心の旅
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この世では、永遠に生きるかのように生きなさい。そして同時にあの世のためには、あたかも明日にでも死ぬかのように働きなさい。(スーフィーの言葉)
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秋風が吹き、今年もあっという間に終わろうとしています。お釈迦様は人間を旅人に例えて
おられます。これは時間という旅、私たちは「時の旅人」です。昨日の旅が終わり、今日の旅が始まります。
今日の旅が終わると明日の旅が始まります。これは世界中の時計を止めても続きます。
「今日は最高にいい日だった!」と思っても、今日にしがみついてはおれず、明日がやってきます。
一休は「世の中の娘が嫁と花咲いて、嬶(かかあ)としぼんで、婆と散りゆく」と歌っています。
娘十八、番茶も出花と言われるように女性の一生で一番良い時が娘時代でしょう。
だから娘という字は女へんに良いと書きます。娘さんが結婚するとお嫁さんになります。
嫁さんが子供を産むとお母さんになります。「女は弱し、されど母は強し」と言われるように結婚当初はおしとやかでも、子供が2人3人できるととてもたくましくなられ、「追い出してみようもんなら追い出してみ~」と鼻高くなるので女へんに鼻と書きます。
嬶の次にお婆さんになります。額に波がよってくるので女の上に波と書くのだそうです。これが女性の一生ですが男性も呼び名が違うだけですべて同じコースをたどります。
いつまでも娘ではおれませんし、お婆さんがメルモちゃんのように娘に戻ることもできません。
このように私たちは時間という、とどまることのできない旅を続けています。
では私たちは何のためにこの旅を続けているのでしょうか?
その時その時の目的はあっても、この人生という旅そのものの目的がハッキリしているでしょうか?
もし、目的なしに旅していれば、その結末は行き倒れになってしまいます。死ぬために生きる人生です。
死を待つだけの人生は、虚しい悲しい旅になってしまいます。
「人間に生まれて良かった!」「これ一つ果たすための人生だった!」と生命の大歓喜を
味わえるハッキリとした目的を知ることが大事です。それを教えられたのが仏教です。
https://ameblo.jp/gunhan/entry-12752830252.html 【金春禅竹の“六輪一露”説でスーフィーの心の旅を見る】より
破輪
夏目漱石は、〔草枕〕で、
「二十歳で世に住む甲斐があることを知りました。三十歳になってから、喜びが深いほど、憂いも深い、楽しみが大きいほど苦しみも大きいことを知りました」と言い、また、〔行人〕の中で、
「自分の思うようにならないこの世では、自分以外の意志が働いていることを認めているのです。」と言います。
瓶割るる夜の氷の寝覚め哉
〔松尾芭蕉〕
世の中は、「思うまま」に行かないことが多いです。期待外れのことや挫折や病気のように“不安”にさらされた状況で、無力さを実感します。アイデンティティーの危機に落ちります。
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
〔松尾芭蕉〕
夢は、野原を旅しているにもかかわらず、自分はもうそこにいません。身とは、ひとつの別れ道に来ています。“自我解体”の始まりです。
夢よりもうつつのたかぞたのもしき
〔与謝蕪村〕
理想と現実の違いに気づきます。
それならるり子とのあの甘いしつこい思出はいったい何なのだろう。自分の肉体がある喜びにふれたということは何を意味するのだろう。
〔三島由紀夫、命売ります〕
自分がふれてきた“喜び”なり、“悲しみ”なりの“本義探し”に取り組みます。
世の中を思えばなべて散る花の我が身をさてもいづちかもせむ
〔西行〕
これまでの人生を振り返り、今後の進むべき道を考えることが必要なのです。自分の生き方を見極める時期なのです。
空輪
「色即是空」の境地です。
月花や四十九年の無駄歩き
〔小林一茶〕
俳句の世界で「切れ字」で強調されるいわゆる“自己喪失”の瞬間のことです。
金春禅竹はこの位を、
「無主無色」と、記述しています。
一切を捨離すべし
〔一遍〕
物事の「実体」は、無くて、何もかも、
「有名無実」になっているのです。
“幸と不幸”など、対立になっているすべてのことが、“同一”のものか、それとも、“どうでもいい”か、関心を失う心境です。
春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり
〔西行〕
今まで見てきた全ての物事が、「夢」です。
花の月のとちんぷんかんのうきよかな
〔小林一茶〕
しかし“真の空”(無余涅槃)は、ここからなのです。再び「寿輪」に戻ります。
仏道を修行する人で、それを理解する人はいても、千万人に一人も、それを自分のものにする人はいない。自分のものにする人がいても、それを捨てる人はいない。
〔至道無難〕
どんなに頂点を極めた人でも衰えが見え始めます。観客には“花がある”ように見えなくなってきます。この時期に世阿弥が進めていたのは、後継者の育成です。
