第13回目 ミャンマー モールメン 2019年5月
1:依頼
私は、英霊の依頼12回目タイ王国での出来事を通じて、ランパーンでの日本軍の動きに興味を持った。思っていた以上にランパーンは、日本軍の駐屯地としてビルマへの重要な中継地点となっていた時期があり、飛行場も拡大し、多くの軍備がなされていたようでした。そんな資料に目を通していくうちに、一人の兵隊が声をかけてきた。奈良という言葉を添え、私の意識をビルマ南方へ引っ張っていきました。
私の意識が導かれた場所は、ビルマ(現ミャンマー)のモールメンでした。現在は、モーラミャインと名を変えている。
そこで、奈良と述べた兵隊が、どのような素性であるのか気になり、ネットで調べ始めました。すると、一つの部隊名がすぐに浮かび上がってきました。歩兵第138連隊。この部隊には情報収集班・光機関といった言葉が見え隠れしていました。聞きなれない言葉だ。資料を読んでみると、インド側のディマプールやコヒマでの軍のルート開拓の為、諜報活動していた節があったようでした。当然、こういった活動?は、全体のごく一部であることだと思いますが、詳しいことを知る由もなく、奈良というキーワードから歩兵第138連隊という部隊を見つけ、所在について、モールメン北方という文字が目に付いたことから、奈良から始まったキーワードは、モールメンに関連するものであるという裏付けが取れました。
2:「5」
2018年9月に声をかけられ、モールメンが次の依頼先であることは、なんとなくわかったが、2018年12月末にかけ、日本の兵隊の帰還依頼への動きは強く無かった。切羽積もるような押しもなく、我々家族は2019年、平穏な正月を国内で迎えることが出来ました。
2019年に入り、兵隊の押しこそ、強くはないが、コンタクトは続いていました。記録に留めていないので忘れがちだが、2019年2月頃には、具体的な数字が見えていた。
「5」
これは何を意味しているのかは、すぐにわかりました。5月に次の英霊の依頼は実行されるということだと。私は、状況を窺うことにした。自分を取り巻く環境を顧みると、それが可能なのかどうなのかという疑心暗鬼な心が、いつもご同行して頂いているF氏と妻に伝えることが出来ませんでした。が、2月以降、奇妙な出来事は続きました。
1例を挙げると、明け方だったか、はっきり覚えていないが、日本の兵隊が夢うつつに現れ、「準備をなさってください。忘れないでください」と激を飛ばされました。夢とは違い、現実に言いせめられた感覚が残っており、朝からドッと疲れました。やはり、言われたリマインドの言葉が自然と数字の「5」をイメージさせました。しかし、私は、「それは無理だ。(自分を取り巻く状況〈仕事〉を考えると)行けない行けない」と思っていました。
3:存在
いくつかのビジョン・映像を見せられることが多くなってきました。その中には、私が英霊の依頼続行についての悩みに沿ったものがありました。
一人の兵隊が、私の傍に現れました。彼は私に、前世の死と今に至る映像を私に見せてくれました。その上で、私に選択権があるということを教えてくれました。全てにおいて、私自身が自由に決めることが出来るとのこと。そして、英霊の依頼を続けることも、たくさんの選択肢の一つであり、私の自由裁量で決められることを伝えてきました。私は、若干窮屈な環境から自由を得たような気分になりました。
「あなたは兵隊ではないですよね」
私の問いに対し、兵装をした無反応な男性は、不毛な悩みから、私の意思を尊重して下さる存在でした。
4:決行に導く英霊達
ある兵隊と他数名が私にコンタクトを取ってきていました。そんな彼らを考えると私はなんとか行けないものかと心境に変化が起こり、2019年4月初旬、妻に同年5月にミャンマーへ渡航することを相談したが、家庭環境を考えた時、それは厳しく、8月にしましょうという話に至り、私も仕方ないかとそれに同意しました。
