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サポーターズ読書感想文~宮沢賢治命日編~

2022.09.21 07:00

 こんにちは。

 本日は宮沢賢治さんの命日ということで、前回8/28にも行いました読書感想文企画をパート2として実施したいと思います。

 歴史上の人物は日付がはっきりしているという理由で、〇〇忌などと記念日にするのも、それにちなんだイベントをするのも誕生日より命日のほうが多いそうです。昨日からポラン堂古書店が臨時休業しているのも、賢治忌に行われる賢治祭のために店主が岩手に向かったからなのです。

 ということで、命日とはいえ、宮沢賢治の記念日としては花形といえる本日、読書感想文企画に参加してくれたサポーターズは江戸川乱歩記事でお馴染みの香椎さん、そして初登場、音楽界隈でアカウントを持っていて、文房具とヨドバシカメラ(梅田店)に詳しいはねずあかねさんです。

 あらかじめポラン堂古書店店主にマイナーな(世間であまり知られていない)、宮沢賢治の短編を10編選んでいただいており、その中から一編ずつ選んで感想文を書くというもの。10編は前回8/28更新のものと変わりませんが、前回と別の3編を選んで書いております。

 こちらも前回同様、事前にお伝えなのですが、読書感想文、ですので、ネタバレをしないとか結末は書かないといったルールは設けていません。ネタバレをされたくない、という方は、どれも短く、青空文庫にある作品ですので、一旦読んでいただいてからこのブログに戻ってきていただければと思います。といっても、ネタバレがそう深く影響することもないんじゃないかと思いますので、そんなに構えずに、よろしくお願いします。

 では始めます。


はねずあかねさん ── 「ひかりの素足」


「一番悲しい『別れ』は何か」


 私:青空文庫で「ひかりの素足」を開いたんですよ。

 ブログ主:先生(店主)から銀河鉄道的と聞いた短編だ。

 私:まじ〜?

 ブログ主:うん。銀河鉄道の夜の短編集に載ってる確率が高いんだって。


***


 皆様初めまして。私がこちらにお邪魔するのは今回が初めてです。とりあえずは、はねずあかねと名乗っておきます。

 お声がけいただき、一覧から「ひかりの素足」を選びました。

 ちなみに私は宮沢賢治で言うなら「水仙月の四日」が好きです。


***


"銀河鉄道的"と聞いた時点で薄らと思うことはあったのですが、とにかく読み進めました。後にこんな目に遭うなんて!と思うことになるとも知らず……


 一郎が雪の積もった山中にある小屋の中で目覚めるところから始まります。

 一郎は弟の楢夫と父親と3人で、一晩はこの山小屋で過ごしたようです。明日は学校もあるし自宅へ帰ろうと、仕事のある父親は山小屋に残して、馬を連れた大人と雪の山道を進み、いつしか遭難してしまうというお話。下記の5編に分かれて描かれています。


一、山小屋

二、峠

三、うすあかりの国

四、光のすあし

五、峠


 全体として光や空気、景色の描写が様々な擬態語で表現されているところはさすが宮沢賢治といったところでしょうか。

 山小屋での"空がまるで青びかりでツルツルしてその光はツンツンと二人の眼にしみ込み"、この辺りを読んでいると、なんだかきらきらというか、タイトルの「ひかりの素足」で受ける印象そのまま、太陽の白く光る中を幸福に裸足で歩いているような感じがします。(あくまでタイトルから得る私の印象です)

 しかし宮沢賢治、そうはいきません。

 弟の楢夫が笛のような声を聞いたあと、泣きだしてしまうのです。

 一郎も父親も、どこか痛いのか、帰りたくなくなったのかと聞きますが、どうやら何かが怖いらしい。何も怖いことはないと二人とも慰めますが、それでも楢夫は泣きます。


 以降、自宅へ帰る雪の山道を行き、遭難し、異界に迷い込み、どういうわけか責苦を受け――と、各所で不穏な描写が差し挟まれます。

 そして、まだ何も気づいていない一郎を置いて、読者たる私は気づくのです――楢夫だけが死んでしまった!

 冒頭に書いたこんな目に遭うなんて!とは、このことです。


"銀河鉄道的"というのは、強引に言えば"大事にしている人と死に別れる物語"ということです。

 兄弟姉妹の関係性は各家庭それぞれとは思いますが、一郎からは兄として楢夫のことを慈しみ守るという気概が随所で感じられます。

「銀河鉄道の夜」で、カムパネルラは唐突にジョバンニの前から消えます。正直読者たる我々も何だか分からない内にカムパネルラは消えて、ジョバンニと同じタイミングでカムパネルラが川に落ちたと知ります。

 ところが「ひかりの素足」では、一郎だけが"お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ"と言われるのです。「銀河鉄道の夜」より随分と直接的ですよね。

