まだ夏は終わっていない、幽霊小説特集
こんにちは。
今回は本当なら7,8月の間におこないたかった、幽霊の登場する小説特集です。
断っておきますが、怖いものは一切出て参りません。
怖いと思いきや……みたいなのすらなく、ただ「幽霊」が出る作品をいつものように3作ご紹介させていただきます。怖い話は苦手だという方も安心していただき、なんだ怖い話じゃないなら興味ないなという方は、ちょっと待っていただいて、面白さでいうなら今回の3選は3作の総力がえげつないと思っておりますので、どうかお付き合いくださいませ。
クレア・ノース『接触』
ああ、本当にお話したかった、イギリスの作家クレア・ノースの作品です。
2018年の頃、いくつかの書店で前作『ハリー・オーガスト、15回目の人生』が平積みされておりました。私はその綺麗な表紙に惹かれ、その本を手に取り、毎頁の内容の密度に驚きながら取りつかれたように読んだものでした。近いうちに、『ハリー・オーガスト~』の話は必ずすると思うのですが、その次の作品となった『接触』について今回は熱く語りたいと思います。
他人に触れるとその身体に乗り移ることができる、実体のない「ゴースト」──ケプラーがこの物語の主人公になります。彼または彼女の一人称小説ですが、実際にはどの場面でも誰かを着て、話したり考えたり走ったりしているわけです。
前作で「内容の密度に驚いた」と言いましたが、クレア・ノースの凄さはとにかく書ききること、その胆力とシナリオそのものの目を離せない面白さと言えます。
具体的に言うと、冒頭ですが、
地下鉄の人ごみで、宿主(身体を借りていた人間)の女性が狙撃されて死んでしまうのが最初のシーンです。撃たれて始まるのではなく、別の身体からその死体を見つめるカットから入ります。
まず中年女性の目で死んだ元宿主とその狙撃犯を捉え、逃げる群衆からひげ面の男、白髪の老人に身体を乗り換え、地下鉄に乗り、再び自身(ケプラー本体)を追ってきた狙撃犯に老人のまま近づいて狙撃犯の身体を奪い、狙撃犯の車を奪い、街を移動して、ホテルの部屋をとり、自らの腕を手錠でつないだうえでホテルのフロント係を呼び、ホテルのフロント係の身体に乗り換えて、手錠で繋がれた狙撃犯を見下ろしながら「どうも」と挨拶し、「聞きたいことがある」と声をかける。
──ここまででおよそ30頁です。このスピード感が600頁の間緩むことなく続きます。
普通ならこの設定、一章ごとに宿主を変えるとか、場所を移動するごとに変えるとかじゃないのかと、そうでないと書く側の体力が持たなくないかと、思うのですが、実際ケプラーは多いとき見開き1頁で10人以上の宿主を乗り換えていることもあります。勿論そこには目的を伴っていて(伴っているものがほとんどで)読者や人間を弄んでいるわけではありません。人よりも長く生きている分、主人公は頭がよく、落ち着いていて、しかし流れる展開は目まぐるしい。小説でありながらこのスピード感は、ラストの結末どころか、展開を予測する暇すらないです。
しかしわかりにくいシナリオではなく、場面がどう変わろうとも熱さが続いていきます。特に後半400頁以降は私の好みもあるでしょうが、すばらしい展開すぎて、毎秒「大好き」が破裂しておりました。たまらなかったのです。今年1番たまらなかった。
死が迫れば別の身体へ移り、苦痛があれば、退屈があれば別の身体に移り、超越的存在でありながらも、ゴーストの未熟さ幼稚さをケプラーは自覚しています。女性に恋をしてその夫の身体に入った過去も、男性に恋をしてその妻の身体に入った過去もある、そんなゴーストたちやケプラーの求めたもの、後半200頁の「旅」を、どうかぜひ……。
松田青子『おばちゃんたちのいるところ』
『接触』とはうってかわってと言ってしまいますが、脳は全く疲れない、軽やかな一冊です。
あらすじに怪談集とあり、確かに各編主人公は違う短編集ですが、世界観や一部登場人物が複数回登場するなど、繋がりもあります。ただしその繋がりも、あえて考察するほどでもない。そんなことより踊らにゃソンソンみたいな作品です。
