人だけができること
先日のレッスン終わりでの、英語教員志望の高校生の生徒ちゃんとの会話です。
「将来、英語教員って仕事なくなるのかな?」というので、なぜそう思うのかと尋ねると「英語を使うにも、翻訳機械とか、将来もっと便利な機械が出てきたら、英語を学ばなくても英語が使えるんじゃない?ってなって、機会の知識があれば、英語の知識がいらなくなって、英語の授業とかなくなるんじゃないかなぁ。」というので、なんとも言えない気持ちになりました。その将来像は当たっているような、間違っているような、でも、どちらも可能性はありそうな、そんな恐怖にも似た感覚さえ感じました。
いやいや、違う違う!と思わず、即否定しました。
先々月、私の尊敬する英語教育の先生が、AIと人間の関係について、お話しされていたことを思い出したので、その生徒ちゃんにそれを話しました。
人工知能は、コミュニケーションが起こる場の前提を読まない・読めない、コミュニケーション相手との関係性、周囲の状況、文化的歴史的背景を考えない・考えられない、その先の意図を推察しない・できないという特徴がある。また、言葉に含まれる音声意図も理解できないため、声色に含まれた繊細な気持ちも推し量ることはできない。というお話をされていました。
数年前、翻訳のご依頼をいただいたときに、「血の通った翻訳をありがとうございます」と言われたことがありました。その言葉は、私にとって何よりの褒め言葉に感じられ、今でも私の励みになっています。
言葉に血を通わせることができるのは人だけであり、その温かい言葉を使うことが人らしくいるということではないのでしょうか。
AIを駆使することは、必ずしも悪いことではないと思います。日々、進歩している技術は素晴らしいと思っています。ですが、その力を使いつつも、人としての特徴も生かしていく意識も忘れてはいけないのではないかと思います。
「血の通った温かい言葉」を、今日も使っていきたいと思います。