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Okinawa 沖縄 #2 Day 210 (10/09/22) 西原町 (13) Amuro Hamlet 安室集落

2022.09.12 06:43

西原町 安室集落 (あむろ、アムル)


桃原集落から安室集落に移動する。移動と言っても、二つの村はシームレスに隣接しているので、少しだけ進んだだけだ。安室の民家がある集落は小さいので、まずは公民館に行き、自転車を置いて徒歩にて巡る事にした。



西原町 安室集落 (あむろ、アムル)

安室は、兼久川の上流域、運玉森北斜面の麓に位置する小さな集落で、集落の北側に肥沃で広大なサトウキビ畑が広がっている。昔から「安室 桃原島隣い」と二村併称され、安室集落は桃原に隣接している。 集落の東側が丘陵地になっているため、民家の大半が西向きに立地している。 各家の屋敷は公民館を中心に碁盤目状に整然と区画され、近世にできた集落であることが窺える。主にサトウキビやイモなどを栽培していた。安室は農村ではあるが、専業農家はいたって少なく、多くは兼業農家だそうだ。

安室集落の発生は古く、グスク時代までさかのぼる。 村落の発祥地と思われる佐久間原散布地から硬質のグスク系土器や輸入陶磁器などが若干採集される。安室にはオンタマノ嶽と佐久間ノ嶽の二つの御嶽がる。この事から、御嶽を腰当て (クサティー) としてその下側に二つの集落があり、その後、統合されたのが安室集落と考えられる。グスク時代以降、何回か集落が移動したとも思われる。現在の屋敷が碁盤目状に区画整理がされている事から、現在の集落は肥沃な宅地を早田にし、住居を痩せ地に移住させた農業改革以降に移動してきたと思われる。

琉球千草之巻によると、安室村の世立初は「中城 安谷屋より来る安室大主在所」とあり、地組始は「西原 棚原村より来る安室子」とある。地元の伝承では、安室の根屋は安室大主の子孫と伝わる下庫理門中の宗家の崎間家とある。安室にはシチャグイ (下庫理) とかカキブク (掛福) などのつく屋号が多く、かつて首里王府の役人や地頭代を出した家柄が多いことを示す。それら士族は池田平安佐付近に寄留していた人たちだと思われる。池田が昭和初期に一行政区として独立するまで、小字の田味名原、我喜又原、西佐明原、東佐明原、赤森原などは安室に帰属していた。

安室には五つの主な門中があり、最も古く部落の創始家といわれるのは佐敷間切津波古村から移ってきた下庫理門中の崎間門中で、その他の門中は、内間の糸数門中からの分かれの仲西門中、我謝の宮平腹から分かれの宮平門中 、首里から宇久門中になる。現在の安室では下庫理門中と仲志門中らの親族が多数を占めている。


安室集落は沖縄戦では米軍の運玉森の日本軍陣地攻略戦の戦地になっていた。安室集落は他部落と較べて戦没者は少ない。戦没者は82人で、全人口の35%になっている。確かに他の集落と比較して少ないのだが、それでも三人にひとりは犠牲になっている。常識的に見るとかなり高い戦没率だ。他の比較では安室では一家全滅の率が最も低くなっている。1945年 (昭和20年) 6月、沖縄戦が終盤には安室集落住民は各地の収容所に分散収容された。翌年には我謝に帰還許可がおりたが、安室には移住許可が下りず、しばらくは我謝区での生活を余儀なくされた。1947年 (昭和22年) 4月ごろから安室に居住できるようになった。戦後のスクラップブームを経て住民らの生活も安定し、運玉森へのゴルフ場新設に伴い、婦人らの働き口も増え、農業一辺倒から脱却し兼業農家が増えていった。

廃藩置県後の明治13年当時、安室村は戸数77戸、人口348人だった。 明治36年には寄留士族らの転入により戸数、人口は増加し458人 (89戸) になっている。それ以降は安室は交通の不便という事で、人口は減少し、昭和初期には池田が安室、桃原から独立した事もあり、232人と半減している。戦後は更に人口は減少し、人口は増加するのは1972年の本土復帰以降になる、1908年 (明治36年) レベルに戻るのは2016年で、その後は横ばい状態となっている。

西原町の他の地域と比較すると、人口の伸び率は桃原と同様に、かなり低い。他の地域が人口が増えていった事で、安室は地域内で人口の少ないグループに属している。


琉球国由来記に記載ある安室の拝所

  • 御嶽: オンタマノ嶽 (神名: スズ御イベ) 、佐久間嶽 (神名: アマ君アマヂヤラノ御イベ)
  • 殿: 安室之殿
  • 拝所: 安室火ヌ神
  • 拝井泉: ターガーガー (産井泉)、ヒラカーヌシチャヌカー、タカムイヌシチャヌカー


かつては、安室では五穀豊饒を祈願しての綱引や八月アシビなどの年中行事が行われていたが、現在では五月ウマチー、六 月ウマチー、御願解き (ウガンブドゥチ)、十五夜などに限られている。琉球王統時代には、村の祭祀は我謝ノロによって執り行われていた。