目を覚ました一郎のあとに、楢夫の死に顔の描写があります。これもまた、「銀河鉄道の夜」から比べると直接的です。


「ひかりの素足」を読むと宮沢賢治の中で"大事な人と死別"することは彼の人生の中でいっとうショッキングな出来事だったのだと思われます。「銀河鉄道の夜」は彼の晩年にかけての未完成原稿ですが、「ひかりの素足」は彼の妹トシの死の前後で書かれたものです。私の勝手な考えで言うと、彼は彼女の死をそういう風に遺しておきたかったのかもしれません。誰かが亡くなって悲しかった気持ちも、生きていく内にどうしても風化してしまいます。感情がいつまでも同じ形で遺っていてくれることはありません。


 また「銀河鉄道の夜」と全く違う部分として、どういうわけか責苦を受けるというのがあります。三、うすあかりの国での傷ついた足をさらに痛めつける描写です。今までだって雪山を極寒の中歩いて散々だったのに、異界に迷い込んでも足は血だらけ、その血だらけの足でわざわざ刺々した地面を歩き続けなくてはならない。立ち止まると途端に鬼が歩け歩け、お前たちのやったことが悪いんだとせっついてくるのです。お読みでない方向けに言うと、一郎も楢夫も悪いことは何もしていません。強いて言えば、一緒に雪の山道を歩いていた人を置いて先に進んだことぐらいです。雪山でなんて愚行をと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、本編を読むと然程でもないことがわかります。(悪い予感がすることは否定しません)


「銀河鉄道の夜」はあくまで物語としては、悲しいだけではない終わらせ方をしていました。カムパネルラは亡くなりましたが、ジョバンニの父親は帰ってくる。悲しさはあるけれど、それだけではない。

 しかし「ひかりの素足」は直接的描写とその具体性で死の悲しさが強調されたように感じてしまいました。楢夫がこれからどんなに幸福な生活を送れると分かっていたとしても、それは死後の世界です。

 何より悲しさを誘うのは一郎がまだ事態を把握しきれていないであろうということです。楢夫が生前を思わせる顔ですっかり冷たくなっているのをただ腕に抱いていると思うと、やはりこんな目に遭うなんて!という気持ちなのでした。





あひる ── 「なめとこ山の熊」


「なめとこ山の奇妙なところ」


 熊や人が生きたり死んだり、ストーリー性が豊かで、これは感想文が書きやすいと読みながら思ったものだった。


 しかし、奇妙なところで引っかかってしまった。

 それは、冒頭にある、「ほんとうはなめとこ山も熊の胆も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。」ではない。

 ではないのに、出すなという話なんだけども、この話もどこかから伝え聞いて筆者は書いているんだなぁという意味で興味深く、しかも今回は、「人から」とあるから山や風から聞きましたと言われるよりも現実味がある(『氷河鼠の毛皮』のような風から聞いた話は信じませんというわけではありません)。

 人から聞いて「私」は書いている。なるほど。だから、その後、熊捕りの名人の猟師・小十郎が熊を撃ち、小刀で裂いたところの「それからあとの景色は僕は大きらいだ」という文が引っかかる。熊の胆を取り出し洗って背負ってぐんなりした風に山を下っていくところについて「僕は大きらいだ」と言うのだ。誰だ、僕。欅坂「不協和音」サビ前の感じか。


 「私」が語っていたはずが突然「僕」が登場する。確かに小説などの文章にしろそれこそJ-POPの歌詞にしろ、人称のブレはそれほど珍しくなく、ファンがそれぞれ解釈するところもよくあることと思える。

 「なめとこ山の熊」の一人称表記ブレについても、検索すればすぐそこを論ずる文章を見つけたのだけど、影響されるとよくないから、と私はタイトルだけ見て読むのをやめた。論文を書くというなら事前に読むのが絶対良いが、感想を書くなら事前に読まないほうがいい、と思っている。自分の感じたことが、つまり、とか、要するに、とかいうふうに立派なところに吸い込まれていく気がするのだ。ブログや読書メーターで稚拙ながら感想を披露するときも、巻末の解説などは先に読まないようにしている。ただ「影響を受けちゃう」というのを何を堂々とセブンルールみたいに言っているのか、という話だけども。

 実をいうと、私がこうした表記に対して解釈するとき、作者の無意識だったとしたら一番すごいな、という結論が一番最後にくる。

 伝わるだろうか。

 1から9までの数字を法則なしにばらばらに言うことがどんなに難しいかという話もある。

 おぎやはぎの小木さんのネタで「五十音の一つを言ってもらい、瞬時にその文字から始まる、有名人ではない名前のフルネームを返す」がいつも全くうまくいかないという例も思い浮かんだ。

 法則を逸れることは相当難しいからこそ、ブレが見られた際、意図的ではなかった、理由などないと言われるほうが本当は感心してしまう。

 

 「なめとこ山の熊」の「僕」についても偶然通りかかった、つい出てしまった、という具合がしっくりくるように思う。「僕」が登場する文章はひどく感情的で、「大きらいだ」とか「しゃくにさわってたまらない」とかいう文章の主語である。だが、常に「僕」がいるわけではない。

