「ローマの魅力まるかじり ―巡礼ルート⑦―」
サン・タンジェロ橋を渡ると、左手にサン・ピエトロ大聖堂。それに向かってまっすぐ広い通りが伸びている。「コンチリアツィオーネ通り」(Via della Conciliazlone)。「コンチリアツィオーネ」とは「和解」の意味。誰と誰が和解したのか?それは、イタリア政府(ムッソリーニ政権)とヴァチカン。1870年、ローマがイタリア軍に占領されてから教皇領は消滅し,教皇はヴァチカンの丘にたてこもって(教皇は自らを『ローマの囚人』と称した)イタリア政府と対立状態にあった。それを解決したのが、1929年2月11日イタリア政府とローマ教皇庁との間で結ばれた政教条約、ラテラーノ条約。この条約によって、ヴァチカン市国が誕生。そして両者の和解の記念として造られたのが「コンチリアツィオーネ(和解)通り」なのだ。
以前は、建物に挟まれた狭い道が2本あり、巡礼者たちはその道を通ってやってきた。そして、突然目の前に広がるサン・ピエトロ広場、大聖堂の威容に驚かされる。そういった効果をベルニーニは構想していた。しかし、その構想は未完成に終わっている。サン・ピエトロ広場を閉じる「第三の門」も建設されなかったし、広い「コンチリアツィオーネ通り」の建設のために、バロック効果は半減してしまった。開放的と言えば開放的な空間が、サン・タンジェロ橋を渡ってすぐに展開する。
それでも、サン・ピエトロ広場は見事だ。高さ13メートルの円柱(240本)と角柱(44本)が子供を愛情深く受け入れる母の両腕のように巡礼者たち、旅行者たちを迎えてくれる。ベルニーニはその構想をこう書いている。
「サン・ピエトロはすべての教会の母なのであるから、カトリック教徒を堅信のために、異端者を教会へ復帰させるために、そして異教徒を真の信仰へ覚醒させるために、母のように両腕を広げて受容することを表現した柱廊(コロンナート)」
そして中央に置かれたオベリスク。これはベルニーニ以前にシクストゥス5世によって設置された。それがいかに難工事だったか?1586年9月10日、横たわったオベリスクを立ち上げるのに要したのは、巻上げ機44台、馬140頭、人足800人。その様子は、この仕事を成功させたドメニコ・フォンターナの版画で知ることが出来る。
(サン・ピエトロ広場[ベルニーニのプラン、ファルダの版画])
(サン・タンジェロ橋~サン・ピエトロ大聖堂)
「コンチリアツィオーネ通り」(Via della Conciliazlone)
(現在)
(1937年以前)
(サン・ピエトロ広場のオベリスクとサン・ピエトロ大聖堂)
(「オベリスクの移動」ドメニコ・フォンターナの版画)
(ベルニーニ「自画像」)ボルゲーゼ美術館)