4月下旬某日、妻が留守をしていた時、先日現れた時と同じ兵隊が再び現れました。私は彼らの動き、気概に動かされることとなりました。私は、妻には内緒で、一人で行くことを決めました。が、一人の男性とビジョンの中で目が合いました。黄土色の土壁のような空間で暗がりの中の明かりが彼の左顔を灯した。彼は眼鏡をかけ、私を一瞬見つめていました。その一瞬が、とても長く感じるほど、彼の意識が強く印象に残った。そんな経緯から声をかけなければならない男性を理解しました。
5:英霊の依頼を継続する為に
私は、過去4回ご同行して頂いていた北海道のF氏にメッセージを送りました。5月に遂行する英霊からの帰還依頼実行に同行可能かとの打診でした。いくつかの日程が可能であると、具体的な日程・期間を提示し、参加同意の意思を示して下さいました。私は彼から受け取った同行可能な日程を眺めながら、五月下旬にすることにしました。F氏と話し合いを続けながら、ミャンマーでお世話になっているN氏に連絡を取り、N氏スタッフと現地移動における宿泊・車・ガイドの手配に尽力を注いで頂きました。そして、ミャンマーでいつもお世話になっているミャンマー人ガイドのウェイン氏のスケジュールも確認しましたが、問題なく参加出来るとのことで、今回も必須メンバーが揃い、旅行マネージメントはN氏にお力をおかりすることとなりました。いつもながら、事はスムーズに進みました。
その中でF氏がペグーの訪問を提案してきました。私的には気に留めていなかった場所だけに、時間的に余裕があれば、伺いましょうということでF氏の提案に同意しました。もし、必要な場所であれば、自然と訪れることになるのが常であったので、そこは、F氏も承知して下さいました。
そんな我々の意に沿った旅行プランをN氏スタッフが手際よく組んで下さり、英霊からの帰還依頼が今回もスムーズに行われることを感じていました。この行為を無駄にせず、一人でも多くの英霊の皆さんを帰還させたいという思いに、F氏とともに一枚岩となることで決意を固めることに致しました。
全ての段取りが整った後、妻に13回目の英霊の依頼実行について、話をしました。当然のことながら、「ダメだ」と言われましたが、何かを察したかのように、急に「わかりました」と承諾を得ることになりました。これで12回目まで続いた、英霊の依頼は、妻抜きの回となることが決定しました。不服な部分はあると思いますが、子供のことを考えると、いつまでも夫婦二人揃って、長期間の海外渡航は、現実的に厳しいものになりつつありました。もしかしたら、今回の依頼の為に北海道のF氏、ガイドのウェインさん、ミャンマーにおいてサポートして下さっているN氏並びにスタッフの皆さまが、この活動において力を発揮されているのかもしれません。とにもかくにも、13回目の英霊の依頼の継続に繋がる答えを見出したことに納得をしました。
6:2019年5月19日 ミャンマー入り
F氏は成田空港から、私は関西空港から飛行機に乗り込み、到着空港ヤンゴンにて、合流を果たしました。空港には先に到着していたF氏とミャンマー人ガイドのウェインさんが空港出口にいて、笑顔で待って下さっていました。実に2年3か月ぶりのミャンマーでの再会となりました。フライト疲れの我々は、ヤンゴン市内にある日本のスーパーホテルに到着、軽くミャンマーでの再会をホテル一階の居酒屋風日本食レストランで祝うことになりました。F氏とはインド・インパール以来での英霊からの依頼活動。その間、実に1年半弱、空いていたことになる。前回のタイ王国における英霊の依頼にご参加して頂かなかったので、私ども夫婦の事情があるにしても、大変、申し訳なく思っていました。今回は、その分、F氏と二人で、この活動に従事出来ることを喜びました。共に、一人でも多くの日本の兵隊方を日本へ連れて帰るお手伝いがしたいという思いがあるからこそ、ここに存在していることを確認する為の夜の晩餐会でした。