綱引は約100年前までは行われていたが、綱引の時期になると、部落を二分しての激しい争いが起こり、部落民協議のうえ綱引は取りやめになった。十五夜の八月アシビも今から80-90年前までは毎年行なわれていたが、その後、七年マール (毎) になり、戦後は取りやめになっっている。八月アシビでは集落独特の組踊「チャンクウフヌシ (喜屋武久大主)」現が上演され、その組踊や雑踊、狂言などの練習のために、三カ月も前から運玉森にこもり、稽古に励んだといわれる。そのため、他部落の人々から「アムルンチョー、アシビトゥンマニ、ウチフリトーン (安室の人たちは村芝居や競馬に夢中になりすぎる)」と言われていた。


安室集落走行ログ




安室自治公民館 (村屋跡)

村屋 (ムラヤー) だった安室公民館は集落の中心部にある。珍しく公民館が開いているので、中にいる人に自転車を置かせてもらいたい旨を伝える。60才後半ぐらいの男性だった。集落巡りをしていると伝えると、丁寧に安室集落の説明をしてくれた。その話については、これから訪れるスポットに書き込む。この公民館は1983年 (昭和58年) に集落有地だった安室高森 (アムルタカムイ) を売却した資金で、鉄筋コンクリート平屋造に改築されたもの。公民館の前庭には、戦後、集落内の連絡用に使っていた酸素ボンベの鐘と若者達が力比べをした大小二つの力石 (チチイシ) が置かれていた。

公民館の前は広場になっている。アシビナーだったのか?広場には井戸跡もあるので有力門中の民家だったのだろうか?


根屋 (ニーヤ) 神屋

男性が説明してくれたのがこの神屋で、公民館の裏側にある。先主 (サチヌシ) の屋敷跡だったそうだ。先主 (サチヌシ) は先代などの意味もあるが、ここでは村立てをした家の事で、安室集落の根屋 (ニーヤ) で下庫理門中の宗家、西原間切で唯一の鍛冶屋だった崎間家の屋敷だった。崎間家はおよそ380年前安室に居を構えた安室大王の子孫だと伝わっている。崎間家は佐敷の仲伊保に移り、現存は神屋だけが残ってい る。


ターガーガー (イーヌカー、産井泉)

男性と話していると、安室は小さく見るべきものはほとんどないと申し訳なさそうに話していた。このターガーガーは集落の拝井泉で、集落の奥にあり、井壁布積みにした半円形の掘り抜き井戸だった。現在はコンクリートで補修された長方形の形をしている。上ヌ井 (イーヌカー) と呼ばれる産井 (ウブガー) で、5月ウマチー、旧八月十五日に御願のほか、正月の若水もここで汲んでいたという。


ヒラカーヌシチャヌカー

ターガーガーは集落の南の端だったのだが、そこから村を外れた南への坂道沿いにヒラカーヌチャヌカーがあるそうだ。ここにはかつてはヒラカーの屋敷があり、その中に集落の中でも古い井戸だそうだ。資料では戦前までは原形を留めていたが、現在はコンクリートの筒が置かれているだけだで、各門中で御願が行なわれているとある。敷地は空き地となって草が深く茂っており、コンクリートの筒は見当たらない。草に覆われているのだろう。男性によると今は村では拝んでいないそうだ。


井戸跡

集落内を歩いていると、井戸跡があった。資料には載っていなかったし、香炉も置かれていない。水も枯れているのだが、このように大事に井戸跡を残している。かつてのこの井戸に世話になった住民が拝んでいるのだろう。集落にはこのように役目を終えた井戸跡が残されている。水道が敷設されたのは戦後昭和30年代で、それまでは井戸を使っていたので、水のありがたさを知っている世代が、残しているのだ。


安室之殿 (アムルヌトゥン)、安室火ヌ神

集落の北の外れに安室之殿 (アムルヌトゥン)があり、火之神 (ヒヌカン) も併設され祀られている。この二つの拝所は、安室の御願所として琉球国由来記 (1713年) にも記録が残っている。集落の北側に安室の殿がある。稲二祭 (ウマチー) の際には、我謝ノロによって祭祀が執り行われていた。2年前にもここを訪れている。その時は草が生え放題だったが、今日は綺麗に草がかられている。公民館で話した男性が今日朝から草刈りをしていたのだ。今日は旧暦で8月15日にあたり、十五夜 (ジューグヤ) の行事が行われる。その為に草を刈って殿と井戸への通路を確保している。西原町では年に二回は草刈りをの支援があるが、それ以外は村の有志で行っているそうだ。草は刈っても直ぐに生えてくるので、年中やる訳にはいかず、村の御願の際に行うのが精一杯だという。公民館であった時は作業が終了した後で、今夜の十五夜の準備に取り掛かるそうだ。この時期にはスーパーでは十五夜に供えるフチャギが出回っている。フチャギは小豆餅で、餅か団子のまわりにゆでた小豆をまぶしたもので、小豆が多いほど子孫繁栄になると伝わっている。


