神を感動させる祈りとは?
2018.2.14 「神を感動させる祈りとは」
創世記32:24-32節
ヤコブは母リベカの兄ラバンの家で20年間住んでいました。ヤコブはラバンの二人の娘たちのために14年間。そして、ラバンの羊の群れのために6年間、合計20年間ラバンに仕えてきました。それなのに、ラバンは幾度もヤコブへの報酬を変えたのです。
それにもかかわらず、主なる神は、ヤコブの悩みとその手の労苦を顧みられました。そして、妻であるレアとラケル、女奴隷たちによってたくさんの子宝に恵まれました。それだけでなく、不思議な方法で、正当な方法でたくさんの羊や山羊、らくだ、牛などが与えられ、彼の財産となりました。ある日、ヤコブは自分に対するラバンの態度やラバンの息子たちが以前のように優しくないのに気が付きます。その理由は、ヤコブが見る見るうちに祝福されて財産が増えていったからです。
そこで、ヤコブは二人の妻レアやラケル、そして奴隷たち、子供たちを連れてラバンの家からカナンの地にいる父イサクの所へ逃げる決心をします。
ヤコブはラバンの家から離れる時も、ちゃんと神の使いの声に従って行動しました。勿論、ヤコブの群れが逃げる時、ラバンに追っかけられたのですが、ヤコブは旅の途中ラバンと石塚を作って契約を結びます。その石塚はヤコブとラバンの境界線となりました。
創世記32章1-2節です。「さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。ヤコブは彼らを見た時、『ここは神の陣営だ』と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。」
私たちも人生の旅を続けているとき、ヤコブに現れた神の陣営が、私たちにも現れるとどんなに心強いことでしょうか。
ヤコブは20年ぶりに地元に帰るのですが、長子の権利を奪った兄エサウのことが気になって、それほど嬉しくはありませんでした。むしろ、兄アサウを恐れていました。それは、兄エサウが弟ヤコブを殺そうとしていたからです。それから、20年が経ちます。そこで、ヤコブは前もって兄エサウの様子を探るためにエサウが住んでいる所に使者を送ります。
その使者がヤコブの所に帰ってきて、兄エサウは、ヤコブを迎えに400人を引き連れてやって来ると言う話を聞きます。そこで、ヤコブは非常に恐れて心配し、切羽詰まった思いでこのように神様に祈りました。
創32章9-12節です。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする』と仰せられました主よ。 私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子供たちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。 あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数え切れない海の砂のようにする』と仰せられました。」と、このように具体的に祈るわけです。
ヤコブが家を出て20年。色んな経験をして、彼自身も兄エサウの長子の権利を奪ったことを申し訳なく思い、兄の怒りをなだめるためにたくさんの贈り物を用意していました。勿論、この贈り物で兄の怒りが収まるとも思っていませんでした。ですから、ヤコブはヤボクの渡し(Ford)を渡った時、二人の妻と、二人の女奴隷と、十一人の子供たちを先に渡らせて、自分だけ、あとに残り、神の使いと夜明けまでお相撲を取ります。これが有名なヤコブの格闘の話です。
それでは、本日の本題に行きたいと思います。前触れが長くなりました。
ヤコブと言えば、創世記28章のヤコブの夢の中での神の御使いたちが、梯子を上り下りしている場面と、創世記32章のヤボクの渡しで、ヤコブが神の使いと格闘した場面が挙げられます。創32章の神の天使とのスモウ取りは、色んな角度で解釈されています。つまり、ヤコブのスモウのことを神の心を動かす「祈りの大切さ」であると、ほとんどの説教者は語られています。しかし、このようなヤコブと天使との格闘或いはスモウ取りは、創33章にあります兄エサウとの20年ぶりの再会の緊張さ、いや、下手すると自分の命が危ない危機感の中において、必死に、自分を守って祝福してくださるように、夜通しでそれも太陽が上るまで数時間、さらに自分のもものつがいが外れるまで天使にしがみ付いて格闘するのに十分な行動であったとも言えます。
そこで、ヤコブは創32:28節で、神と戦って勝利したことで、ヤコブからイスラエルという名前に変えられました。ここで、一緒に考えてみたいと思います。
私たちは、悪魔と戦って勝利するのも難しいのに、神と戦って勝利するとは、とんでもないことだと私は思います。これは、比喩的、アレゴリカルな表現だと思います。
創32章のヤコブの格闘は信仰からと言うよりも生きるか死ぬかという瀬戸際に置かれての勝利だと思います。 例えば、マルコの福音書7章24-30節で、汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、主イエスの足元にひれ伏して、自分の娘から悪霊を追い出してくださるように主イエスに願い続けました。すると、主イエスは言われました。ユダヤ人たちにあげるパン、つまり恵みを取り上げて、小犬のようなあなたみたいな異邦人に投げてやるのは良くないことですと言います。しかし、女は答えて言いました。「主よ。そのとおりです。しかし、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」そこで、主イエスは言われました。「そうまで言うのですか。それなら家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていたと福音書は伝えています。 この女性の話とヤコブのスモウ取りの話の共通点は何でしょうか。それは、切羽詰まった状況に置かれて、わらにもすがる思いが神を感動させたことです。何をどのように祈ればいいか分かりませんが、女性のように、或いはヤコブのように必死に願い続けることで、天使も感動し、主イエスも感動され、求める人に祝福が保証されたのです。たくさん祈ったから叶えられるような祈りの量ではないことが分かります。つまり、神に祈り求める時の真剣さが大切です。それが神に伝わったかどうかがポイントであると思います。