7:5月20日 モールメンへ移動
前日、待ち合わせしていた時間にホテルロビーに降りると、F氏・ウェイン氏がすでに待っておられました。さっそく手配して下さっていた車、アルファードに荷物を乗せ、モールメンへ向けて出発となりました。ヤンゴンからモールメンへは車移動で5時間ほどかかるということでした。途中、英霊の依頼2回目で訪れたシッタン付近を通るということで、記憶を辿りながら見ていましたが、道が立派に舗装され、風景が大きく変化していたので、全く記憶が役に立たず、英霊の依頼2回目の合流地点を確認することが出来ませんでした。気にせず、先に進むが、途中、気になる場所はありましたが、車を止めることもなく、モールメンへ向かいました。
いよいよモールメンに入るという頃、目の前にサロウィン河にかかる橋が見えてきました。既にこの時から、日本の兵隊の気配を感じ始めていた私は、言葉にならない気持ちで胸がいっぱいになり始めていました。
「我々がモールメンに来たことに気づき、どこからか見ている。うまく合流を果たさないと」と緊張感が自然と張り詰めてきました。
ホテルの到着したのが、早かった為、まだ時間がありました。まずは、こちらの土地神様にご挨拶をしたいとガイドに言い始めた時、私は、すでに誘導が始まっていることに気づいていました。ガイドのウェイさんが「どのようなお寺にしましょうか?」と質問をしたとき、「高い眺めのいい場所にあるお寺でお願いします」と無意識に話していました。ガイドとドライバーさんは、見晴らしのいいモールメンの市内を一望できるお寺へ向かって車を走らせました。その時、多くの日本の兵隊方が、我々が向かうお寺に集まってきているのが見えました。車を止め、お寺の境内にエレベーターで上がり始めた時には、皆が本堂の手前で待ち受けていました。「依頼があってからずいぶんと月日が過ぎてしまったが、こうして会えることが出来た。日本へ帰りましょう。遅くなり申し訳なかった」と言葉をかけました。
今回、合流した日本の兵隊方の為、F氏もタバコを吸い始めていました。手を合わせ、英霊への敬意と慰労の想いを持って、黙とうをされていました。こうして、2日目にして、モールメンでの英霊の依頼を無事合流という結果に繋げることに成功しました。
合流後は、慰霊でお米を炊きたいというF氏の希望で、現地で人気のあるオーシャンマーケットにて、ガスコンロや日本の食器類を購入しました。こういったことに労力を惜しまないF氏の行動にはいつも感服するのみでした。
その夜は、ホテル近くの中国料理店で食事をとりました。どれも美味しく、今回も用意しておいた、日本のカップラーメンの出番はなさそうでした。食事を終えた我々は、明日の目的地タンビュッザヤへ向け、早めの就寝を取ることにしました。
8:5月21日 タンビュッザヤ 進むべき条件
6時に起床し、F氏と朝の1時間散歩をし、街の様子を確認していました。
ホテルに戻り、朝食をとると、F氏は部屋に早々に戻り、昨晩購入したガスコンロで、日本のお米を炊き始めました。準備を整えた我々は8時過ぎにホテルを出発。タンビュッザヤに向かうことになりました。ここは戦時中、お隣のタイ王国にいた日本軍がビルマ入りをする起点となる電車の駅があった場所。今も現役で列車は運航されているようでした。モールメンからは1時間前後ほどの車移動で到着することが出来る距離。車から降り、駅を散策するが、日本の兵隊方の気配は感じられなかった。日本軍が使用していて地下壕にも入ったが、匂いがきつく、ぞっとしたが特に気になることもなく、すぐに出てきました。この後、タンビュッザヤにある戦争博物館へ訪問。気になる出来事がありました。私は、泰緬鉄道に従事、ひどい労働条件の中、殉職された方々に、そして、ビルマで敵味方無く、命を落とした方々への謝罪と慰霊をしたいと思いました。ミャンマー人ガイドのウェイさんに相談させて頂き、連合軍の墓地と、泰緬鉄道で殉職された方々への慰霊碑のあるお寺へ伺ってもらうことにしました。これが無ければ、私はこれからの英霊の依頼は続けられないと思いました。
