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Okinawa 沖縄 #2 Day 209 (07/09/22) 西原町 (10) Yonagusuku Hamlet 与那城集落

2022.09.08 02:50

西原町 与那城集落 (よなぐすく、ユナグシク)



我謝集落散策を終えて、次は与那城集落の文化財巡りに移る。この集落のも2020年5月29日、6月2日に訪問しているが、まだ見ていない文化財やスポットがあるので再訪する。



西原町 与那城集落 (よなぐすく、ユナグシク)

与那城 (ユナグシク) は、西原平野の中央部を東西に流れる小波津川の南側に位置し、東側は兼久に、南側は我謝に、西側は西原ハイツに隣接し、北側には西原平野が広がっている。集落は、拝所や御願所のある与那城森 (ユナグシクムイ) を腰当 (クサティ) に、南東側傾斜地に立ち並んでいる。与那城とはユナ・グシクで海岸地にあった城塞の意味と考えられる。

伝承によると、与那城の発祥地すなわち元島 (ムトゥジマ) は、我謝上ヌ川原付近の与那城タマター (現在はゴルフ場) だといわれる。そこは、桃原ユヤーといわれる我謝前川原にあった桃原の古集落跡に隣接していた。昔、両集落地は地滑りが頻発し、甚大な被害が出て生活するのに不適だった。そのため、桃原は現在の地に移り、与那城は我謝白川原の与那城古島に次第に移動した。その後、住民らの生活も安定したが、与那原と我謝との争いに巻き込まれ (当時与那城は与那原との境目に位置していた) 、我謝の協力で17世紀半ば以前に現在地に再移動を余儀なくされたという。資料には「琉陽?」 尚穆王39年 (1790年) の条に、与那城村を痩せ地に移動させ、肥沃な旧宅地を早田に転用した記事がある。この集落の強制移動は首里王府の農業政策である地割制度が寛文年間 (1661 - 1672) に施行され、その後に多くの集落が移住させられている。与那原と我謝との争いの為か首里王府の命令かはっきりしないのだが、時期は両方ともに17世紀半ばとなっている。ただ、農業政策で強制移住させられた集落は碁盤目状に区画整理がされているのだが、与那城集落は不規則な区画の様に思えるのと、1731年までは、集落の移動は首里王府の許可が不要で自由にできたので、政府の集落移動の記録にはないのだろう。また、我謝と与那城集落は隣接してあたかも一つの集落の様になっている。我謝の協力で移住したとの言い伝えはもっともの様に思える。

琉球村々世立始古人伝記によると、与那城村の世立始めとして「勝連与那城より来る我謝子 在所 根所」とあり、また地組始めとして「大里村より来る与那城大 在所 根所 座神」とある。言い伝えによると、与那城の創始家は儀保腹 (ジーブバラ)、米須腹 (クミシバラ)、仲門腹 (ナカジョウバラ) の三家だといわ れる。

戦前、与那城は純農村で、甘蔗や芋などを栽培し、黒糖製造、養豚などで生計を賄っていた。女性たちは、副業としてパナマ帽編などもしていた。 隣の兼久には沖縄製糖株式会社西原工場があり、一部の住民人は、季節労働者としてそこに勤務していた。 

沖縄戦終了後、本土や海外からの引揚者や各収容所から帰郷した人々は、一時、与那城や我謝に居住した。 与那城には、いまでも定住した多くの他部落出身の人々が住んでいる。与那城には、村役場や小学校、村農協などが置かれ、戦後西原の中心地として発展した。 西原村役場が1968年に現在の地に移転した後も、団地、集合住宅、公共機関施設が続々と建設され、都市化している。

西原間切は明治41年、特別町村制の施行より西原村となり、昭和54年に西原町に移行。行政区は、昭和7年に24ヵ字になり、戦後は、6区制24ヵ字制、16区制、平成3年に30区制、平成7年に31区制、平成8年に32区制となって現在に至る。


1880年 (明治13年) の与那城村の人口は251人 (49戸) の小さな村落であった。戦前までは、西原町の中でも人口の少ない地域だったが、戦後、戦後西原の中心地として発展して人口は急増して、西原町では人口の多いグループになっている。明治時代からの人口増加率は西原町で最も高い。

ここ10年の人口は徐々に減少しており、その傾向は現在でも続いている。


琉球国由来記にある与那城の拝所は

  • 御嶽: なし
  • 殿: 謝名越之殿
  • 拝所: 與那城火神
ほかに、与那城集落民が拝んでいる祭祀場としては、三津武嶽、フジュンガー、謝名越ヌ嶽 (ジャナンキーヌタキ)、御通しの嶽 (ウトゥシヌタキ)、与那城地頭火神など。

