旅人
一指李承憲@ILCHIjp
私たちはある日「生命」というプレゼントを受け取りました。そのプレゼントと共に、無限な選択の自由も受け取りました。自分が何者か、何を人生の目的とするのかを私たちは選択できます。そして、選択した通りに生き、人生の意味を自ら創造していけるのです。
Facebook相田 公弘さん投稿記事 「旅人」
ある町に一人の旅人がやってきました。町の入り口の門のところに一人の老人が座っていました。旅人は聞きます。「おじいさん、この町はどんな町?」
逆におじいさんは旅人に聞き返しました。「あなたが今までいた町はどんな町でしたか?」
旅人は答えました。「いやあ、前にいた町は嫌な人ばかりでろくな町じゃなかったよ」「そうですか、この町もあなたが前にいた町と同じ町です」
また別の旅人が町に来ておじいさんに聞きました。「おじいさん、この町はいったいどんな町ですか?」おじいさんはまた聞き返しました。「あなたが以前いた町はどんな町でしたか?」「私が今までいた町は、すばらしい町で、人々は親切で、あんなによい町はありませんでした。」「そうですか、この町もあなたが前にいた町と同じ町です」と答えました。
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二人の旅人が来た町は同じ・・・つまり!!!環境というものは「自分の心が決める」ということです。環境を作るのは自分なんですね♪自分の心が環境を決めている。。。
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今日の1歩
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「環境が人を作るということに捉われてしまえば、人間は単なる物、単なる機械になってしまう。
人は環境を作るからして、そこに人間の人間たる所以がある、自由がある。即ち主体性、創造性がある。
だから人物が偉大であればあるほど、立派な環境を作る。人間が出来ないと環境に支配される」by安岡正篤先生 出典「安岡正篤一日一言」 到知出版社※100人の一歩より
Faceboookウォン ウィンツァンさん投稿記事 <友人たちの自死>
昨日の朝、知人が自死したと、奥様から連絡があった。一年前、首の手術をして以来、体調がどんどんと悪化し、そんな中での自死だったと云う。突然で自分も受け入れられないでいると、泣いている。
応対していた美枝子が「ともかく祈っている」と伝えて、少し落ち着いたようだった。
彼はかつてディストリビューターとして、サトワミュージックのCDを多数扱ってくれていた。一時期はインディーズとしてはありえないぐらいの枚数を彼が売りさばいていた。
しかし時代は移り変わり、CD店が軒並みクローズになっていった。
それとともに、彼の事業も先行きが見えなくなり、ローンだけが残り、子供を抱えながら肉体労働者になっていった。その中で過労で病気になったとも聞いていた。
私達もどうすることも出来なかった。連絡も途絶えていた。
そして突然の訃報を受け、私達も驚きと悲しみと、そしてやりきれなさが覆った。
なんとも言えない不全感や、いきなり強制終了されたような、そして寄り添えなかったことへの悔い、、、
これで私の友人、知人で自死されたのは4人になってしまった。
彼らは皆、病魔に侵されていた。
一人は双極性障害で、自死念慮がいつもあって、ある時、身投げした。
一人は視力を失いつつある中で、天涯孤独だったこともあり、自死を選んだ。
もう一人は筋力がウイルスに侵されて、寝たきりになる直前に母親に手伝ってもらって自害した。その後母親は行方不明だと聞く。
また家族が自死したという友人も多い。残された家族は、本当に大変そうに見える。
わたしも自死念慮に取り憑かれた人に、数ヶ月関わったことがあるが、なんとかギリギリのところで命を取り留めることは出来た。
それは強烈な体験になった。 彼らは皆、将来に絶望し、自死を選んだ。
以前世間では、筋無力症の自死に関する議論があったけど、答えを導き出すのは難しい。
彼らの立場になって、私達は考えられないのだから、何を言っても、虚しい感じがする。
私もかつては自殺をいつも考えているような青年だった。
