前回の続きである。
なぜ先のモデルケースのような人物がケアマネにふさわしいのか。
その前に教育システムについて少し私見を。
人には自己と他者、そして自己と自己が参入させられている社会、それぞれの関係性の変化が生育の段階ごとに訪れる。最初の他者(母親)の認識は同時に反射としての自己の発見につながり、以後自己とは、他者とは、社会とは・・・とそれぞれの認定を人は経験の積み重ねの中で確立し、同時にその都度関係性もアップデートする。それは煎じ詰めれば情報の入力と処理作業過程でもある。そしてそれは処理能力と情報の量と質にかかっている。そこである危惧が生じてくる。これだけ情報過多の時代にこの構図をそのまま放置してよいのだろうか、何らかの管理、少なくとも研究が必要なのではなかろうか、と。
個体としての人は均一性の限りなく少ない生き物である。人は外見上も内面的にも個体差が大きい。蟻の個体差は判別しにくい。ペットショップの動物は品種が同じだと見分けは難しくなる。しかし教室の児童、生徒の一人ひとりは判別できる。教室とは個性のごった煮で個別的で雑多な運動と集団の行動システムのせめぎ合いの場である。だから一様な生育システムに治まりにくいのである。
人社会では集団で処理すべきことと個体で対応すべき内容が多岐にわたって混在している。
まずは(くどいようだが)自他の区分けから始まる。その後に自他の交われる境界域を自らが設定する。順序を逆にするとおかしなことになる可能性がある。他力的にもしくは他者依存的に出来上がると境界域が広くなって、判別がギリギリ可能なモザイク画のようになり、不安定なパーソナリティが出来上がりやすくなる。外見上はうまく社会に適応していても中身は多色が混ざったパレットのようになっていて、嫌な感じの色合いになってしまったりする。自他の区分けが曖昧な子にはこういう現象が起こってくると予想される。
データーで説明はできないが、初期段階での保育は相当量の知識と経験と技術が必要なはずである。初等教育も同様である。現代社会では知識そのものは教室以外でも十分取得可能(むしろ効率的である場合もある)であるから、私は適切に集団が管理できない教育者(もっとも教育者養成課程にそのプログラムが入ってなければどうしようもないが)からは、自己を守るために、できるだけ早く離脱したほうが良いと思っている。
で、中卒で自分の進路を特定できた件の女子中学生にたどり着くのである。
いつものようにとりとめのない話になった。あとは次回に。
令和4年9月14日