殿井 (トゥンカー)

広場の右奥には殿井 (トゥンカー) という井戸がある。こちらも草が刈られて通路ができている。殿井は、元々は現在よりも低地に造られた円形の石積みの掘り抜き井戸であったようだが、現在はコンクリート製の筒が被せられている。この井戸の水を使って神酒を作っていた。


下ヌ割製糖屋 (シチャヌワリサーターヤー)

17世紀ごろから琉球でも製糖業が盛んになり、その後、沖縄の最重要産業となっている。戦前まで黒糖生産が主で、分蜜糖は戦後になって発展した。これに拍車をかけたのは、廃藩置県後の1888年 (明治21年)、甘蔗作付制限令が撤廃され、どの地域でもサトウキビ栽培が可能になったために、各地でタードーシ (田返し) が行われ、ますます糖業が盛んになった。安室でも昔は稲作中心の農業は製糖業に置き換わり、1903年 (明治36年) では安室村の総民有地のうち、田は激減し僅か1%となり、畑が急増し75%、宅地2%、山林5%、原野16%となっていた。1907年 (明治40年)、糖業改良事務局が西原村我謝に設置、同事務局付属の製糖工場で機械化の近代的製糖が行われ、黒糖中心の糖業から分蜜糖の製造が行われるようになった。工場付近の農家も自家製造せず同工場に甘蔗を 売却するのも出てきた。安室からも三割ほどは工場に売却し、残り七割ほどは地元のサーターヤーで自家製造していた。戦前、安室に二カ所サーターヤーがあり、殿の東側のここには下ヌ割 (シチャヌワリ) グループのサーターヤーが置かれていた。殿井の水を利用していたという。沖縄戦で製糖施設やサトウキビ畑のほとんど壊滅状態となったが、1950年 (昭和25年) の糖業復興計画により、沖縄各地に黒糖や分蜜糖工場が再建され、1960年 (昭和34年) には史上最高の生産量を記録した。 ここが製糖業のピークで、その後しだいに減少し近年でも年々減少している。


佐久間ヌ嶽 (サクマヌタキ)

安室之殿から下ヌ割サーターヤーを通り、更に北側の畑の中にこんもりとした林がある。かつては松林に覆われた丘でユオーザチモーと呼ばれていた。現在は聖域ではないのだが、昔は佐久間ノ嶽 (神名: アマ君アマヂヤラノ御イベ) という御嶽があった場所で、この御嶽を腰当て (クサティ) として安室集落があった場所、いわゆる安室古島になる。17世紀の首里王府の農業政策で、この場所を農地にする為に、現在の集落に強制移住させられている。佐久間ノ嶽には拝所はないそうだ。いつの頃かはわからないが、ここの御嶽の拝所は安室之殿にウンチケーしたと男性から教えられた。ウンチケー? 初めて聞く言葉だ。拝所の移設を意味する言葉で、移設時に祭祀を伴って行うそうだ。沖縄でも今では使われない言葉だ。


高森 (タカムイ)、高森下ヌ井 (タカムイヌシチャヌカー)

安室集落の東は高台になっている。この高台の向こう側は我謝集落になる。この高台を高森 (タカムイ) と呼んでいる。丘の上の登る。広場がある。この近くに高森下ヌ井 (タカムイヌシチャヌカー) があったそうだが、井戸らしきものは見当たらなかった。


上ヌ割製糖屋 (ウィーヌワリサーターヤー)

高森 (タカムイ) の丘の上の我謝との境界付近には戦前まで上ヌ割サーターヤーがあった。ここでは甘蔗の黒糖製糖とその甘蔗搾り滓の干し場や村の子供や若者らの遊び場 (アシビナー) として利用されていたそうだ。


運玉森 (ウンタマムイ)、オンタマノ嶽

琉球国由来記には安室の御嶽がもう一つ記載されている。運玉森 (ウンタマムイ) にあるオンタマノ嶽 (神名: スズ御イベ) だ。運玉森の頂上付近に拝所が二カ所あり、西側にあるの が安室の御嶽で、南側に位置するのは大里間切大見武村の御嶽と資料には記載されていたが、この拝所の情報や写真は全く見当たらない。公民館の男性に確認すると、今は運玉森を拝所として拝んではいないそうだ。運玉森頂上には与那原から登り口はあるが、西原町からはゴルフ場で遮られているので、この男性も行った事はないそうだ。この運玉森にはここ二年間、ずうっと登りたかったので、今日この後に運玉森に登る予定だった。しかし、そこへの途中で自転車がパンクしてしまい、チューブ取り替えに時間がかかり、そのうちに気力が萎えてしまった。登山は次の機会にする。



この後、呉屋集落を巡り、運玉森に向かったが自転車パンクで運玉森登山を諦めて帰宅。夜、今日は十五夜だったことを思い出し表に出て中秋の名月を見て、月見団子も無いが一人十五夜をする。少し月の周りはぼけていたが、満月だ。


参考資料

  • 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
  • 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
  • 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
  • 西原町 歴史文化基本構想