間」のねらいからも明白である。そして、「生き 方」を学ぶ学習の中心である人間関係や、信頼関係の基盤として、教師と生徒、生徒同士がお互いをかけがえのない存在として慈しみ敬うことが大切である。そ れは、人間尊重の精神であり、その精神を育てるためには、お互いが限られた時間を生きる、それぞれに弱い存在であることを認識することが必要である。

 しかし、現代の子ども達は、また、大人にとっても生と死に対する意識が希薄になっていると言わざるを得ない。核家族化により家に高齢者や病人が存在せ ず、身近な人の死に遭うこともほとんどない。また、仮想現実の世界に影響されて、死の真の意味を理解することもできにくくなっている。こういった状況の中 で、子ども達は死に真正面から向き合うことなく大人になっていく。生の果てには必ず死があるからこそ、命はかけがえのないものだということを意識させた い。死を真剣に考えるからこそ、命は重みを持ってくるはずである。そうすれば、自分や他人の生命を軽んじてしまうことはなくなるだろう。そうした観点か ら、デス・エデュケーションを取り入れた授業が有効であると考えられる。

2 デス・エデュケーション

(1)デス・エデュケーションとは

 デス・エデュケーションは、人間にとってどのような死に方が望ましいかといった死の方向性を示すものではない。死を身近な問題として考え、生と死の意義 を探求する教育のことであり、同時によりよく生きるための教育である。つまり、死ぬための教育ではなく、死を考えることによっていかによく生きるかにつな がる教育である。

(2)デス・エデュケーションの目標

 デス・エデュケーションにはいくつかの目標が考えられている。対象の違いによって、目標の重点に多少の違いがあるが、例えば、第1の目標として、死とは 何かを考えることによって人間のこの1回限りの生を有意義なものにすることである。死を見つめることによって生きる時間が限られているという事実、自由に なる時間が無限にあるわけではないという現実に気がつく。それによって、人は時間の貴重さを発見し、人生を有意義に過ごすことが可能になるのである。

 また、デス・エデュケーションは4つのレベルで行われる必要があると、Deckenは述べている。

(3)デス・エデュケーションの外国の例

 ① アメリカの例   (学校保健研究vol.28no.6 pp.263-267 若林一美)

 保育園、幼稚園レベルの子どもから年齢・学年に応じたカリキュラム、学習目標が設定されている。

「デス・エデュケーション」関係の本だけでも1000冊を越し、年齢に応じて「死」に関して考えるきっかけを与える小説、物語、参考書のリストも豊富に準備されている。

○ 5~6歳

「生命の誕生、成長、死」が一つのサイクルの中で起こることが教えられる。生命の誕生や死は特別なことではなく、人生そのものであることを教える。

○ 小学2~3年

 生物のライフサイクルの中で死とはどのようなものか、そして人間の死とはどのようなものか考えさせる。

○ 小学4~5年

「死」という現実が子ども達自身の閉講であり、自分との関わりにおいて理解・認識さ

-中略-(記録集の印刷の過程でページが抜け落ちているため)

一人ひとりが他者の命をも尊重できる優しさを身につけさせたい。」に迫れていたと考える。

4 今後の課題

 デス・エデュケーションを実践し、定着させていく上で次のような課題が考えられる。 これまで心理学の分野で、またアメリカにおいて、子どもの死の意識 研究が多く遂行されてきた。しかし、デス・エデュケーションを日本の学校で扱うためには日本の子どもの死の兼題に関する研究が十分になされなければならな い。そして、学校教育に向けた情報の整理と提供というつなぎの役目をはたすべき教育学においてデス・エデュケーションの意味を総括的に位置づけていく研究 が必要であろう。

 また、子どもの死生観は独自に生じるものではなく、家庭や地域の影響をはじめ、広く宗教観や社会的文化的背景を反映しながら育っていくものである。死生観を正確にとらえるには、子どもを取り巻く状況についても十分検討する必要があると考える。

 そして、そのような準備が整ったうえで、単発的な取り組みに終わらず、日常的かつ総合的に「生命」や「死」を指導していくために、学校教育の制度上に一 貫性の・あるカリキュラムが必要となるであろう。さらに、デス・エデュケーションにおいては、肯定的な変容を考えることはもちろんのこと、否定的な変容を 示した生徒を中心としたカリキュラムにも重点が置かれなければならない。つまり、全体的な生徒の死に対する態度の変容も見ていかなければならないが、それ 以上に個人の変容を十分把握しなければならないということである。そのためには教師の資質が問われることになるであろう。

 教師も1人の人間として死に向かう存在であり、生徒と平等に、同じ立場で死について語ることができる。自分がどう考え、悩んでいるか生徒に示すだけでも 立派なデス・エデュケーションとなりうると考える。それには、教師自身が生や死について主体的な考えを持ち、積極的に生きていくという姿勢を示すこと、そ して、子どもの死に対する不安を駆り立てることなく、自然に死について語れることが望まれるであろう。

 また、多くの教材を蓄積していくことが必要であろう。長期間使用された実演をもつ諸外国の教科書の長所を取り入れながら日本の生徒に適合した形に再構築 し、日本の文化、社会、文学、芸館、日常生活などの中から素材や実例を選択していかねばならないと考えられる。

 今後は、デス・エデュケーションの教育内容を深化させ、教育課程をそれぞれの学年で検証し、学校教育全体の中でどのような取り組みができるか、さらに模 索してみたいと考えている。そして、本研究では触れることのできなかった、小学校、高等学校との関連性についても考え、さらに生涯教育の中でどう位置づけ られるかについても、再度問い直してみたいと考える。