「ワキのシテに花を持たせる」
自分は一歩下がって舞台を勤めることです。世阿弥は、
「わが身を知る心、得たる人の心なるべし」と言いますが、
自分の限界を知る人、自分の身の丈を知る人は、達者と言えます。
身をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけれ
〔西行〕
「上がるものは、必ず下がる」の法則を知るべきです。どんなに頂点を極めた人でも、衰えが見えます。
衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ。
〔白隠〕
再び寿輪へ
一滴から大海へ。部分のことを知り得た者は、全体のことを知り得る。
というのは
自性を見る者は、すなわち仏を見る。
(一切経開題・空海)
自己を知る者は、神のことを知るのです。自己を知る者は、根源に還ることと同様です。
人のさとりをうる水に月のやどるがごとし。月ぬれず水やぶれず。
〔道元〕
見た目は、何も変わりませんが変わったのは、自分の見方だけです。
世の中を夢と見る見るはかなくもなほ驚かぬわが心かな
〔西行〕
物事を、一定の距離を置いたところから観察しながら生きる境地です。
バグダードの町であるところへ向かっている一人のスーフィーの耳に、「蜂蜜を安く売ります」との呼びかけが入ってきました。スーフィーが、その売り手に近づいて、「その蜂蜜を私に、「無」で譲ってくれませんか?」と尋ねました。売り手は、「どうかしているのですか?誰が物を無で譲るでしょうか?」と答えました。そうすると、眼に見えないどこかからスーフィーに、「近づきなさい。無ですべてを上げます」という言葉が聴こえました。
〔アッタール、12世紀、鳥の言葉〕
スーフィー(修行者)は、この世に肉眼で見えない「奥義」を感得して、生活に応用するようにします。
“無”は、神の芸術の源である。“有”は無の中に隠れている。
〔ルーミー〕
自分が普段認識している世界は、世界のすべてだ、と思い込んでいますが、自分の認識のフィルターを通して物事をとらえています。すべての源である“無の世界”と比べて“感覚の世界”は、とても狭いのです
一切は陰陽の和するところの境を成熟とは知るべし。
〔世阿弥〕
およそいかなる物でも、物として表裏なきものはあるまい。昔の人は、なにものにもよらず、必ず陰陽の二様に考えたると同じである〔自警録〕と、新渡戸稲造も述べています。
花無心にして蝶を招く、蝶無心にして花を尋ぬ。
花開く時、蝶来り、蝶来る時、花開く。
吾れも亦人を知らず、人も亦吾れを知らず、知らずして帝の則に従う。
〔良寛〕
散る花を惜しむ心やとどまりてまた来む春の種になるべき
〔西行〕
すべてのものには、役割、そして意味があり、自分はただそれを心得る時期を待つだけです。
かきつばた我に発句の思いあり 〔松尾芭蕉〕
山水にかくれたる声色あること 〔道元〕
心あらば虫の音聞きにきませ 〔良寛〕
花に鳴く鶯、水に住む蛙の声をきけば、生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける。 〔紀貫之、古今和歌集〕
すべての物事は自分に、自分特有の言葉で話しかけてくる境地です。
世の人の見つけぬ花や軒の栗 〔松尾芭蕉〕
散る桜残る桜も散る桜 〔良寛〕
心眼で見たり、心の耳で聞いたりすると、万物は丁度いい加減にあります。
心配するな。何とかなる 〔一休〕
結果自然成 〔道元〕
放てば、手に満てり〔道元〕
努力と結果とは、一切無縁です。
動中の工夫、静中の工夫に勝ること百千億倍す 〔白隠〕
何事も、修行と思いする人は、身の苦しみは消え果つるなり。〔至道無難〕
修証一如 〔道元〕
日々夜々行住坐臥にこの心を忘れずして定心につなぐべし。〔世阿弥〕
「他力本願」で、他力と同期した自力のすべての行動は、修行となります。
花を見捨てて帰る雁 〔西行〕
有露地より無路地にかえるひとやすむ雨降らば降れ風吹かば吹け〔一休〕
無関心ではなく、無頓着で、これこそ「平常心」に繋がります。揺れ動かない、動じない。心のバランスは崩れても、治す力を保つことです。
生ぜしもひとりなり。死するも独りなり 〔一遍〕
世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我は勝れり 〔良寛〕
この世には、誰もが、一人で生まれてきて、この世を去るときも、一人です。
身を観ずれば水の泡、消ぬる後は人もなし、命をおもへば月の影、出入息にぞとどまらぬ。
〔一遍〕
この世は、「空事」です。
天地の始は今日を始とす。〔神皇正統記〕
一年は正月に、一生はいまにあり 〔正岡子規〕
すべての物事が、正念場の“今・ここ”に集中しているのです。
一期の堺ここなり
〔世阿弥〕
迷いも悟りも、発心して、第一歩を歩みだした、分岐点の「今・ここ」にあります。
ただ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし。
〔徒然草〕
“一大事”と申すは“今日只今の心”なり、それをおろそかにして翌日あることなし。遠き事を思いて謀ることあれども、今を失うに心づかず。
