Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

ローマ人の物語Ⅱ ハンニバル戦記

2022.09.04 09:17

  塩野七生さんによるローマ歴史物語第二弾は、カルタゴの名将、ハンニバルとローマの若き将軍スキピオとの対決です。


  塩見さんのギリシア人やローマ人の物語シリーズを読み続けていつもそうなのですが、同じ歴史を扱っていても、国と国が雌雄を決して戦った戦役や、英雄同士が相まみえる戦いを扱ったところは一気に集中して読めます。例えば、ギリシア・アテネ/スパルタ連合軍対アジア・ペルシア軍の戦いである「ペルシア戦争」やデロス(アテネ)同盟とペロポネソス(スパルタ)同盟が争ったペロポネソス戦争など。。、その一方、治世者が行った政治、行政、立法といった記述があるところは、どうもページをめくるのが遅くなります。例えば、初代ローマ皇帝であるアウグストゥスを扱った「ローマ人の物語」シリーズ第6巻。(確かにローマが共和制から帝政へ移行する大切な時期で興味をそそられるのですが、、)


  やはり、戦場で両雄が相対し、武将の合図とともに騎馬隊、歩兵隊が一気呵成に相手陣地になだれこみ、機先を制し相手の陣を取り囲み、戦況を有利にする。この一刻、一刻戦況が変わっていく様は、歴史シロウトの私のような読み手にとっては、ハラハラ・ドキドキの展開で、正に戦争映画や、英雄活劇を見ているような気分にさせられます。特に、塩野七生さんのような優れた書き手は、すでに起こった戦いを、今あたかも目の前で起こっているかのように語り、一刻一刻と変わる戦況を活写しますが、この「ハンニバル戦記」は、ローマのあるイタリア半島で名将ハンニバル対ローマ軍の戦いが繰り広げられることもあり、ハラハラドキドキ、一気に読むことができました。


  ところで、ハンニバルという人ですが、この人は当時、地中海貿易で覇権を唱えていたカルタゴの将軍です。(以前、リドリー・スコット監督が「ハンニバル」という映画を作ったこともあり、この映画の主役の猟奇的天才、ハンニバルと勘違いする人もいますが)


  この頃(紀元前3世紀)、ローマとカルタゴは地中海の覇権をめぐって戦っていました(第一次~第三次ポエニ戦争)が、ハンニバルは第一次ポエニ戦争(紀元前264~同241) のカルタゴの敗軍の将、ハミルカル・バルカの息子で、第二次ポエニ戦争において、何十年にもわたりローマを苦しめた名将です。ちなみに、現在のアフリカ・チュニジアの空港は「ハンニバル空港」と呼ばていますが、それぼど祖国では有名な人物です。


  少し詳しくなりますが、「ポエニ戦争」というのは、前264年~前146年にイタリア半島やシチリア島、アフリカ大陸北岸の都市カルタゴなど、地中海に面している多くの地域で、ローマとカルタゴがその地域の覇権をめぐって争った戦いで、この期間に3回の戦役が行われ、この100年以上に及ぶこの戦役の結果、貿易都市/カルタゴは滅亡。ローマはカルタゴが統治していたイベリア半島の地中海沿岸部やアフリカ大陸の北岸部まで支配地域を広げることに成功します。換言すると、小国ローマが、大国に成長する過程で、はじめて試練に立たされた戦いが、ハンニバルとの戦いだったのです。


  ハンニバルの父ハミルカルに話を戻しますが、この第一次ポエニ戦争の敗将は、息子ハンニバルとともに戦後、北アフリカから地中海の対岸のスペイン南部へ渡り、その新天地に活路を求めます(当時のスペイン南部はカルタゴの勢力下にありました)。この父は幼いころから近くの神殿に連れて行き、ハンニバルに生涯ローマを敵にすることを誓わせた、と伝えられます。父に誓ったその言葉通りハンニバルは26歳でカルタゴの将軍になり(前221)、まず、ローマ同盟都市/サグントを攻めます。これを受けて、ローマはカルタゴに宣戦布告。この知らせで、準備していた軍を率いてカルタヘーナを出発するハンニバル。その総勢は、歩兵9万、騎兵1万2千、それに36頭の象という大がかりなものでした。


  結果的に、この軍勢を率いてハンニバルは、多大の犠牲を出しながらも、冬のアルプス越えを成功させ、イタリア半島北部からローマへ向け進軍。ローマ軍を次々と撃破し、一時はローマの城門近くまで攻め入ることに成功します。しかし、ローマも負けてはいません。若き名将スキピオを戦地に送り込み、歴史上有名なハンニバルとスキピオの戦いが始まるのです。


  ところでローマ軍を震え上がらせたハンニバルですが、イタリア半島におけるローマ進攻の成功は、どこにあったのでしょう。。 それは、個人的に考えるならばやはり、イタリア半島へ攻め入るきっかけとなった、「冬のアルプス越え」だと思います。今の我々の常識でも、冬のアルプスを十万以上の軍勢と共に行軍するなどというのは、ちょっと信じれらないのですが、実際、当時のローマ人も冬のアルプス越えは不可能と考えていた難事業で、それまで誰もやったことがなかったのです。


