グルジェフ と 感謝想起
http://www.t-net.ne.jp/~kirita/po/moon2.html 【Moonshine 2】より
月 悪魔 感謝によって発するエネルギー
人類史上でも最大の奇書のひとつ『ベルゼバブの孫への話』の中で、グルジェフは確かに、人間は月の食料であると書いていた。「人は未だに寝ている(…)また生まれてきて作用反作用の法則に縛られた人生を繰り返し、ひたすら『月』への食料を提供する家畜のままである」とグルジェフは言っている。
伊勢白山道の著書*に、グルジェフのこの発言をほぼ肯定する箇所があった。ただし、彼の言うには、月は人間の「怒り、嘆き、不安、欲望、我良し欲、攻撃心などのエネルギー」を食べるのであって、これらが増していくよう、人間を地上に「放牧」している。さらに正確に言えば、月はこれらの念の貯蔵庫であって、これらを食べにいくのは別の何者かであるのだという。月という貯蔵庫にこれらの念を食べに来る何者かは、人間がますます多量にこれらの念を作り出すように、様々な出来事を地上に起こし続けるのだともいう。
この何者かについて知ろうとする場合、「悪魔」にまつわる書誌的ないし伝承的知識を用いつつ考察を進めてしまいがちになるのは、体験知を多く伴わない者たちが等しく陥りがちになるところだろう。しかし、「悪魔」という言葉を用いつつ考察するのは、故意にあらゆるコンパスを放棄して未知の土地を進むのに似る。「悪魔」という言葉を使わせ、その語の背後に隠れるものはなにかを考えなければならない。この言葉は、時にはまったく同じ意味を持つ「異常」や「例外的」などの語で置き換えられるが、これらの語の背後に隠れようとするものについても同様である。
しかし、「悪魔」という言葉においては、それを使う場合のみならず、それを使わないようにとの意志の働く場合にこそ、認識上のいっそうの困難の渦巻く場が発生しているものだ。「悪魔」に限らず、もとより言葉は、ある表象や概念についての指示と隠蔽と溶解を同時に発生させる。この点についての適切な操作術は、詩歌と呼ばれる領域の十分な経験者たちのみに可能であるとともに、この操作術なしにはいかなる有意義な思索も行うことはできない。言語を使用しようとする限りにおいては、なにを措いても先ず「詩人」でなければならない。さもなければ、誤る。この数千年を通じて、このあたりの事情は変わっていない。
「月」の話に戻れば、伊勢白山道が、満月時の「月の装置」の全開について言及しているのは興味深い。これによって人間の感情は頂点と底の両端のあいだを揺れ動きやすく、この落差から発生するエネルギーを「月」は収穫するのだという。満月が、「月」を利用した魔術においても重要なのは言うまでもないが、「月」に願望祈願をした場合、成就の暁には、かならず交換条件として大切なものを失うことになるという。ある種の強力な霊力を持つ神社や稲荷には決して現世利益を祈ってはならないとはよく云われるが、「月」がこれらに通じる性質を持っているというのは極めて興味深い。
ちなみに、「月」がもっとも嫌うのは、人間が感謝によって発するエネルギーであるという。人間が放出するエネルギーのうち、感謝の念だけは「月」に吸い取られることがない。
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/0efe0822e47a0cbcf9338d53703a3ede 【グルジェフ と 感謝想起】より
私が好きな神秘家に、ロシア生まれのゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフ がいます。最初に彼に興味を持ったのは、本屋で彼の本を見た時に載っていた彼の顔写真でした。内容は、読んだことが無いので知りませんでしたが、その顔写真を見た時に只者では無い
のが直ぐに伝わって来ました。写真を通じて観る彼の魂は私が過去に体感したことが無いほど、重たかった のです。
この人間の 魂の重量 は、一人一人違います。この 重さ を生むには、途方も無い幾多の転生と、正しい人生を何度も経験しないと出てきません。
彼の本を読むと、わざと煙に巻いたような表現が多く解らないでしょう。ただ、霊的な真理実相を表現していることは多々含んでます。彼の思想で重要なのは、人は未だに寝ている
と、ただの機械のように感情の揺れるままに反応するのが人生 だと大きな勘違いをしたまま死んで行き、寝てるがゆえに、また生まれて来て作用・反作用の法則に縛られた人生を
繰り返し、ひたすら 月 への食料を提供する家畜のままであると。我々が、眠りから覚めないように感情の不満ストレスが絶えず生じるように、この世は出来ています。