9:連合軍からのメッセージ
連合軍墓地には博物館から程なく到着しました。墓地に足を踏み入れた瞬間に連合国軍側の兵士たちの存在を感じました。しかしながら、彼らの魂は非常に穏やかで我々を温かく迎えてくれたように感じられました。
すると、彼らの思念が返ってきた。「戦争においては、お互いの正義の為に起こった出来事。気に病むことは無い。お互い様であったということだ。それに君がしていることを、我々は見守っているよ。我々にとっても貴方が迎えに来ている日本の兵隊方は大事な存在でもあるのだから」伝わってきた思念の意味は、あの世では日本軍の兵士の魂は連合国軍であった方たちにとっても大切な家族の一員であると言いたいのだと感じました。連合国軍側の魂から、あの世で日本軍・連合軍などという区別の世界はなく、一つの大きな存在となっていることを感じさせられました。お互いが相容れない状態であるという考え方はこの世にいる我々の考え方であって、あの世ではそのようなものは存在しないことを教えてもらった気がしました。
この後、泰緬鉄道に従事した方で殉職された方々を対象にした日本人が建立した慰霊碑にも立ち寄りました。お寺の関係者にガイドのウェインさんから事情を話して頂き、短いものではありましたが、法要を営んで頂きました。我々一同、黙とうを捧げ、ご住職のビルマ人および泰緬鉄道工事に関連したビルマ人以外のこの戦争の被害者に対する慰霊を届けることにしました。少しでも魂の傷を癒すことがせめて我々全員に出来ることではないかと。
これは、私がタンビュッザヤ戦争博物館にてビルマの人々に対する思いが強く生じたからでした。そして、これを日本人が建てたということは、それなりのことがあったということを証明しているはず。私の中に生じた思いは、おそらく、この慰霊碑を立てた日本人の方々の心情と同調していたからだと思います。私やF氏の思いがこの戦争で亡くなった多くのビルマ人の方々に届き、日本の兵隊方が泰緬鉄道工事で行った行為でわだかまりになっている思いを少しでも和らげることが出来ればと、真摯に向き合い手を合せました。そして、同行しているウェインさんにも、我々日本人の思いを少しでも感じて頂ければと思いました。F氏も今朝、用意した日本食をこの慰霊碑に誠実にお供えされていました。
10:気配と喜び
まだ日が暮れるまでには十分過ぎるほど、時間があるということで、サルウィン河上流の探索に行くことにしました。カドという場所に行ってほしいとガイドのウェインさんにお伝えしたのですが、その上方にあるトナインという村付近に入り込んでしまいました。その村の細い道を車でゆっくりと走らせながら、河川に近い場所で車を止めて頂き、サルウィン河へ徒歩で進むことにしました。すると、何故か兵隊さんの気配と喜びに満ちた感情を感じ取ることが出来ました。そして、次の日は目の前の川幅の広いサロウィン河でボートで回ってみましょうということになりました。
11:5月22日 モールメン北方 カド
朝、昨日同様、F氏が日本食を準備されていました。F氏は山登りといったアウトドア経験に加え、海外での過酷な生活をこなしてきたタフな方で、この旅の中で徐々にお米の炊き方を淡々と準備されていました。