与那城での昔の祭祀、現在でも続いている祭祀について、まとまった資料は見つからなかった。五月と六月ウマチーでは、①米須 (クミシ)、②殿 (トゥン)、③与那城大王の墓 (ユナグスクウフスーヌアジシー)、④拝泉 (カー)、⑤地頭火の神 (ジトゥーヒヌカン)、⑥ 謝名越 (ジャナンクィ) を拝んでいる。旧暦6月25日のウファチでは ①米須 (クミシ)、②殿 (トゥン)、③与那城大王の墓 (ユナグスクウフスーヌアジシー)、④竜宮神 (リューグヌカミ)、⑤地頭火の神 (ジトゥーヒヌカン)、 ⑥謝名越 (ジャナンクィ) を拝んでいる。

琉球王統時代は与那城村、我謝村、安室村、桃原村を管轄していた我謝ノロが祭祀を執り行っていた。それより、古くは与桃原村の安谷ノロがとり行ったという。


与那城集落訪問ログ



与那城公民館

まずは集落の中心にある与那城公民館 (自治会館) に行き、自転車を停めて、周辺の文化財を巡る。この公民館がかつての村屋だったのかは不明。


フジュンガー

我謝集落巡りで、既にみたのだが、与那城に関係がある井戸なので、もう一度、ここに載せておく。与那城古島の東側、隣の我謝集落の入口付近に与那城の産井 (ウブガー) のフジュンガーがある。我謝にあるのだが、この場所は古くは与那城の古島があった。その時代に与那城集落民が使用していた。ハチウビーの水もここから汲んでいた。与那城が現在地に移った以降も拝井泉として、正月、五月ウマチー、六月ウマチーには村で拝んでいた。


新井 (ミーガー)

公民館の東に与那城児童公園があり、その敷地内に、長方形に掘り込まれた新井 (ミーガー) がある。1905年 (明治38年年) の旱魃のときに掘られたので比較的新しい井戸だ。与那城児童公園は 1981年 (昭和56年) に整備された。


前ヌ井小 (メーヌカーグヮー)

新井から集落への道を入った直ぐの所には前ヌ井小 (メーヌカーグヮー) と呼ばれる井戸がコンクリート製の筒が置かれている。蓋がされているのでまだ水はあるのだろう。昔はどの様な形の井戸だったのかはわからないそうだ。 


上ヌ井 (ウィーヌカー) [2020年6月2日訪問]

公民館の東側の我謝集落近くに上ヌ井 (ウィーヌカー) がある。1979 年 (昭和54年) に整備されコンクリートで覆われている。踊り場もあり、広い水場だったようだ。元々は、円形の掘り込み井戸で井壁を石を野面積みで積みあげた井戸だったそうだ。


與那城大主之碑 [2020年6月2日訪問]

公民館の北側、集落の北西方に位置する与那城森 (モー) 前方の独立した小丘頂上が与那城集落の聖域がある。その入口右手に墓があり、與那城大主之碑と書かれている。与那城を治めていた人物の墓だそうだ。


謝名越之殿 (ジャナンキーヌトゥン)、火ヌ神 [2020年6月2日訪問]

與那城大主之碑から中に入ると謝名越之殿 (ジャナンキーヌトゥン) がある。単に殿 (トゥン) とか祝女殿内 (ヌルドゥンチ) とも呼ばれている。多分、この場所に集落が移動してきた際は、祝女殿内 (ヌルドゥンチ) の屋敷だったのだろう。祠の右側には与那城火の神 (ヒヌカン) が祀られている。沖縄では次男、三男が分家する場合、本家の火神の灰をもって新しく火神を祀るのだが、それと同じように、部落の移動時にも、火神を先頭に移ってきたものと思われる。現在の拝殿は、1982年 (昭和57年) にコンクリート造りに建て替えられたもの。拝殿内には、我謝親雲上が寄進したと伝わる8個の香炉が安置されていたが、戦災で破壊され喪失し、一個だけ残り、殿を新築した際に、消失した七個を新たに新造し、元の八個が安置されている。多分、真ん中の香炉が昔から残っているものだろう。与那城集落で旧暦の8月に行われる三津武嶽拝み (ミチンジャキウガミ) という子どもの健康を祈願する行事の際に拝む拝所だそうだ。この三津武嶽 (ミチンダキ) とは琉球王国時代の神女組織の最高位の聞得大君 (きこえおおきみ) の墓と言われている御嶽 (ウタキ) で、与那原町訪問時に訪れている。稲穂祭 (五月ウマ チー) の際には、我謝ノロによって祭祀が行われていた。


竜宮神

拝殿の右後方には竜宮神の拝所がある。この近くまで海岸線が来ていたのだろうか? 