この不満ストレスは、魂のエネルギーの漏電を起こします
目覚めるには、エネルギーの蓄積が必要なのです。
具体的には、我々は心中で自己弁護をする 独り言 を絶えずしてます。精神が病みだすと、心中で納まらず 口に出して独り言 をします。この無駄な感情を押さえ、魂の漏電を
抑える最善の方法が、 感謝の想起 です。
生かして頂いてありがとうございます と、日常生活に汗を流しながら、心中で想起するとエネルギーの蓄積が起こり本当に 自分を変える ことになり、覚醒へと導かれます。
https://purplebat48.sakura.ne.jp/news/news-detail.php?id=105 【自己を想起せよ・・G.I グルジェフ】より
私の感想
グルジェフは言う「自己を観察するとき、同時に自己想起を行いなさい」と。
それは以下のような意味であることだろう。
絶えず自己を思い起こしなさい。
常に私は神の子であることを思い起こし、決して忘れないようにしなさい。
あなたがみている一切万物の全てが一つであり、一切万物の中にあなたがいて
あなたの中に一切万物がいることを決して忘れないようにしなさい。
あなたは愛である。
あなたは記憶ではなく、人格・個人でもなくエゴ・思考でもない。
あなたを人格や個人という我の心と同一化したりせずに私は神の子である、私は一切全てを愛している、とそれを常に唱え神の子である私を想起しなさい。
それ故に神に帰一するために愛の中に死になさい。
愛として生きることが出来るために愛の中に死になさい。と
そして自己ではない記憶・思考を私・自己ではないとハッキリ宣言しなさい。
私は記憶ではなく、我の心ではなく天照大御神の御分心であることを思い起こしなさい。
私とは私の潜在意識にある記憶・記憶の反応ではなく神の子であると宣言しなさい。
私は神の子であると宣言すると言うことは、神の元に戻ると言うこと即ち愛に戻ること。
内なる愛に戻るというのは、愛と一つになると言うことであり。神聖なる愛に溶けいること。
神聖なる愛に溶けいるとは
愛の火と一体になる事であり、分離している私即ち記憶が愛の火に焼かれて空となる事。
「飛んで火に入る夏の虫」・・そのように愛の火の中に自己が消え入ることである。
私は記憶ではなく神の子であり、一切万物と一つであることを思い起こしなさい。
愛の火の中に自己を失うことは最大の喜びである。自己が愛の中で溶け去ることは
最大の喜びである。
と
私達は私という観念の記憶に包まれ被われて、その記憶を自分だと信じ知覚しているが私は一霊四魂であり、私は天照大御神の御分心、神の子なのであると、
「私は万物と一つである」「私は神の子である」と・・このことを堅く信じなさい。
このことを深く信じて常に「全て一切を愛しています」と唱え、絶えず一切万物に
愛と感謝を捧げなさい!!
私は記憶ではなく、思考や感情や行為や知覚ではなく、私は思考なく観ている
意識であり、私は一切万物と一つであり、決して一切万物と分離していないと
心に刻みなさい。
私は神の子である。私は愛であると固く信じなさい。と 何故ならば、あなたは我の心ではなくて本当に神の子であるのだから。と
※これら上記の考えに対して次の反論が寄せられている・・・それは「私は神の子である」と思っているのは思考なのではないのか、即ちそう思っている私とは記憶であり・記憶とは神の子ではないのではないのか?
と言うことである。それは自己矛盾しており、嘘をついていることになりやしないか?と
それに対しては
「思考と思考を支えている意識とは混濁しており、思考と意識を「ここまでが記憶であり、ここからが意識である」。とハッキリと線引きをすることは出来ない。何故なら思考とは意識があるから意識されていて意識という神聖なる鏡なしには思考そのものが存在出来ないからである。
キリストが聖書の中で述べているように「畑の中の雑草の芽と、良い麦の芽は一緒に育つのである。充分に育つまではそれを判別することは出来ないのである」ということである。
私達の意識は殆どが記憶に支配されていて、思う事、話すこと、聴くことも記憶が行ってはいても、ごくごく僅かであっても一霊四魂からの意識がこの思考の中にキラリと輝くことがあるのである。そしてまた私達という混濁している状態の中での正しく思考することとは、それはたとえ思考であってもそれは同時に思考に愛を注ぐことであり、思考の自己否定へと、思考の浄化へとつながり、その思考の浄化を通じて神の子の私の意識が徐々に顕在化されいくであろうから、これは正しい方法なのである。