この日の目的地のカドという町はモールメンからサルウィン河に沿って車で数十分遡った河川沿いにある町で,以前、水上輸送業でイギリスの会社と商売を競っていたぐらい商売で賑わっていた場所でした。そして、戦時中は、日本軍の進軍ルートとしても一時滞在していたことがあったそうだ。数は総勢400-500人程度。現地の高齢者に聞くと、この街からサロウィン河対岸の陸まで船を使うと容易に行けたようでした。私は、日本にいる時、このルートを知ることになり、是非、その場所へ伺ったみたいと思っていました。私はガイドのウェインさん・ドライバーにお願いをして、この場所へ向かってもらうことにしました。昨日同様、サロウィン河近辺の村には細い道しかなく、手配していたアルファードが容易に走行できる道幅ではありませんでした。そんな道中、一つの大きな寺院が目に入りました。言い方は悪いが、このような小さな村に似つかわしくない立派な建物と広大な敷地が目に飛び込んできて興味をそそりました。
寺院に足を踏み入れると、やはり境内が広く、とても清々しい雰囲気のある場所でした。居心地がよく、いつまでも居れるようなそんな気持ちにさせられました。そして、ガイドさんの計らいで、ご住職とお会いし、戦時中のことを知っていそうな村の古老をご紹介して頂きました。我々はさっそく、その方の家を訪問。そこには94歳になる男性の方がおられ、無理をいってお邪魔させて頂けました。我々は、戦時中のお話を伺えないかとお願いをすると、快く承諾して下さいました。はじめは、あまり話したくないのかなと思っていましたが、過去の記憶を呼び起こすのに時間を要したようで、時間の経過とともに徐々に口数が増えていきました。以下は同行したF氏が、現地古老のお話をメモに残して下さった内容になります。
・ウーライン氏、船を作っていた、公務員、独立後の1947年にヤンゴンへ
・此処の村は野菜づくりが盛ん、小舟に乗って売りに行った、漁業は野菜栽培の下、河を渡り易い処に位置する村、ミャンマーの人は河を渡る際は汽車で渡っていた、当時は河の流れが今より早かった
・17歳の頃(1943年?)に日本兵が500人位来た、兵隊は銃のみ携行していた、一箇所に滞在せずあちこちに移動していた。4-5ヶ月滞在し、居なくなった、日本兵が来たら村内の物盗りが居なくなった、悪い印象無い、小さいエンジンで河を渡っていた、ヤシの実を採る様に命令された、残留日本兵が村内の女性と結婚しモールメンへ引っ越した、爆撃受けた
・村内の仲間が鉄道建設へ行った、生きて帰る人/現場で死んだ人、仕事が厳しく食料も少なかった
お話中はその古老のご家族も同席していて、とても気さくな雰囲気で、笑顔で我々を迎え入れてくれていました。非情に穏やかで村人の温厚さを感じる時間となりました。
12:サルウィン河遡上
古老宅を出た我々はサロウィン河に一番近い場所に移動。そこから徒歩、数十メートルで川岸に到着しました。ガイドが、船をチャーター出来るかを船頭に交渉。このような頼み事は、船頭も初めてのことだったようで、値段決めで少し困っていたようでしたが、得もないような値段を提示したようでした。
さっそく、私・F氏・ガイドのウェインさんと順に乗船し、船を上流に向かって移動し始めた。河の流れは、思った以上に穏やかで、現代であれば、渡河に関しては比較的簡単に感じられました。とは言え、兵装した人間にとっては、どんなに穏やかな河であっても、非常に持ち物が重たく、困難で厳しいコンディションであったことは間違いなかったはずだと思いました。
船での移動は、ホマリンに訪問した時の記憶を蘇らせました。特に日本の兵隊方の思念を感じることも無く、疲労感が増してきたころ、昨日、下見で訪れた岸が見えてきました。