お通し嶽 (謝名越之嶽 [ジャナンキーヌタキ]?)

祠の左側にも拝所がある。この拝所が何なのかを書いたものは見つからなかったのだが、資料のひとつには「お通し嶽」がこの殿の敷地内にあるとなっていた。別の資料では中央公民館近くの消滅してしまった謝名越嶽 (ジャナンキーヌタキ) の遥拝所もあるとなっていた。別の資料ではここには移設された謝名越之嶽 (ジャナンキーヌタキ) が地図上にプロットされていた。謝名越之嶽は今帰仁へのお通しなので、この拝所が移された謝名越之嶽 (ジャナンキーヌタキ) なのかも知れない。


地頭火神 (ジトゥーヒヌカン) [2020年6月2日訪問]

謝名越之殿の北側に地頭火神 (ジトゥーヒヌカン) がある。与那城集落で旧暦の8月に行われる三津武嶽拝み (ミチンジャキウガミ) という子どもの健康を祈願する行事の際に拝む拝所 の1つで、かつて、我謝や与那城、安室、桃原などの神人らがそこで祭祀を執り行っていた。


与那城毛 (ユナグシクモー)

この辺りは与那城毛 (ユナグシクモー) で、この頂上部からはグスクを特徴づける遺物の数々が多量に出土している。

この場所は、本土復帰の直前にエッソ・スタンダードの社宅が建設され、その後は民間に土地が売却され西原ハイツが建設され元々の地形が損なわれ、グスクを徴する地形は失われてしまった。最近の発掘調査の遺物群から、この与那城毛の一角がグスクであった可能性は高いと考えられている。西原ハイツ付近には、上ヌ御願所 (ウィーヌウガンジュ) があったとされる。ここが与那城の御嶽ではないかと考えられている。戦前、そこで上ヌ御願 (イイヌウガミ) が行われた。西原ハイツは高台にあるので見晴らしがいい。写真は西原ハイツと与那原方面の様子。


サーターヤー跡

与那城毛 (ユナグシクモー) 北東の麓には、戦前まで、上ヌ組製糖屋 (イーヌワリーサーターヤー) と下ヌ組製糖屋 (シチャヌワリーサーターヤー) の2ヶ所の自家黒糖製造所があった。与那城で生産されたサトウキビの7割は近くの製糖工場に搬入されていた。自家製糖は3割程度で、工場への原材料売買の収入で生計を立てていた。値を低く抑えたい工場側と農民側で甘蔗原料価格でもめごとが絶えず、農家は浦添の農家も巻き込んで甘蔗非売同盟を結成し会社に圧力をかけ価格交渉をしていた。この圧力で、工場側は安定的に原材料を確保できず経営は苦しかったという。


西原町中央公民館、与那城貝塚、謝名越ヌ嶽 (ジャナンキーヌタキ)

与那城毛 (ユナグシクモー) の北側の麓には西原町中央公民館が置かれている。1979年 (昭和54年) に、現在の西原町中央公民館建設の土地造成工事の際に与那城貝塚が、大半は破壊された後なのだが、発見されている。この場所は、かつては、運玉森から北側に緩やかに延びる円錐形状の小高い丘陵となっており、与那城貝塚は、その丘陵台地の北側先端部に形成されていた。 そこに隣接してその南側には我謝遺跡も広範囲にわたって形成されていた。貝塚からは沖縄貝塚時代後期からグスク時代 (11~12世紀前後) にかけての土器、須恵器、石器などや獣魚骨が見つかっている。また、シレナシジミなども出土していることから、マングローブなどの茂る干潟だった可能性があると考えられている。

公民館の敷地には我謝と与那城両集落が今帰仁グスクへ御通しをしていた謝名越ヌ嶽 (ジャナンキーヌタキ) があったそうだが、資料ではこの中央公民館建設のため移転しているとなっていた。また別の資料では同敷地後方に移されたとあり、更にもう一つの資料ではここには謝名越之殿 (ジャナンキーヌトゥン) があったとなっていた。謝名越ヌ嶽についてはこれ以上の情報がなかった。謝名越之殿は先程訪れたのだが、推測では昔はここに謝名越之殿があり、近くに今帰仁へのお通しを造り、地元では謝名越ヌ嶽 (ジャナンキーヌタキ) と呼んでいたのだろう。(琉球国由来記には謝名越ヌ嶽の記載はない) 公民館建設時に両方ともに移設されたと思われる。上ヌ御願所 (ウィーヌウガンジュ)


