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煩悩は悟り?

2022.09.14 07:09

Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事  煩悩は悟り?

 私たちが情報を受け取るというとき、五感(目=視覚、耳=聴覚、鼻=嗅覚、舌=味覚、皮膚=触覚)に加えて意識(頭)が働きます。意識は経験則だったり、価値観だったりします。言ってみれば、これらを、煩悩と言っているのですね。

 自分の感覚によって四苦八苦していることになります。よく言われるのは、花は美しかろうと咲いているわけではなくただ咲いている・・・それを、人の感覚が、美しいという価値をつけます。むろん、それは人間の素晴らしい能力ですが、裏をかえせば、そういう感覚が苦しみに通じていると言えます。

 人とはやっかいなものですが、やっかいさに苦しむところに味があります。哲学や宗教や美意識が生まれるのですから。

 こころ(自我)を消すのが悟りと言われます。苦しみ(五感)の振れ幅が大きい人が悟りを求めるのかも知れません。だとすれば、苦の中にすでに悟りがあるようにも思えてきます。本当に、人のありようや思いは表裏一体ですね。

 激しい教育熱で、「無限競争社会」と呼ばれる韓国で、若者の都市離れが進行しているそうです。競争社会で生きるためには大手企業に就職しなければならない、そのためには、名門大学に進学しなければならない・・・そのためには名門塾に通わなければならない・・・。

 そこから降りていく若者が増え、競争社会のシンボルであるソウルの人口は1992年にピークの1097万人から減少し続け、2016年には1000万人以下、2022年5月には949万人に。ソウルを出た若者は、田舎で農業をはじめる率が高いそうですが、理由は苦しみからの脱却もありますが、「成功」や「出世」に価値を見いださなくなったというのが大きい要因と見られています。

 デジタルにも通じながら、新たな価値に目覚めた若者が農業も社会も変える未来に期待がかかりそうです。

 話は逸れましたが、「わたし」という自我は、やっかいであると同時に、可能性の宝庫でもありますね。主観的な価値判断が煩悩の源として、その生かし方とでも言えるでしょうか。苦楽に翻弄されず、自分の人生をこれでよしと見られるようなありかた・・・。五感は、やはり素晴らしい。味わって汲み尽くす、とことん苦しんでいい・・・それが覚醒そのものでしょう。

https://hobbytimes.jp/article/20171024l.html 【全ては見え様、考え様。煩悩は悟りに至る大事なツール!?】より

仏道の究極の目的、それは悟りです。その悟りにおいて妨げになる物と言えば、煩悩が浮かぶ人も多いのではないでしょうか。

禁欲こそが、悟りに至る道だと思ってはいませんか?確かに、欲に溺れるのはいいこととは言えません。と言って、まったくの無菌状態がいいというわけでもないのです。お酒を飲んだことがない、または美味しいと思ったことのない人に禁酒を言い渡した所でその人は辛くも何ともありません。今までと変わらないわけですから。

しかし、酒の美味、アルコールによる酔いの心地よさを知る人にはまさに地獄です。知らなきゃよかった!知っているからなお辛く、煩悩も生じやすいのです。

しかし煩悩とは本当に悪いだけの物なのでしょうか?

仏教の最終目標

涅槃寂静が、仏道における最終目標と言えます。これは煩悩を打ち消し、心が安らいだ状態のことです。しかし、先に述べたように簡単ではありません。

この世は無常・一切皆苦、四苦八苦

お釈迦様は何故涅槃の境地に至るのが難しいのかについて説きました。

「この世の全ては一切が苦だからね」といきなり非情の宣告です。「何もかも苦しいのか」と落ち込んでしまいますが、これは本能や欲、感情を持つ以上仕方のないことなのです。お酒を例にとっても、口当たりや色、香りを楽しみ、酔いを楽しめてもそれはいずれ醒めていきますし、場合によっては二日酔いになったり肝臓が大変なことになります。

恋愛でも同じことが言えるでしょう。好きな人と両想いになれるか分からないし、恋人になれてもライバルが現れないか?現れなくても捨てられないか?悩みは尽きません。この世界は無常、常に変わり続けるとお釈迦様は解いています。甘美な恋愛とて、決して例外ではありません。大小様々な欲から始まる一時の快楽は全て、苦の原因となるのです。何もかもが永遠不変ではなく、自我、自分だと思っている物さえ幻のような物。それが仏教の考えです。お釈迦様は言いました。「自我があると思うから苦しいのだ」と。

個人を表す自己はあると言われていますが、人の趣味、考えは変わるものです。不変の自我とされる物はない、と気付くことでも苦は消えるのです。要は執着を失くすことが肝要とされます。