何気なしに昨日訪れた時のことを思い出しました。「たしか、兵隊の気配はしたが、現れなかった。が、喜んでいた」私は気になったので、船を昨日訪れた場所方面へ進めてもらいました。中州を超え、細い川を下り始めた時に、かすかに誰かに声をかけられたような気がしました。私は見渡したが、何も見えませんでした。が、一つの良い場所を見つけ、その岸へ船をつけてもらうことにしました。そこで、戦時中、亡くなったであろう日本の兵隊方の為に、F氏の用意して下さった日本食を供えることにしました。この後、なぜか私は急に体調を崩すことになりました。
13:パーンにて束の間の休息
陸に戻ってきた我々は、お腹も減り、地元の屋台レストランへ行きました。相変わらず、ハエが多く、慣れない私でしたが、昨晩から2食抜いていたので、食欲が勝りました。が、胃が小さくなり、そこそこの量しか食べれませんでした。
それからは次の宿泊地のパーンへ移動。炎天下の屋根なしの長時間水上移動が効いたのか、そのまままっすぐホテルに直行しました。ホテルはとても素晴らしく、コテージになっていました。ご褒美のようなゆったりした空間できつかった水上移動での疲労を労うことにしました。
その日は、お昼が遅かったせいか、夜は抜きにしようということになりました。が、F氏のコテージでガイドのウェインさん、私と3人、お酒を飲み、のんべんだらりとゆっくりさせて頂くことになりました。しかしながら、サルウィン河の慰霊地の後、私は熱を持ち、下痢をし始めまていました。私は、なんとなく、当時の兵隊がかかっていたマラリアを体験させられているような気持ちになりました。もし、今の状態がそうだとしたら、私は彼らの苦しみを体験しているのかもしれないと思い、とにかく、自分のコテージのベッドに戻り、ブランケットに包まりながらガクガクと震える歯を噛み締め乍ら、身体を温めるようにしていました。このことは、他の人たちには言わないことにしました。何故なら、一時のことのように感じさせられたからでした。
『ひょっとしたら、当時の兵隊方がかかっていたマラリアを私に知って欲しいのかもしれない』
亡くなった兵隊方は、自分の存在と状況を伝えたくて、生きている人に対して疑似体験させてくることがあります。ですので、私はきっと、彼らの体験したことを知って欲しいのだと思いました。
明日の予定ですが、すでにモールメンにわざわざ戻る必要も無かったので、我々は、F氏が提案していたペグーへ訪問しようということで話が纏まっていた。いつものように旅行を手配してくださっているN氏スタッフにお願いをし、次の宿泊ホテルをモールメンからヤンゴンに変えて頂きました。ホテルのキャンセル料は100%で少しもったいない気がするが、この旅は全く先が読めないのが非常に難しいところであるなと痛感しました。先を読んであれこれすれば、何かが失敗するようなそんな気がするので、こればっかりは残念に思うしかなかった。
14:5月23日 ペグー
さて、大方、ミャンマーでの仕事を終えたわけでしたが、なんだかそれだけでは終わらない雰囲気を感じていました。起床し、ホテルの朝食を皆で頂いていました。パンがとても美味しく、F氏が残されたクロワッサンも頂くことにしました。ガイドのウェインさんが、焼き飯もありますよと言われましたが、遠慮することにしました。あまり食べ過ぎると、トイレに行かなければならなくなり、出来るだけ、食べすぎには気を付けた。でも、よくよく考えると、ホテルがわざわざ焼き飯の用意があると言ったのは、ウェインさんが、ホテルに私の食べ物の好みを伝えていたからだったかもしれないと後で気が付きました。出来ているなら、少し頂いておけばよかったと思いましたが、時、既に遅しでした。
ホテルを後にした我々は、パーンにある大きな寺院へ立ち寄りました。ここにはスピリットハウスなるものがあり、そこは日本軍の慰霊碑であるという情報をウェインさんが仕入れてくれていました。さっそく、朝一に伺ってみましたが、何も日本の兵隊の気配を感じないうえに、祭られていたミャンマー人男性が日本人の生まれ変わりだという迷信に近いようなあやふやな話を聞くことになるに留まりました。