  話を、カルタヘーナを出発したハンニバルに戻しますが、このカルタヘーナから出発した頃、ハンニバルはこの大軍を率いてどこへ向かうのか、ローマも本国カルタゴさえもハンニバルの真意がわかっていなかったようです。実際この頃、ローマ、カルタゴが考えていたのはハンニバルのスペイン北部の制圧でした。しかし、ハンニバルはこの時から、いやこれ以前の将軍になった頃から、いやもしかしたら、父とローマへの復讐を誓った時から「ローマ攻めは、アルプス越えから。」という想いを抱いていたのだと思います。さらに、「冬のアルプス越え」という作戦は、第一次ポエニ戦争において、海上でローマ軍に敗れた父ハミルカルが「ローマを攻めるには、海上でなく陸づたいに。」と息子に伝えた戦略であったのかも知れません。実際、当時のローマ軍は、ガリア地方(現在のフランス)の防衛は手薄であったのです。

(下図は、ハンニバルのローマへの進攻図)

  また、親子2代の決意、それぐらいの執念なしには、あのような前人未踏の難行を決行するのは説明できないように思います。上の「ハンニバルのローマへの進攻図」を見て頂くだけで分かりますが、ハンニバル軍には、アルプス越えの前にエブロ河、ローヌ河の「渡河」、それにピレネー山脈越えという難事業が待ち構えていました。特に、ローヌ河の大軍での渡河は、流れの穏やかな渡河地点を見つけ、いかだ作りに必要な樹を伐採し、その周辺に住んでいる多数のガリア部族の襲撃に備えながらの難作業となりました。また、ガリア地方に住む数多くのガリア人に対しては、金銭で懐柔できる場合、懐柔したガリア人から周辺地域やローマ軍の情報を得、またやむを得ない場合は、力で押しつぶしす、という対処方法でハンニバルはガリア地方を行軍していったのです。


  「アスプス越え」直前のローヌ河の渡河時点で、ハンニバルの軍勢は歩兵騎兵合わせて四万六千人に。カタルヘーナ出発時より半数以上もの軍勢を失った計算になります。しかし、行軍途中の軍の損失も、ハンニバルはある程度は予期していたようで、つまりは、ローマ軍撃破の精鋭軍を創るための選抜試験と考えていたようです。


  このローヌ河渡河後、ローマ(そして、本国カルタゴ)はハンニバルの真意(アルプス越え、そしてその後に続くローマ進攻)がわかったようです。ハンニバルがどのルートを通ってアルプスを越えたのか、は現在もわかっていません。しかし、その行軍は困難を極めました。アルプス山中には、いつ襲ってくるかもしれないガリア人を警戒するため、象(この時点でまだ30頭ぐらいは健在だった)を先頭に行軍し、谷底が待ち構える崖の細道を通るハンニバル軍。


  「象は勘のいい動物で、危険な場所に来ると動かなくなる。それを歩兵達が動員されて、前に進ませようと押す。だが、落下の危険は至る所にあり、足元を誤った象や荷車が、人間を道ずれにして谷底へ消えて行った。断末魔の叫びが、曇天を突き抜けて聴こえて来るたびに、後方を進んでいる騎兵たちの心までが暗くなった。」(P116)


  さらに、冬のアルプス山中のこと。当然、一日の行軍スケジュール後、兵士たちを元気づけようにも宿営施設の設営場所さえありません。「山岳民が使う避難所や要塞に出会えば、神々の恵みとさえ思えた。多くの夜は陣幕を張る場所さえ見つけられず、それらを身体に巻き付けて風と寒さを防いだ。焚火はしたが、暖を取るまでは不可能だった。総司令官ハンニバルも、一傭兵と同じく凍りついた食をのどに流し込み、一傭兵と同じに崖下で仮眠をとった。」(P同)


  この苦難の甲斐あってか、アルプス越えの登り九日目、イタリアを一望する峠にさしかかるハンニバル軍。「あそこはイタリアだ。イタリアに入りさえすれば、ローマの城門の前に立ったと同じになる。アルプスを越え終わった後で、一つ、二つの戦闘をやれば、我々は全イタリアの主人になれる。」とハンニバルは全軍を鼓舞したと、伝えられます。


  しかし、この後の下りは、登り以上の難事が待っていました。地表は凍りつき、その上に新雪が積もった場所に足を踏み込むと下の氷で滑ってしまいます。さらには雪崩の危険もあります。「一度などは道が完全に雪崩で埋まってしまい、それを切り開くのに一日足止めになった。荷車や象の通過が無理な場所では、崖の岩まで切り崩して道を広げたことさえあった。登りの時以上に、兵が寒さと疲労に耐え切れずに道端から動かず、ある者は足を踏み外して谷底に消えた。何頭もの象も、同じ運命をたどった。」、、、


  ハンニバル軍がこのアルプス越えに要した日数は15日、このアルプス越えが終った時点でのハンニバル軍は、歩兵二万と六千の騎兵の計2万6千のみ。つまりローヌ河渡河後のアルプス超えで二万もの軍勢を失ったハンニバル。しかし、この過酷な選抜試験に生き残った精鋭部隊のこの後の活躍は、彼が峠で語った言葉通り、ローマを恐怖に陥れるに十分なものとなりました。


  そして、このハンニバルの進撃を食い止めるには、ローマは若き将軍スキピオの登場を待つことになるのです。

(下:ハンニバル将軍)