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インダス文明の遺跡ハラッパー

2024.09.28 12:32

http://gototakaamanohara.livedoor.blog/archives/18062212.html 【北緯33度 五島・高千穂・ハラッパー・バビロニア(メソポタミア)・ガリラヤ湖】


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今週も栃木支部から。先週に引き続き、五島高資さんのお話しです。

世界遺産の島、五島列島。そして、五島列島が高天原であるという説を探ります。

北緯33°線上にある五島列島ですが、世界の北緯33°線上にも世界的に重要な遺跡があります。

例えばキリストがキリスト教を広めた聖地と言われるガリラヤ湖。

シュメールがあったとされる場所。インダス文明のハラッパー。そしてモヘンジョダロ。

それは偶然なのか?そして、日本の北緯33°線上には何があるのか?

世界と日本の地理的な古い繋がりから、

世界と日本の繋がりについて想いを馳せてみませんか?

【CCJ栃木】高天原の五島列島の謎!北緯33度線に隠された秘密とは?五島高資氏に聞く

https://www.youtube.com/watch?v=zi-PNWC9X30

https://citizen-channel.com/archives/1198

https://hugkum.sho.jp/261803 【謎多きインダス文明の遺跡ハラッパー|モヘンジョダロもあわせて把握【親子で歴史を学ぶ】】より

世界には、はるか昔に栄え、滅びてしまった「古代文明」がいくつかあります。その一つ「インダス文明」は、「ハラッパー」の発掘調査によって、私たちの前に初めて姿を現しました。インダス文明を代表する遺跡、ハラッパーと「モヘンジョダロ」について解説します。

「ハラッパー」とは?

まずは、ハラッパーの発掘の歴史や、正確な場所をおさらいしましょう。インダス文明の基礎知識もあわせて紹介します。

インダス文明の都市遺跡

ハラッパーは、紀元前2300~1800年ごろに、インダス川中流にあった都市の遺跡です。れんが造りの建物と、大小の道路によって碁盤目状に区切られている整然とした街並みが特徴です。

近くを流れるラーヴィー川が氾濫(はんらん)し、多くの人が濁流に飲み込まれて命を落としました。このため、後世の人により、「食べられた」の意味を持つ言葉「ハラッパー」と名付けられます。

ハラッパーを本格的に発掘調査したのは、イギリス人考古学者「J.マーシャル」です。1920年代に彼が行った調査によって、「インダス文明」の存在が初めて明らかになりました。

インダス文明とは

インダス文明は、インダス川の流域で発展した古代文明です。インドの先住民・ドラヴィダ系民族がつくったといわれています。

インダス川は、ヒマラヤ山脈を源流とし、インドの北西部からパキスタンを通り、アラビア海に向かって流れる川です。ハラッパーを飲み込んだラーヴィー川をはじめ、たくさんの支流を持つ主要な大河の一つです。

インダス川(パキスタン)。長さ3180㎞におよぶパキスタン最長の河川。世界でもまれな海嘯(かいしょう)が起きることでも知られている。海嘯とは、潮津波ともいわれ、河口に入る潮波が垂直の壁となって河を逆流する現象をいう。アマゾン川やイギリスのセヴァーン川などでも起きる。

インダス文明の都市遺跡は、ハラッパーの他にも、いくつか見つかっています。

なかでも、インダス川下流域で発見されたモヘンジョダロは、ハラッパーに並ぶ規模を誇る重要な遺跡です。インダス川の恵みを利用して、古代の人々は壮大な都市国家を建設したのでしょう。