ここから本格的にペグーに向けて車移動を開始。無事、日本の兵隊の慰霊碑があるというお寺の境内に到着しました。学校が併設された境内の一角に日本の兵隊の慰霊碑がありました。このお寺に来てから、日本の兵隊の気配を感じたので何かあるなと思っていました。慰霊碑の前に立ち、慰霊碑への門扉の鍵を待っている間に、日本の兵隊が現れ、立ち寄ることを提案して下さったF氏に御礼を伝えたがっているのがわかりました。私はそっとF氏に触れ、そのことを伝えると、F氏はより一層気を引き締められた様子で慰霊碑の門の中へ入って行かれました。
我々は慰霊碑の敷地内に入り、清掃を始めました。長い間そのまま放置されていた様子で、訪問者の居ない慰霊碑なんてこんなものだなと思いました。そう思うと、自然と我々は清掃を始め、せめて日本食を供える前に綺麗な場所にしたいと思いました。清掃を終えた後、F氏がご用意していた日本食を供え、ろうそくに火を灯した。私が持参していたお酒がここで活かされ、慰霊碑をこのお酒で清めることとなりました。お世話になった場所に御礼を兼ねてお酒で清め、日本に戻ろうと私は彼に伝えました。 気が付くと、この境内に併設されている学校の先生と子供が我々の様子を伺っていました。
我々はこのお寺のご住職がいる建物へと移りました。そこで改めて慰霊碑の場所を提供して下さっていることに対する御礼と帰還の許可のお許しを土地神様に向けお願いをしました。ご住職が現れ、関係者から接待(ティーとお菓子)を受けました。1杯のティーがペグーでの合流に達成感を感じさせてくれました。ご住職とお話する中、合流した兵隊が、「ひらつか、ひらつか」と何度も私に語り掛けてきました。私は驚いて、ご住職並びに関係者に「ひらつか」という言葉について何かお心当たりはないですかとお尋ねしたが、何も知らない様子でした。
この後、ヤンゴン市内へ戻り、ヤンゴン初日でお世話になってホテルへ到着。1階の居酒屋風和食レストランにてF氏と慰労会を行いました。やはり、日本食は美味しく、私はこの旅で初めてタガを外し、味噌ラーメンを注文してしまいました。
15:日本への帰国
最終日、ヤンゴンのスーパーホテルで私とF氏は、最後に最上階の大浴場に身を浸しました。が、日に焼けた身体が痛く、F氏も唸っていました。お迎えの時間が16:40でヤンゴン国際空港へ。なんだか日数はたいしたことはなかったのですが、密度の濃い英霊の依頼旅となった。この後、空港へ入ると、F氏は出発時間までまだ余裕があるので、カフェで備忘録の打ち込みをするということで、お別れとなりました。ゲートをくぐり、余ったルピーを握りしめ、私は日本のラーメンショップへ。日本に帰ればいくらでも食べられるのですが、昨晩の味噌ラーメンの味が忘れられず、再び味噌ラーメンを食べることにしました。が、スーパーホテルよりは若干味が落ち、残念な気分になりました。ここはミャンマー。これが普通だなと自分に言い聞かせました。この後、ヤンゴンを出発、乗り継ぎ先のタイ王国バンコクへ1時間のフライトを経て、深夜の便で関西空港へ旅立ちました。
次の日の朝、日本に到着すると、F氏から成田空港に到着したとのメッセージが届いていました。お互い、無事、日本に帰国出来たことに安堵しました。
この後は、いつも通り、思うところへ行ってもらえるように、日本の兵隊方に伝えました。ここはもう日本だから。
この後は、コロナが流行、海外への渡航は出来なくなりました。もし、このコロナが落ち着き、何もなく、海外に行けるようになった時、きっと、私は、ミャンマーに足を運んでいるかもしれません。それが、英霊の依頼14回目となり、日本の兵隊を助ける旅は再び始まるではないかと思っています。