『光と闇』
坂村真民bot@shinminbot
働き疲れぐっすり眠っている人に知らせよう
月が光り 星が輝き あなたとあなたの家族とを 温かく守っていることを
病に苦しみ眠られずにいる人に 知らせよう
すべてを任せきることによって 不思議な力が生まれ 闇が光になることを
https://shinjuku.mypl.net/article/korekarajibun_shinjuku/16338 【『光と闇』】より
今回は、『光と闇』についてお話していこうと思います。
『光と闇』この言葉だけ聞いてみたらどんな印象ですかね。
「なんかわかる」と取る方もいれば、「なんか怖い」と取る方もいらっしゃるでしょう。
私的には、どう捉えて頂いても構わないですし、あなたが思ってそういるのであれば間違いではないと思います。
人には、『光と闇』があるモノだと思っています。無い人を探す方が難しいと思う。
幸せそうな人でも、必ず『闇』はある。
そして、今『闇』を抱えている人でも、必ず『光』はある。
『光と闇』は、それに囚われてしまうかどうかで、あなたの明日が変わるモノです。
『光』だけあっても意味がないのです。昼間の『光』は分かりづらいですよね。
『闇』があるから『光』が生かされるのです。
『闇』を見たくなくて隠す時も、自ら入ってしまう時もある。
隠すとどんどん深くなり、自分でも見えなくなってくる。
時には、頑丈な箱に何個も何個も入れカギをかけて封印してしまう。封印しても消滅することない。そして、『偽りの自分』を創るのです。
『闇』に自ら入ってしまったのなら、どこまでも落ちてしまう時もある。
自分を否定し始め、自信をなくす。
そして、『自分を傷つける自分』を創るのです。
『偽りの自分』は、なかなか自分では気づかない。ただ、自分のココロに嘘はつけないモノなので、だんだん苦しくなる。
『自分を傷つける自分』も、なかなか自分では気づかない。
ただ、ココロとカラダがボロボロになり、苦しくなる。
『闇』は、潜在意識に入り込む。自分一人の力では、なかなか抜け出せない。
自分の思考で考えてもがく。でも抜け出せない。なぜ抜けられないのか?
それは、自分の思考は、今までの自分が経験したものしか情報がないからです。
抜け出すには、誰かの力が必要なのです。
誰かの差し出す手を掴んだ時、『一筋の光』が見えるはず。
そしてただ、その『光』を目指し上れば良いだけ。
『闇』を怖がる必要はない。『闇』は誰でもあるモノです。『闇』を受け入れれば良い。
否定も、肯定もする必要はない。
『闇』には必ず『光』が差し、『光』には必ず『闇』が隠れている。
あなたにとっての『光』は、もしかしたらすぐそばにいる「あの人」かもしれませんね(^^)。
https://gakuen.koka.ac.jp/archives/645 【人間は闇の自覚なしに、光の自覚があろうはずがない。(高光 大船)】
七月二十二日、四十六年ぶりに日本で皆既日食が観測できるとのことで、天文ファンのみならず多くの人々がよい天気になれと願いながらその日を迎えました。しかし、日食が観測できる地域はあいにくの曇り空で、一瞬でも、との希みの中でその時を待っていました。皆既日食が最も長く観察できる悪石島もあいにくの天候で、皆既日食が始まるころには雷雨に見舞われてしまいました。雲の上では日食が進み、雲を通した地上も、薄暗くなっていき、やがて六分二十秒あまりの皆既現象で真っ暗闇となりました。このように日食観測という本来の目的は達成できなかったのですが、この闇の体験について、「短い時間であったが貴重な体験でした。光のありがたさが改めて実感されました。」と、異口同音に答えられていたことが印象的でした。光の中で周りのものが見えるという当たり前と思っていた状態から、何も見えなくなって、自らをも確実に見定められない、何が起こるかわからない不安な暗闇の状態を体験し、光のありがたさが実感できたのです。
私達は、日頃からあらゆることを自らの物差しで計り、それに適わないときは、悪い、不満だ、面白くないなど、そこから生み出される悩みや苦しみ、迷いの中で生活を送っているのではないでしょうか。その生き方が、あらゆるものを正しく見ることの出来ない、暗闇の中で生きていることと同じなのです。
仏教では、この悩み、苦しみ、迷う人間の生き方を、無明の闇の大海をさまよう船にたとえ、一方仏さま(阿弥陀仏)の人知を超えた究極の智慧を「光」と現し、無明の闇を破る「恵日」と説いています。
私達は、求めて仏教を聞き、「恵日」を実感した生き方をしたいと思います。(宗)