パキスタン東部に位置する

ハラッパーは、パキスタン北東部のパンジャーブ地方にあります。パンジャーブ地方は、インダス川の流域で見ると、上流~中流部分に該当します。

下流のモヘンジョダロとは、約600kmも離れていますが、当時は、川を利用した水上交通によって都市同士の往来があったようです。

日本でたとえると、東京から大阪までの距離に匹敵する長い道のりを、どのくらいかけて旅していたのか、想像してみると面白いかもしれません。

ハラッパーの遺跡発掘による影響

ハラッパーの遺跡発掘により、インダス文明の詳細は、どこまで明らかになったのでしょうか。発掘の影響や、実態について見ていきましょう。

インダス文明発見のきっかけに

ハラッパーの存在自体は、古くから知られていました。しかし、誰も古代文明の遺跡とは思わず、さほど重要視されていませんでした。

19世紀半ばには、インドの植民地化を進めていたイギリスが、ハラッパーから大量の「れんが」を掘り出して、鉄道工事に利用してしまいます。

マーシャルが本格的に発掘を始めたときには、すでに遺跡の大半が破壊されていたのです。

それでも残された部分からは、古代の都市遺跡であることを示す証拠が多く見つかり、インダス文明発見のきっかけとなりました。

ハラッパーの発掘は、現在も続いています。しかし、イギリスが鉄道を敷くよりもずっと前から、地元の人々は、ハラッパーのれんがで家や寺などを建て、生活の場としていました。

実際に住んでいる人がいるために、発掘できない場所も数多くあります。

当時の生活が分かる建物や土器などを発掘

ハラッパーからは、各種建造物の跡や生活用品、宝飾品などが発掘されています。都市は城塞(じょうさい)部分と市街地で構成され、城塞には政治や儀式に使う建物、穀物倉などがありました。

市街地では住宅・製粉場・墓地・ごみ捨て場など、人々の生活の跡が見つかっています。住宅には井戸と浴室があり、汚水を流す排水溝も整備されていました。

彩色土器や青銅器などの生活用品に加え、宝飾品や印章も出土しており、遠く「メソポタミア地方」の商人と交易していた様子もうかがえます。

なお、印章に刻まれた象形文字は「インダス文字」と呼ばれています。インダス文字は、いまだに解読できていませんが、インダス文明が文字を使う高度な文明だったことは明らかです。

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ハラッパーに並ぶ遺跡「モヘンジョダロ」

インダス文明の遺跡としては、モヘンジョダロも有名です。モヘンジョダロの特徴を簡単に解説します。

モヘンジョダロの場所

モヘンジョダロは、パキスタン南部のシンド地方にあります。最盛期には3~4万人が住んでいたとされ、ハラッパーと並んでインダス文明を代表する重要な遺跡です。

モヘンジョダロも、後世の人が付けた名前です。「死の丘」を意味しており、1922年に発掘調査が始まるまで、地元の人は、決して近づいてはならない場所として恐れていたと伝わっています。

世界遺産に登録

大規模な都市の遺構が発見され、れんがや土器も、そのままの姿で残っていることが分かったモヘンジョダロは、インダス文明を象徴する遺跡として、1980年にユネスコの世界遺産に登録されました。

しかし、モヘンジョダロは、年々風化が進み、消失の危機にさらされています。

原因は、地下水に含まれる塩分です。モヘンジョダロ周辺では、農業用水確保のための灌漑(かんがい)が進み、水面が上昇したために、地下の塩分濃度が濃くなりました。

地下に埋まっていた「れんが」が、地下水から塩分を吸収したため、空気に触れると劣化してしまうのです。このためパキスタン政府とユネスコでは、共同でモヘンジョダロの保存活動を始めています。

ペルセポリス遺跡(イラン)。ペルセポリスは、インダス文明発祥の地であるアフガニスタンの隣国・イランに、紀元前550~前330年まで栄えたアケメネス朝ペルシア帝国が建設した都だった。1979年に、世界遺産登録。

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まだまだ謎の多いハラッパー

ハラッパーやモヘンジョダロが、インダス文明の遺跡として注目されるようになったのは、20世紀に入ってからです。どちらも保存状態が悪く、思うように調査が進んでいません。

インダス文字をはじめ、多くのことは謎に包まれたままです。4000年近くもの間、地下深くで静かに眠り続けたインダス文明について、子どもと一緒に想像を巡らせてみるのもよい勉強になるでしょう。


https://note.com/noruniru0826/n/ne8c3e1cb4b03 【【世界史】ざっくりインド史#2 インダス文明とヴァルナ制】より

インドの歴史がなぜ注目されているかというと、やはり文明がおこったからなんですね。それがインダス文明というものです。インダス文明の遺跡の分布をみても北西に偏っています。つまりインダス川流域に集中していることがわかります。

