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気づきに気づくために ~目覚め・覚醒・悟りの準備段階~

2018.03.28 13:29

https://ameblo.jp/manana111/  より  感情エネルギーと観念の気づき

突発的に何かが起きて、感情が噴出してきたとき,

古い記憶に、ありありと感情が伴ってきたとき・・・

そのときわたしたちは、とっさにコントロールしようとしがちですね。

怒りの感情だったら、抑えなきゃ・・・とか

悲しみや嫉妬などの感情でも、ストレートに表現しちゃいけないように感じたり。

そんな風にコントロールをしようとするのは、マインドです。

感情エネルギーは起こってきたとき、特定のパターンを持っているものです。

どんなときに、その感情は起こるのでしょうか?

あなたにとっての、起こりやすいパターンがあるのです。

それが誘発されがちな、条件があるのです。

そして起こってきたときには、身体反応も一緒です。

心臓がバクバクしたり、身体に緊張が走ったり、瞬間的に目を剥いていたりするでしょう。

悲しいときはハートが塞がれたような感覚に気づくでしょう。

嫉妬の感情には、ネルギーが暴発して頭を駆け抜けるかもしれません。

それらは感情エネルギーの表現です。

それに気づいたそのとき、そのパターンの根っこに、あなたが抱えている観念が見えてくるでしょう。

「こうでなければならない」、「こうあるべし」

長く自らを制限してきた、観念や価値観といったものたち。

それはわたしたちが、成長の過程で学びと共に身に着けてきたものなのですが

いかにそれに囚われ、囲い込まれて、狭い不自由な思いをしてきたことでしょうか。

なのにわたしたちは、そんなこととはちっとも気づいてこなかったのでした。

「こうあるべし」は「私の世界」では絶対で、譲れない守るべきものでした。

思い込みでしかないとも知らず、そのためにたくさん戦ってきたのでした。

誰と?

きっと、そのとき目の前にいた、自分ではない誰かに攻撃をされて戦ったと思っていたことでしょう。

けれども、その誰かの仕掛けた攻撃とは、幻です。

自らの観念と対面するために、現象としてそれを投影していただけなのです。

起こってくる現象に本来意味はないとは、このことです。

例えばAさんについて、

Bさんには「怒っている」ように見えて、自分が悪いことをしたかもしれないと考えたとします。

けれど、Cさんにはただ「真剣に仕事をしている」だけと見える、こんなことは普通にあります。

それぞれが、それぞれの心象を映すことでしか、物事とは見ることができないからです。

このように感情とは、古いパターンによって肉体と感情レベルがセットで反応しているだけですし

その根っこには、観念が見え隠れしています。

現象とは、自らの観念に気づくために起こされてきたものなのです。

感情と自分自身が一体化していると、あたかも自分自身が感情そのものだと感じてしまい、

せっかく起こされてきた観念と、対面するチャンスを逃がしてしまうのです。

源は、かくも巧みに、気づきをうながしてきてくれるのです。

気づきは、抱きしめて一体化していた「私・エゴ・自我」や「観念」を手放すときを知らせてくれるのです。

大切なのは、自分の思考や感情を客観的に見る(観照する・気づく)ことであって

それをコントロールすることではないのです。

コントロールしようとする意図そのものが、すでにマインドですから・・・

「在る」とは

気づきの立ち位置にあり

気づき続けること、

ただそれだけ、なのですね。

気づきに気づくために ~目覚め・覚醒・悟りの準備段階~

昨日の記事『感情エネルギーと観念の気づき』に

コメントをくださった七色 さんへの返信が長くなってしまったので

さらに膨らませて記事にしてしまいました~~ww

目覚めの入り口で、どう門を叩けば良いのかわからない、という感じでしょうか。

こういったことは、どなたの上にもやってくる時期があるのですが

この道を進むには「準備が整う」という言葉もあるように、それなりのステップが必要なこともあるようです。

また、目覚め以前の方がこのようなブログへやってきて見てくださっている時点で

その方はすでに、準備段階とも、ご縁とも言えるのでしょうね。

不思議なことに時代の恩寵からか、そのような方が増えているのも確かです。

よりたくさんの方が内なる平和に目覚め、世界に不安を投影しない、を現実化されることで

地上により安定的な平和が実現されるのだなあと、感じています。

彼女は、

「ただ 見ている状況から先が 悩んではいませんが わかりません」

とおっしゃっています。

この場合、「わからない、わかるといいな」と、言っているのはマインドです。

わたしたちは、物心ついてからずっとマインドによって学び、観念・信念を確立してきました。

なので、思考のルートというか、その方法自体がデフォルト化されて、お決まりのパターンになっています。

マインドはマインドのやり方でしか、思考できない、受け取りができないということなんですね。

ですから、ほんとうのわたし(真我・在る)は、マインドでは理解できなくて当たり前なんです。

そこのところを、まず、マインドで理解しようとしないことです。

では、どうするのか?

それは、感じることなのです。

文明化された現代に生きるわたしたちは、感じる感性というものを案外ないがしろにしています。

それは、合理性や科学的、などのキーワード以外のものを受け取ろうとしない風潮があるからです。

けれどもわたしたちは、機械ではありませんし、モノでもないんですね。

生身の人間です。

生身の人間というのは、とても自然な、ただの生きのものなのです。

自然な生物であるということは、劣っているという意味ではなく

むしろ自然を受け取る感性では優れています。

信念や観念をどんどん外していくと

草や木のような自然そのものに行き着くのかなあとmananaは、感じているんです。

マインドを外してただ見ている、そして感じる。

見ている、気づいている(観照)を繰り返すうちに

思考と思考の間に、わずかでも隙間があるのに気づき、さらにそれが広がっていくのに気づくでしょう。

そのスペースは、何も考えが浮かんでこない瞬間のスペースです。

その隙間にそこへ顔を覗かせてくるのが、「本当のわたし」なんですね。

気づきに気づく瞬間ともいえます。


その気づきは、小さな気づきかもしれませんが、とても大きなジャンプなのです。

そのとき、思考はもう働いていません。

感覚、感性だけで満たされた、言葉で表現できない瞬間です。

今、読んでいるこの文章は言葉で表現されていますから、それ自体がマインドによる理解です。

マインドでいくら理解しても、それを連れて一緒に向こう側へ行くことはできないのですが

その理解があることで、それを念頭に置いておくだけで

気づきに気づく、その瞬間がやってきたときに

「ああ~これか!?」

と分かる・・・と、そういう仕組みになっているのです。