高校時代、原口統三や高野悦子、太宰治に傾倒し、村山槐多やゴッホなど夭折した画家たちを好んで画集などを手に入れていた。
当時は孤独、理解者の不在、悲観、厭世観、そして死の美意識に覆われていた。
中学時代に受けた校内暴力が原因だったけど、そのことを誰にも話すことはなかった。
19歳ごろからジャズやフリージャズを演奏することで、自殺の代償行為になった。
おかげで生き延びることが出来たけど、自殺念慮は30代の後半まで続いた。
求める音楽が成就できず、絶望の淵にいた。
音楽を実現できないのであれば、これ以上生きる意味がなかった。
美枝子も息子もいたのに、、、
私には音楽しか眼中になかったし、音楽が成就しないということは死を意味した。
幸いにも瞑想に出会うことで、希望を見出し、ようやく命を取り留めることが出来たのだった。
でもそれで自死念慮が終わったわけではない。
今でも、ふとしたきっかけで死の思いがよぎる事がある。
タナトスを払拭することは出来ない。 自死を美学で語る輩を私は信じない。
三島由紀夫も、いわゆる即身成仏なるものも、どれも死の美学にとりつかれた亡者だ。
カミカゼを美しく語るものも許せない。本当の「死」はそんなものじゃない。
あるカウンセラーの友人がガンに侵され、死期を言い渡された。
彼女は死を受け入れ、友人知人とお別れ会を盛大にやって、その後、自宅ホスピス的な生活に入った。
近親は娘さん一人だったこともあり、私達が交互に付き添い、看取ったことがある。
死のおとづれを受け入れ、静かに娘さんと友人たちに看取られて旅立った。
素晴らしい旅立ちだった。
残された娘さんや友人たちに悔いはなく、とても爽やかな別れだった。
多くの別れを体験した。どんな死に方が良いとか、語り様もない。
私だってこれから追い詰められて、あるいは衝動的に、自死しないとは限らない。
ただ今は、いつか必ずやってくる「死のおとづれ」を、静かに待つことが、命に対する最も誠実な態度のような気がする。
Facebook清水 友邦さん投稿記事
9月21日は宮沢賢治の命日です。賢治は死にゆく時もきれいな青空と透き通った風を
感じていました。
昭和三(1928)年の夏、稲作の指導に尽くしていた賢治は急性肺炎になって豊沢町の実家にもどりました。
咽喉から出血がとまらず「また なまぬるく あたらしい血がわくたび なお ほのじろく わたしはおびえる」と不安に怯えていました。
昭和五年(1930)になって快方に向かい東北砕石工場の技師となりました。
しかし、昭和六(1931)年九月二十一日に再び倒れたのです。それから二年間は、ずっと病床でした。昭和八(1933)年九月二十一日午後一時三十分、賢治は三十七歳で亡くなりました。賢治が亡くなった年は何十年に一度の大豊作で街は人で賑わっていました。賢治の絶筆は、そのことを喜んでいる詩でした。
方十里
稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる 病(いたつき)の ゆゑにも くちん
いのちなり みのりに棄てば うれしからまし
賢治が息絶え絶えになっている時の詩です。
『だめでしょう 止まりませんな がぶがぶ湧いているですからな 夕べから眠らず
血も出続けなもんですから あたりは青くしんしんとして どうも間もなく死にそうです
けれどもなんといい風でしょう もう清明が近いので あんなに青ぞらがもりあがって湧くやうに きれいな風が来るですな』
(中略)
『あなたの方から見たら ずいぶん惨憺たる景色でしょうが わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青空と 透き通った風ばかりです』(眼にて云ふ)
賢治の身体からは 生ぬるい血があふれる惨憺たる光景ですが、賢治は「透きとおった風」を感じていました。
暴風雨で荒れ狂う台風でも中心は穏やかでいつも青空がでています。
海面が暴風雨で荒れ狂っていても 海の底はいつも穏やかで静かです。
心の表層が怒りと恐れと不安に波打つ状態になっても 自己の中心はいつも静寂です。
あらゆる出来事に実体はなく 気づきという無限の広がりの中で 瞬間から瞬間へ体験が生じては去っています。
すべてはかならず過ぎ去ります。
気づくと いつも 生と死を超えて 透明な風が虚空を吹き抜けています。