インダス文明を代表する遺跡にハラッパーやモヘンジョ=ダーロがあります。1922年にインドの考古学者が遺跡を発掘したところ、文字が刻まれた印章(ハンコのようなもの)が発見されたことによって、この遺跡の存在が明らかになったのです。未だ解読されていないインダス文字ですね。

モヘンジョ=ダーロの最大の特徴は計画的につくられた巨大都市です。

モヘンジョ=ダーロの発掘調査によると、1.6km四方と推定され、日干しレンガや焼きレンガを大量に用いて区画整理された街並みが特徴です。

また、立派な城塞や住宅、整備された下水道の遺構も発見され、高度な都市計画をもつ文明だったとされています。

洪水や放牧、樹木の伐採による環境破壊、塩害による農業衰退といった説がありますが、決定的な説は不明ですがインダス文明は衰退していきます。

ヴァルナ制

こうして高度な文明を築いたインダス文明も突如終わりを迎えます。理由はよくわかっていません(それだけインダス文明は謎が多いんです)

インダス文明が滅んだ後、北西からアーリア人がパンジャーブと言われる地方に進入してきます。インダス川の間にある地域です。

先住民はそんなアーリア人に押し出される形で南インドに移住します。

このアーリア人の侵入により、この後、ヴェーダ時代→小国分立の時代→仏教やジャイナ教の誕生と、アーリア人の進入により、インドの生活や宗教が変わったり誕生したりしますが、このあたりは割愛します。ざっくりがテーマですので…。ここでは、インダス文明後の流れをざっくり知っていただければオッケーです。

しかし、アーリア人の進入がすすみ、農業をはじめ、鉄器を使用したことにより農業生産力があがったことで、新たな秩序がうまれます。

それはヴァルナ制とよばれるものです。

これは先住民とアーリア人で肌の色の違いがあったがためにうまれた、身分的上下階級がヴァルナ制です。ここでは「色」ということが重要で、「ヴァルナ」とは「色」を意味します。

アーリア人の進入によって先住民と交じって農耕社会を築いた結果、アーリア人が定住し、生産が安定し豊かになってくると、大きく分けて「農業に専念する人」と「農業に専念しない人」に分けられ、特に「農業に専念しない人」が強い権力をもち、たちまち王となり人々を支配するようになります。その中でも宗教を司る「バラモン」(のちにバラモン教が誕生しますがここでは割愛)が宗教的権威としての力を高め、次第にはヴァルナ制におけるトップの地位に君臨するようになるのです。

基本的にアーリア人が上位階級に位置し、先住民はシュードラという隷属民に属していました。

これが長い年月を経て、この4つのヴァルナはそれぞれの職業ごとに細かく分け、生まれによってさらなる階級として「カースト」と呼ばれる制度に発展していきます。「カースト」とはポルトガル語由来で「血統」を意味します。

アーリア人が進入し、小国の分立、都市国家が乱立する時代が続きますが、これを一つにまとめ、インド史における初めての王朝、マウリヤ朝が誕生しますが、それはまた次回。


https://www.jw.org/ja/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC/%E9%9B%91%E8%AA%8C/g20000708/%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%B7%9D%E3%81%AB%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8F%E3%82%8B%E8%A9%B1/ 【二つの川にまつわる話】より

インド亜大陸の重要なライフラインである二つの川は,幾億もの人々の暮らしを支えています。どちらの川も源流は世界最高の山脈の氷河地帯にあり,互いにそれほど離れてはいません。その堂々たる流れはそれぞれ2,400㌔を超え,おもに二つの国を通って別々の海に注ぎます。どちらの川の流域も古代文明の発祥の地となり,主要な宗教の誕生の地ともなりました。人々はその恵みを感謝し,一方は今でも崇拝されています。その川の名は何でしょうか。インダス川とガンジス川です。ガンジス川はここインドにおいてはガンガー川と呼ばれています。