1作目「みがきをかける」では、失恋した主人公の家に「おばちゃん」が訊ねてきます。「玄関せまっ」とか「廊下せまっ」とか言いながら、「喉かわいたわ。なんかないのん?」とか言いながら、全身イトーヨーカドーのおばちゃんはずかずかと入ってきます。
しかしこのおばちゃん、全く知らないおばちゃんではなく、一年前に自殺した親戚なのです。といいつつも、ここからものものしくなるわけでも、おどろおどろしくなるわけでもありません。なんで死んだん? と訊かれたおばちゃんは「なんか甘いもん出して」と言って渋々出されたクッキーを食べながら、「めっちゃ腹立った」きっかけを話します。
この作品集の各編には落語や歌舞伎など、全て元ネタがあります。ただし、言い伝えられる怪談めいたものではない。実際うらめしい気持ちも執着もそう続けられるもんじゃない。とそれぞれの幽霊たちが言います。
幽霊として登場する彼らは生きている人よりも元気で、自由で、楽しそうなのです。生きている人間は彼女たちを見て、それしていいんだ、そんなんでいいんだ、と肩の力が抜けるように驚きます。怪談集でありながら、そんなんでいいんだ小説集でございます。
あ、でも、もちろん、各編にあるオチの気持ちよさやテンポの良さはもう、巧さとしか言いようがないのですが。
古谷田奈月「無限の玄」
今月、ちくま文庫からこの一冊ごと文庫化しましたね。ほんとおすすめです。
特に「無限の玄」のほうです。
幽霊にかかわるのもこちらなので、今日はただただ『無限の玄/風下の朱』に収録されている中編「無限の玄」についてご紹介いたします。
三島賞受賞作でありながら、芥川賞、野間文芸新人賞にもノミネートされ、辻原登さんや平野啓一郎さんら多くの推薦コメントを集めた中編です。
登場人物は父、叔父、兄、僕、弟(叔父の子)のほぼ5人のみ、祖父から受け付いた家族5人のブルーグラスバンドで全国を旅している、というより旅していました。物語は父の死から始まり、遺体は警察に引き取られていきますが、その晩、縁側に父が現れるのです。
登場人物は明らかに男性のみであることがわかると思います。祖父も含めて。生前の父は自身の父親を、父親から教わった音楽を嫌いだと漏らしていました。しかし祖父の死の間際、彼の作った百弦というバンドを叔父と共に引き受け、たちまちリーダーとなったのでした。それから家と百弦を守ることを続け、「ヴァイオリン」ではなく「フィドル」(カントリーやアイルランド音楽、ブルーグラスというジャンルにおいての呼び名)を弾くようにと主に兄へ厳しくし続け、家族の皆に、音楽一家としての道しか選ばせなかったのです。
そんな父が毎夜現れる、その夜のうちにまた死に、遺体を警察に渡し、また次の晩にも現れる。どうすればいいかと頭を巡らせる家族のやりとりですが、次第に長く張りつめていた緊張の糸が切れてしまう……。
古谷田奈月さんという作家さんの凄さは、この支配し支配されていたように見える家族関係でも、表面上はあまり窮屈には見えないような、仲が良い、魅力的とすら思える面も書いてしまうことです。例えば、父の名前はタイトルのまま「玄」と言いますが、兄弟間では彼を父さんなどとは呼ばず「玄」と呼び、本人を前にしたときは「玄さん」と呼びます。主人公の僕は、兄を「律」と呼び「お前」とも呼びます。呼び名や会話の気安さには距離はなく、それでも裏に緊張感や読み合いがあるから目が離せないのです。
閉鎖された関係は一人が死んだところで出られない。死んだ人間すら出られない。この心の奥底が泡立つ感じは、文学でこそ味わえる凄まじい経験になると思います。ぜひ、手に取ってみてください。
以上です。
「幽霊」……テーマにかこつけて、面白かった作品を紹介したかっただけというのがついにばれてしまったのではないかと思います。今回は特に、ですね。
ただ、肉体の死を経てそれから、という共通テーマをやはり上記3作品は持っています。続くものと変化するものについて、そして肉体とは、生とは何だったのかについて。そう考えると、霊とは多く小説が抱える命題なのかもしれない、なんて思いますし、実際小説という媒体が一番その表現をすることを求められているのでは、とも思えます。
小説の深みにはまる作品をどうぞ手に取っていただければ、です。