 この作品には不思議なほど情感がまばらに乗ってくる。

 例えば最初のなめとこ山の景色、小十郎が猟犬と山を歩く様子、それらは宮沢賢治らしいようなまるっこい擬音や比喩を伴いながらも淡々と語られているが唐突に、「なめとこ山あたりの熊は小十郎がすきなのだ」と挟まれる。熊に聞いたわけではないだろう。その証拠に「その証拠には」という文章が次に続き、熊たちが川を渡っているときの小十郎は見守っているからと根拠を告げる。すごく客観的な理由であって、熊たちは小十郎の生活苦を憐れんだり、生きるためにやむを得ず撃つのだという彼の倫理観を理解し惚れ込んでいるわけではなく、ただ自分たちの敷地に毎度訪れる人間と犬に愛着を持っているのだという気がする。 

 一方で対比となるのが、熊の親子が話す様子を眺める小十郎が、胸がいっぱいになってその場を去るところだ。ここの熊の会話も中身はない。内容ではなく様子に、その姿に愛着を感じてしまうわけである。


 小十郎はなめとこ山の熊がすきなのだ、とは語られない。

 小十郎の感情をこの筆者は語らない。これがこの物語の、まばら、を生み出している。

 すごく義理堅い熊が、小十郎に「二年待ってくれ」とその場を去り、二年後家の前に倒れて死んでいたといういかにもな美談すら、数行の文章で終わり、小十郎は「拝むようにした」だけだ。

 感情がないようには描かれていないのに、小十郎に対し安易にそれを押し付けられないという筆者側のルールが見える。熊側の好意や台詞は、都合が良すぎるくらいしっかり描かれているのに。


 「僕」が2回現れる。物語全体からすると、その唐突さはあらゆるまばらの一つに過ぎないように思う。おそらく絵本にするなら、このあらすじからアニメーションをつくるなら、この恣意的な文章の奇妙さは排除されるのではないかと思う。

 しかし小説は、文章は、都合の良い物語にはするまいという作者のせめぎ合いのような揺らぎを、意図しても意図せずとも受け手に伝えてしまうのだと思う。





香椎さん ── 「黄色のトマト」


「童話って意外と無慈悲」 

 

 なんだかイヤな話だなぁ、というのが第一印象でした。

 子どもが大人に辛く当たられるだけの話をわざわざ残さなくても… しかもそれを朝、学校へ行く前に聞いて、その日どんな気分で過ごせばいいんだよ、蜂雀無責任だな、と良い感想があまり出てきませんでした。

 私も田舎から出てきて、世間知らずな人間なので、読んでいると過去のあんまり良くない出来事が思い起こされてきました。


 こういう、自分の行動や考えを全否定された思い出があると、何かに挑戦する気力が失せますし、子どもの頃にそういう経験があると尚更です。

 全国の親は「そんなのできるわけないじゃん」「なれるわけないじゃん」とか絶対に言わないで欲しい。「はぁ?」とか絶対に言わないで欲しいです。それは大人にもですが。


 話が少し外れましたが、童話ってこういう話多いな、と改めて思いました。現実的と言いますか、子どもに容赦がないと言いますか。

 この手の話って子どもへの戒め・教訓の意味もあるのかと思いますが、それにしてももう少し夢のある話がいいなと思いました。かわいそうかわいそう、とただ涙を流すだけなのは違う気がします。蜂雀ももっとできることはなかったのかと。それを人に話してどうしたいのかと。


 私は宮沢賢治について全く知識がないので、上部をさらっただけの感想文になってしまって申し訳ないです。きっと何かの暗喩があったり、違う読み方ができたりするのではないかと思いますが、そういう国語的な読解力がないもので、賢治ファンの方が読んでおられましたらご勘弁願いたいです。

 もし何か思うところがありましたら、店主、どうかご教授ください。





 以上でございます。

 誕生日編、命日編と分けてさせていただきました読書感想文企画、あと4編を残しておりますが、いつか誰かが書いてくれたらいいなぁと思いつつ、企画は一旦お開きにしたいと思います。ご協力いただいた先生(ポラン堂店主)、サポーターズの皆さん、ありがとうございました。

 最後の香椎さんの文章でも触れました通り、我々は宮沢賢治学会に属する先生を師事しておきながらも、宮沢賢治さんに対する知識は全くの素人でございまして、今回の短編10選を先生からいただいた時もなんだか見たことがあるようなタイトルもあるなぁという程度、読んだことのあるものは一つもありませんでした。頭の中を真っ白に、ただちょっと聞きかじった知識とイメージをもって、感想を書けるほどの何かを自分は見つけられるだろうかと各作品に臨んだものでした。これは、おそらく学生の頃、ただ宿題として読書感想文に臨んだ気持ちとは種類が違うように思えます。

 また宮沢賢治さん企画でも、読書感想文企画でも、このようなかたちでチャレンジしたいと思っております。

 それではまた。