人類の生存と繁栄に水は欠かせません。そのため,初期の文明は河川の流域で発達しました。川は神格化されて男神や女神とみなされたこともあるため,初期の記録はしばしば神話に包まれています。インダス川や,インドでガンガー・マー(母なるガンガー)とも呼ばれるガンガー川の歴史についても確かにそう言えます。

ヒンズー教徒も仏教徒も,標高6,714㍍のカイラス山と近くのマナサロワール湖を神々の住まいとみなしています。その湖からは4本の大河が動物の口を通って流れ出ていると,長いあいだ信じられていました。ライオンの川がインダス川であり,クジャクの川がガンガー川であるというのです。

チベット人は外国人探検家を寄せつけようとしませんでしたが,1811年のこと,東インド会社に雇われたイギリス人の獣医がいろいろな姿に変装してその一帯を旅しました。その獣医によれば,マナサロワール湖に流れ込む谷川は確かに幾つかありましたが,そこから流れ出る川は一つもありませんでした。インダス川とガンガー川の源流が突き止められたのは,20世紀初頭になってからのことです。インダス川の水源はヒマラヤ山脈の北方のチベットにあり,ガンガー川はインド北部のヒマラヤ山脈の中腹にある氷穴に源を発しています。

古代文明が誕生した場所

インド亜大陸の最初の居住者となったのは,東方に旅をしてインダス川流域に移り住んだ人たちであると考えられています。考古学者はその地域のハラッパやモヘンジョダロなどで,高度に発達した文明の遺跡を発見しています。20世紀初めの何十年間に,そうした発見によって,インドの初期の定住者は原始的な遊牧民族であったという説が改められました。インダス文明は4,000年以上も昔に,メソポタミア文明に勝るとも劣らない発達を遂げていたのです。碁盤の目のように走る通り,集合住宅の区画や2階以上ある家々,優れた下水道や浄化槽の設備,巨大な穀物倉,寺院,儀式上の清めを行なうための沐浴場などはすべて,進んだ都市文明が存在したことを示しています。メソポタミアや中東と通商関係があり,インダス川が何百キロも内陸の地からアラビア海に至る交通路となっていたこともうかがえます。

何世紀もの間に,インダス川流域の都市文明は,地震や大規模な河川のはんらんといった自然災害によって衰えていったようです。そのため,中央アジアから何度も波のように侵入して来た,一般にアーリア人と呼ばれる遊牧民に抵抗する力はほとんどありませんでした。インダス川周辺の都市に住んでいた人々のほとんどは追いやられ,インダス川流域で発展した古代文化は南インド に移りました。今もその地方には,インドの主要な民族グループの一つであるドラビダ人が住んでいます。

アーリア人の中には,インドを通って東に移動し,ガンガー平野に定住するようになった部族もありました。こうして,インド亜大陸のアーリア人は,おもにガンガー川とつながりのある北インドで独特の文化を発展させました。今日でもその地域には,当時の文化がかなり残っています。

二つの川と二つの宗教

出土品を調べると,インダス川流域とメソポタミアの宗教に類似点のあることが分かります。長い間アーリア人の宗教とみなされてきたヒンズー教の遺物が,インダス川沿いの都市遺跡で発見されています。アーリア人の到来以前からあった神々や宗教信条とアーリア人の神々や宗教信条とが融合して,ヒンズー教が生まれました。アーリア人は最初のうちインダス川を聖なる川とみなしていましたが,東方に移動してガンガー川沿岸に落ち着くと,ガンガー川崇拝に乗り換えました。何世紀かたつうちに,ハリドワール,アラーハーバード,ワーラーナシーなどの都市がガンガー川沿いにヒンズー教を中心として発達しました。今日,幾百万という巡礼者がそのような中心地に集まり,いやしと清めをもたらすと考えられているガンガー川の水に身を浸しています。

ヒンズー教はインダス川周辺で始まりましたが,仏教のルーツはガンガー川の近くにあります。仏陀と呼ばれるガウタマ・シッダールタが最初に説法をしたのは,ワーラーナシーの近くのサルナートにおいてでした。79歳の時には,川幅の広いガンガー川を泳いで渡ったと言われています。