九六式十五糎榴弾砲 (西原の榴弾砲)

中央公民館の裏に九六式十五糎榴弾砲の残骸が残されている。この榴弾砲は沖縄戦において、日本軍が幸地集落南西部の陣地壕に設置していたものだそうだ。西原町は終戦後60年の際に、戦争の悲惨さ、愚かさを認識するとともに戦争のもたらす恐ろしさ、悲しさを語り継いでいくてがかりとしてほしい。二度とあの忌まわしい戦争を起こしてはならないという誓いと、平和の尊さを実感し、さらには平和教育の資料として役立つことを願って展示をしている。当初は、この近くの西原町図書館に展示されていたが、その後、一部の市民団体による反対運動が起こり、平成21年に図書館の前からこの西原町中央公民館の裏手の人目につかない場所に移設されたという経緯がある。

西原町は、日米両軍の戦闘がくりひろげられた激戦地となり、当時の住民の約47%が犠牲になっている。この与那城集落でも住民の48%の87人が亡くなっている。家族で戦没者を出した世帯は集落世帯の90%にも達し、西原町では最も高い比率になっている。


西原町図書館

西原町中央公民館の側には、以前、九六式十五糎榴弾砲が置かれていた西原町図書館がある。平成16年に建てられている。ここで休憩をとる。公民館は冷房完備で椅子もあり、夏場の休憩場としては最高の場所。公民館前庭には二つの石碑が置かれていた。

一つは沖縄の歴史民俗の研究者の比嘉春潮の功績を讃えた顕彰碑。比嘉春潮は明治16年に西原間切翁長村に生まれ、伊波普猷や柳田國男とも親交があり、沖縄の歴史民族の研究に偉大な足跡を残し戦後の沖縄研究の基礎を築いた。

もう一つは「サワフジの詩」の歌碑で嘉手苅出身の平敷静男が西原町の町花木のサワフジを平和への思いを込めて作詞した歌が刻まれている。サワフジ (さがりばな) は6月から8月ごろで、夕方から夜にかけて白色や淡いピンク色などの花が咲き、明け方には花が散ってしまう。沖縄各地にこのサガリバナの名所がある。


西原町役場、九条の碑

1968年 (昭和43年) まで西原村役所は与那城に置かれ、与那城は西原村の中心地として機能した。その後、分譲住宅団地やアパートなどが建ち、人口も急増した。役場の敷地に九条の碑が置かれていた。9条とは「戦争放棄」「戦力不保持」をうたった日本国憲法9条の事。憲法9条の石碑が全国で18ヶ所確認されており、沖縄県=7、石川県=3、長野県=2、茨城県=2、岐阜県、静岡県、岡山県、広島県がそれぞれ一つだそうで、唯一地上戦で多くに犠牲者を出した沖縄がダントツに多い。沖縄では本土の人が考えている以上にこの問題については敏感だ。


西原さわふじマルシェ、西原劇場

西原町役場の道路を渡った所に「西原さわふじマルシェ」という市場がある。ここは小波津地区になるのだが、与那城にあった西原劇場に関連しているので立ち寄った。西原さわふじマルシェの建物外観は、綱引きをモチーフにしており、施設内には西原劇場という観光案内所が置かれている。西原劇場はかつては西原村で最も賑わった国道329から少し与那城に入って所にあった。係員さんと話すと、町おこしの拠点として、2020年12月にオープンした施設で、戦後の復興時に西原の文化を支えた西原劇場の名をつけ、町の発展を目指しているといっていた。案内所内には小波津の綱と旗頭が展示されていた。

元々の西原劇場の古写真が展示されていた。これは兼久公民館近くにあった兼久西原劇場が、100mほど北東に進んだ与那城に移った二代目西原劇場の写真。

西原劇場の跡地は、現在はスーパーの駐車場になっている。劇場跡パーキングと書かれていう看板がある。先ほどの西原さわふじマルシェの西原劇場観光案内所やこのかねひで劇場跡パーキングなど、西原劇場の名を付けているのは地域の人たちのこの劇場に対しての想いが感じられる。


与那城 (ユナグシク) タマター

伝承によると、与那城の発祥地の元島 (ムトゥジマ) は、我謝上ヌ川原付近のユナグシクタマターだといわれる。この地は滑り地帯であったことから生活するのに不適で、我謝の入り口付近の白川原に移っていった。(ここは与那城古島と呼ばれている。) 現在はゴルフ場に変わってしまった。




まだ、時間があるので、小波津集落も訪問することにした。小波津集落訪問記は別途。



参考資料

  • 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
  • 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
  • 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
  • 西原町 歴史文化基本構想