僕がたましい込めて創った作品のよさを、わからないでいてくれる彼女の話
僕はややこしいことや専門用語にまみれたことを紐解いて、わかりやすく伝えるのが得意。
それはもうほんと、苦もなく自動的にできちゃう。そしてそれで人が喜んでくれるのがとても嬉しい。
そんなわけでセミナーやワークショップでは、ほんとうに重要なエッセンスだけをしっかり掴んでもらうように力を尽くしているのです。
たとえばパートナーシップのエッセンスを伝えている「好かれる勇気」っていうワークショップがあって、僕にとってそれはもうほんと、純度の高い結晶みたいな作品なんですよ。
そこで伝える知識も体験も超厳選してあって、それを受け取れるようにさまざまに工夫が凝らしてある。ハートを開いて体験してこそわかるワークをするために、その時間に向けて徐々にハートが開くようにしかけてあるとかそういう意味で。
「智」の強い僕はそのクオリティの高さに全力でエネルギー賭けてるのでした。
そして幸いなことに(自慢しますが 笑)「たくさんの本やワークに触れてきたけれど、これはほんとにすごい!!!」「国連でやるべき」「人類全員の必修科目」って目利きの人に絶賛してもらえることが結構あって、僕はそれで大いにエゴを満たされるのでした。
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ところがですよ。
僕の彼女は、そんな僕のワークショップのよさを、なんというか、まったくわからない。まったくわからないというと語弊があるな。参加者さんたちがパートナーシップをテーマにつぎつぎに目からウロコの学びを進めて、自分と他人の美しさに触れて涙する様子を目撃して、価値あるものだと認識はしてくれてる。
でも、それがどれほど磨き上げられて本質を凝縮させてあるか、細部に至るまでどれほどクリエイティブな工夫に満ちているのか、トータルでどれほどスペシャルなものなのか、そういうところはまったくといっていいほどわからない。
そういえば、その昔彼女が僕のワークショップの参加者として何度か来てくれた頃からして、「内容はよくわからなかった」とにこにこしながらよく言っていたし、「内容には興味なかったんですが、ふたこさんに会いに来ました」とかよく言っていました。
でね、僕としてはたましい込めて創った作品のよさは、その細部に宿っているんだけれど、それがまったく伝わらないと、もうねー、がっかりなんです。僕にとってはそうした作品は、僕の分身みたいなもんです。
それを「そこはまあ、どうでもいいんですが」的な扱いを受けると、まるで自分の存在をどうでもいい扱いされたような感じで、そのたびにたいそう傷ついた気持ちになるのでした。
(智や勇のパートナーを持ってる人は要注意ですよ!)
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でもこの話にはさらに続きがあって。
彼女はこの、スーパークオリティの作品のよさがわからないのに、それなのに(!!)、僕を選んで愛してる。
そのことをあらためて見つめてみると、僕にはかなり不思議な、いやほとんど混乱した気持ちになるのです。そして僕は、僕のことが好きな人は当然、この作品のクオリティの高さを気に入ってくれている、と思い込んじゃってることに気づきます。
僕としては、この作品のクオリティの高さこそが、僕の存在価値であり、愛される理由だと思い込んでしまっている。無自覚にそうとう根深く。
でも彼女が僕を選んで愛している理由はそこにはない。
彼女はそれをとっぱらって、何も持っていない僕を愛している・・・ようなのです。
それこそがありのままのその人を愛するっていうことだと、知っている部分も僕の中にはあるんだけれど、でも根深く、あの作品のよさがわからないのに僕のどこをいいと思うんだろう、みたいに思っている部分が一方にある。
幸いなことに彼女は僕の作品のよさを、徐々にわかってきたりもしてないので、相変わらずそこには関心がないままでいて、だから僕としては認めざるを得ないという状況が続いています。
そうして僕は彼女のおかげで、何ができてもできなくても、ただ僕のままで愛されるという体験を積むことができているのでした。
まあでも、僕の小さなエゴは作品のすごさをちゃんとわかって「すご〜い!」っていってほしいけどね。