今の二つの川の姿

今日,川の水は,人々が生活の糧を得るためにインダス川とガンガー川の岸辺に集まった4,000年前よりも危機的な状態にあります。インド,パキスタン,バングラデシュに暮らす,おびただしい数の人々の生活を支えるには,川を注意深く管理しなければなりません。(16,17ページの地図をご覧ください。)どちらの川も国を越えて流れていますから,国際的な協定が必要となっています。パキスタンが建設した施設の一つは,幅3㌔,高さ143㍍ほどのかんがい用のタルベラ・ダムです。これは世界最大級のダムであり,1億4,850万立方㍍の土砂を盛ってできています。ガンガー川のファラッカ・ダムは,カルカッタ港付近の輸送量増加に見合った量の水を川に安定供給する役目を果たしています。

多くの川と同様,ガンガー川にとっても汚染は大きな問題です。そこでインド政府は,1984年にガンガー川行動計画という大掛かりな計画に乗り出しました。汚水を肥料や生物ガスに変え,下水が川に流れ込まないようにし,化学廃棄物の処理施設を建設することに注意が向けられました。

ところが,地球上の川に本来の美しさや清らかさを取り戻すという難題は人間の設ける機関の手に負えない,ということが明らかになっています。しかし,神はまもなく事態を改善してくださいます。神の王国の支配のもとで,全地はパラダイスとなり,『川も手をたたく』でしょう。―詩編 98:8。

[16,17ページの囲み記事/地図]

雄大なインダス川

インダス川には非常に多くの支流があるので,本当の水源の位置については様々な意見が唱えられてきました。しかし,この大河がヒマラヤ山脈の高地に源を発していることは確かです。インダス川は北西に向かって流れ,他の水の流れを集めながら,「世界の屋根」と呼ばれるチベット高原を約320㌔駆け抜けます。ラダック地方のインド国境に近づくと,山々の間を抜け,断崖の底を浸食してヒマラヤ山脈とカラコルム山脈の間に水路を形成します。インド領内に入ると,560㌔ほど進む間に3,700㍍近くも下ります。川は北に向かって流れ下り,その後,急カーブを描いてヒマラヤ山脈の西端を回り,そこでヒンズークシ山脈からの大河ギルギット川の激流と合流します。その後,パキスタンを通って南下します。山々の間を縫って進み,猛烈な勢いで曲がりくねったり方向転換したりしながら,ついに平野にたどり着き,パンジャブ地方を潤します。パンジャブには「五つの川」という意味があります。それは5本の大きな支流 ― ベアーズ川,サトレジ川,ラービー川,ジェラム川,チェナーブ川 ― が巨大な手の指を広げたかのように流れているためです。インダス川はそれらの川と合流し,やがて約2,900㌔にわたる壮大な旅を終えます。

あがめられるガンガー川

ベンガル湾まで2,500㌔を超えるガンガー川の旅は,ヒマラヤ山脈にあるインダス川の水源の南100㌔ほどの所から始まります。ガンガー川の源流は,標高3,870㍍以上の氷河の突端からわき出ています。牛の口に似ているこの突端は,ヒンディー語でガウムクと呼ばれます。わき出た水はバギラティという川になり,源流から214㌔ほどのデバプラヤーグで,アラカンダという別の川と合流します。この二つの川が,マンダキニ川,ダウリガンガ川,ピンダール川と合流してガンガー川となるのです。

ガンガー川はインド亜大陸を南東へと進みながら,インドのアラーハーバードではヤムナー川と,バングラデシュでは大河ブラフマプトラと,というように,ほかの大きな川と合流していきます。ガンガー川とその支流は扇のように広がって,インドの総面積の4分の1にあたる肥沃なガンガー平野を潤します。流域面積は103万5,000平方㌔であり,現在10億を超えるインド人口の約3分の1の暮らしを支えています。この地域は世界でも有数の人口密集地帯です。バングラデシュでは内海のように川幅が広がり,あらゆる物品の運送路となっています。その後,ガンガー川は幾つかの大きな川と無数の細流に枝分かれし,世界最大級のデルタ地帯を形成します。