〔白隠〕
日々日々、道場です。一念もおろそかにしないで、真心を尽くして務めるべきです。一念一念を油断せず、一切は、
初心忘るべからず
〔世阿弥〕
一心に統一された心へ、“負”の気持ちを初期化しながら平常心を保つのです。
見るところ花にあらずということなし。思うところ月にあらずということなし。
〔松尾芭蕉〕
どこを見ても、眼にうつるものは、「花」です。
言葉は糟、瓦礫である。頼れば真実を失う
〔空海〕
不立文字で、その境地の心境に合わせた振る舞いを行うレベルで、世阿弥は
「まことに得たらん能者ならば、花はのこるべし」
と述べています。花の本質を得た人であれば、そこに花が残るはずです。その花(知恵)を、次の世代へ伝えるべき時期です。
ながきよの夢を夢ぞと知る君やさめて迷へる人を助けむ
〔明恵〕
荘子は、目覚めた者が、夢を見ないと述べています。賢者は物事と融和、同期する境地にいます。
聖人無夢
〔荘子〕
悟りの境地にいる、妄想、邪念に囚われていない「真人間」(荘子:真人・至人、孔子:君子)の位を、金春禅竹は
「円満長久」
と言います。
一隅を照らす
〔最澄〕
花のことは花に、雲のことは雲に聞け 〔一遍〕
松のことは松に、竹のことは竹に習え 〔松尾芭蕉〕
万物と同期する、“なりきる”境地は格別です。
この世にいながら、この世を超えているところからこの世を見つめるような感覚です。現世を目の当たりにして、高次を生きる感覚です。万物は、“自然のまま”にあるならば、それ以上のものを願うことは余計になります。
南無は、帰命なり
〔親鸞〕
一露
“一露”は、宇宙を一滴に凝縮したものです。
露の世は露の世ながらさりながら
〔小林一茶〕
万物は、お互いに妨げることなく、融和している状態を象徴しています。金春禅竹は、“一露”で、万物を生み出し、この体系の運行を存続させる統合的精神エネルギーのことを述べています。
ある有頂天の人に質問されたのです、「二界(この世とあの世)は、どういうものですか?」と。神聖なあの世も、みじめなこの世も、あるかないかのような「一滴の水」にすぎないものです。まず最初に一滴の水が現れました。この世のすべては、様々な色に染まる一滴の水です。その一滴の水の水上に現れる形は鉄のようなものであっても、結局のところ消えてゆくのです。
〔アッタール、12世紀、鳥の言葉〕
金春禅竹は、「一露」を、「剣」の形で描いています。
時計に例えられる大きな円相の中に、まるで数字の代わりに設置しているかのような、六輪の真ん中に、時計の針のような位置付けで「一露」を置いています。六輪(球体・宇宙)を統率(つなぐ)する原理のことです。
世阿弥の名言の、
一期の堺ここなり
を表現しているかのように、私の眼に映ります。
「一露」は、
人知を越えた果てしないところ、宇宙の根源のところ、果ての、限りのないところを表しています。
万物出生の精魂で、摂理を、自然の物理法則を、露呈するものです。
人間に例えたら、
「真人間」のことです。
無上至極の理として、物事の意義を発生させる力のことです。
雨露霜雪は皆消えて只一露にまとまるが如し
〔金春禅竹〕
一休によると、
「稲妻の影のように消える」
この身は、この貴重な命は、道元によると、
「無常の風に任せてはいけない」ものです。
幻の
「一露」でありながら、剣として、煩悩を打ち破る働きを表現しています。
世阿弥は、
「花」を、能の命として見ました。
「花を知る」
ことが、芸道の奥義を極めることでした。
一枚の花に千種類の花を見られない者は、花を語ることはできません。
〔新渡戸稲造、自警録〕
「花」は、
よく観察すべきものです。咲くべき時に咲いたり、散るべき時に散ったりするので、珍しくて、面白いです。
しかし
「時分の花」には、迷わされずに、住するところなき、
「まことの花」を追いかけるべきです。
花は年々に開くれども皆得悟するにあらず。〔道元〕
自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり。〔道元〕
自分を基準に生きようとする試みは、迷いを招きます。しかし、万法を基準にしての生き方は、人生をそのまま修行にするわけです。
人を相手にせず、天を相手にせよ。
〔西郷隆盛〕
西郷も心を、神の意志と同期させることを忠告しています。
平常心を以て、一切のことをなす人、これを名人と言うなり。
〔柳生宗矩〕
石田梅岩は、意見を求めた小栗了雲にはこう言われました、
心は、人の主人のようなものである。自分の主人を知らないのであれば、それは無宿人のようなものだ。自分に定まった住所がないのに、他人を救うことなんてできはしない
言葉や時空という人を縛り付けている事柄を超えた深い次元に入り込むことができる者に許されるのです。しかしその次元に出入りしながらあるいはその敷居で日常生活を送ることが出来る者だけに許されるものです。
現代人は、不安の中に暮らしています。それに対して、目覚めている人(覚者)は、安心の中に生きています。
真人間は、
道のあり様を、何事にも動じないで、真っすぐに、自分のあり様として生きる人です。
ほととぎすなのるもきくもうたたねの夢うつつよりほかの一声
〔一遍〕