煩悩の基本は三毒

【貪欲】

「これだけでいい」と満足せず「もっともっと」と追い求める欲求。昼食に弁当一つで足りるのに、「おにぎりも欲しい」「食後のおやつが欲しい」といったものです。

【瞋恚】

「しんに」と読みます。これは自分の思い込み等により生まれる怒りです。「分かってくれるって言ったじゃない!」「何でデートの時間に遅れたんだ!」相手の都合を考えずに怒ることを言います。

【愚痴】

仏の真理や智慧について、何も知らない、分かっていない状態のことです。一言で言えば無知。

合計が108になった理由

煩悩の数は108。あまり仏教に詳しくない人でも、大みそかにつく除夜の鐘の回数から「煩悩は108あるんだよ」と聞いているはずです。しかし何故108なのでしょうか。キリが悪いと思いませんか?「煩悩の数なんてきっちりしてなくてもいいでしょう」いいえそうはいきません。諸説ありますが、108になったのはちゃんと意味があるのです。

【その1】

十纏(じゅうてん)×九十八結説。十纏とは、善行をするのに邪魔になる十種の煩悩です。九十八結は、衆生が惑いやすい煩悩の数を表します。10足す98で、108というのが一説。

【その2】

四苦八苦を「4、9、8、9」とし、全ての数を掛けて108という説。元々四苦八苦とは仏教用語で、生まれて生きる、病気になる、老いる、死ぬという四つの苦しみと、人生上の四つの苦(大切な人との別離、嫌いな人との付き合い、ほしい物が得られない、葛藤)、合計八苦から成るという考えを意味します。

説は他にもありますが、説が多いということはそれだけ思い当たる節、煩悩が多いということなのでしょう。ちなみに除夜の鐘の108つ目は新年につくことになっています。お数珠の珠数も基本的には108個です。それぞれの珠にはそれぞれの煩悩に滅する仏様が入っているとされます。

悟りたい人はまず自らの煩悩を見ること・四諦

「悟りたいなら、煩悩は無視」というのは素人の浅はかさです。煩悩は感情や本能と絡み合っており、無視することは不可能に近いでしょう。

周囲で火が燃え盛っているのに「熱くない、熱くない。大丈夫、大丈夫」と笑っていたら焼け死にます。自分の周囲の火をちゃんと認識し、消せばいいのです。「液体だから」とガソリンを掛けたら余計に炎上します。ちゃんと水を掛けなくてはなりません。煩悩を受け止め、正しい修行を行ってこそ煩悩は晴れて苦が消えるのです。

悟りを得るに至る段階はまさに燃える炎を消す為の正しい段階でもあります。四諦(したい)の名で知られていますが、ここでいう「諦」は明確なる真実のことです。

【苦諦】

生きるとは苦であるとの心理を意味します。一切皆苦の段階です。

【集諦】

「苦しいならなぜ生きるの?」「おいしい物が食べたい、綺麗な人と恋がしたい」と、肉体が不滅ではなく全ては無常だとの事実に気づかず、肉体や感情から生まれた執着に苦しみます。本能だけではない感情や欲も無関係ではありません。

【滅諦】

煩悩のせいで苦しむなら、それを失くせばいいのです。難しいですが、煩悩がなくなれば苦しくなるのは真理であり、目的でもあります。

【道諦】

煩悩、苦の消滅は、正しい修行、八正道で実行できるという真理です。

八正道で煩悩を打ち消そう

煩悩を消す為の修行は八段階あり、八正道と呼ばれます。

【正見】

物事を正しく見ること。「正しく」がポイントです。八正道の土台であり、後述の七つすべてがこの正見に繋がるのです。「ありのまま、そのままを見る」とも言いますが、物事は常に流転しているので、それを見極めなくてはなりません。

【正思惟】

いわゆるマイナスの感情(怒り、妬みなど)にとらわれない心です。

【正語】

良い言葉、善意の言葉を話し、悪意の言葉を話さないことです。言葉遣いだけでなく真理を口にすることも含まれます。悪口は言わない方が良いでしょう。「あいつは性格が悪い」などと言っているようではまだ駄目です。

【正業】

正しい行いのことです。何が正しいのかよく見極めなければならず、正見、正思惟と通ずるものがあります。道徳的な意味合いで考えると少しは分かりやすいかもしれません。

【正命】

善い行いをし、悪い行いをしないという正しく生活することです。

【正精進】

悪さをせず、正しい行いをするための正しい努力を続けることです。

【正念】

一切皆苦、無常などに気を配り、それを念ずる段階になります。これにより、心をあるべき正しい状態に保つのです。

【正定】

瞑想などを行い、やがて真理に至る為の最終段階を指します。

まとめ

お釈迦様は言いました。「この世を楽しく清い場所だと思って遊び呆けていると負けてしまう。でも、全てが苦だと思って修行すれば悪魔にだって勝てる」と。一切皆苦とは、一種の覚悟でもあります。これは悪魔、つまり煩悩に打ち勝ち厳しい修行の果て、本当の「楽」を手に入れる為のものです。煩悩は見方によっては試練であると見て良いでしょう。