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均一の世界、壊れない世界からは文化は生まれない

2022.09.25 07:52


Facebook竹元 久了 · さん投稿記事  🌷西岡常一棟梁から学ぶ自然観

1.均一の世界、壊れない世界からは文化は生まれない

世の中全体がせちがらくなってきました。人を育てるのも大量生産で、何しろ早くですわ。それとそんなに丁寧にものを造ってもらわんでいい、適当な大量生産の安いものでいいというんですからな。

職人の仕事のよさは一つ一つ違う材料のよさを引き出してものを造ることやけど、そんなもん、いらんというんですからな。日本の文化はそうやて、自然の持つ素材のよさを生かして、自然の中に置いて調和のとれるものを造っていく中で生まれ、育ってきたんですけどな。

今は石油を材料にしてどんなに扱っても壊れん、隣の人と同じもの、画一的なものを作れというんですからな。いつまでも壊れん、どないしてもいいというたら作法も心構えも何もいらなくなりますわな。

均一の世界、壊れない世界、どないしてもいい世界からは文化は生まれませんし、育ちませんわな。職人もいりません。何しろ判断基準が値段だけですからな。

2.飛鳥時代の工人に、わたしたちは未だに追いつけない

みんな新しいことが正しいことだと信じていますが、古いことでもいいものはいいんです。明治以来ですな、経験を信じず学問を偏重するようになったのは。

しかし、私らは1300年前に法隆寺を建てた飛鳥の工人の技術に追いつけないんでっせ。

木の癖を見抜き、それを使うことができ、そのうえ日本の風土をよく理解し、風雨や地震に千年以上も耐える建造物を造っているんですからな。

それが時代が下がるにつれて構造の主体が忘れられ、装飾に走るようになる。一度そうなると新しいものを追いかけて、使い捨ての考えになっていくんですな。

飛鳥や白鳳の工人にできたことが時代が進むにしたがってできんようになるというのは、道具や腕のせいもありますが、それを使う工匠の心構えが違ってきたり、木の癖をつかむことを忘れてしまったりしたからですな。

便利さが追求されるようになると、それを頼りにし本来のものを忘れて行くんですな。

大工が尊敬されなくなったのは、西洋から建築学が入ってきた明治時代からです。木をいじる大工ではない者が設計するようにり、そしてすべてが分業になりましたわな。

昔の棟梁は、石から材木から一切自分の責任でやったんですな。今じゃ材木は材木屋、石は石屋というふうになってしまった。それもたんなる職業で、道具が使えるだけの道具使いになってしまった。何でも計算や形に当てはめて考えるから物事が逆さまになりますのや。

コンクリートや鉄やったら実験して強さや耐用年数が計算できるかもしれませんが、木はそうはいきません。

大工は一本一本違った性質を持つ木を扱います。それぞれの木の癖を読み、それを生かすのが仕事です。建築学などというものが存在しない1300年前に法隆寺や薬師寺を造ってこうして残してくれている。法隆寺を見ていたら、本当に飛鳥の工人の偉大さに頭が下がります。

3.現在の建築基準法、あれはデタラメもはなはだしい

古代の建築物を調べていくと、古代ほど優秀ですな。新しくなるにしたがって、木の生命より寸法というふうになってくる。大工が無理やり集められて、早く終わらして帰りたいと思ってつくったんやろなというのが分かる。今の大工にも似たところがありまっせ。時間を急いで木の使い方も考えずに、寸法だけ合わせればいいって考えてやれば残りませんわな。地震で倒れ、風で倒れてしまう。法隆寺はつくってから1350年目に解体修理しているんですが、日光は350年ぐらいで解体修理せなならんのや。日光は構造よりも「飾り」を選んだんです。

建築基準法、あれはデタラメもはなはだしい。ちゃんとつくれば200年は持つのに、今の木造建築でやったら25年でだめになる。ボルトを使えだとか、何使えだとかいうからいかんのや。深く考えることなくアメリカのまね、イギリスのまねをやっている。飛鳥の工人は、大陸からの技術を鵜呑みにせんと、雨が多く湿気の多い日本の風土に合わせて構造を考えていました。

基準法にはコンクリートの基礎を打ちまわして土台をおいて柱を建てろと書いてある。しかし、こうしたら一番腐るようにでけとるのや。コンクリートの上に木を横に寝かして土台としたらすぐ腐りまっせ。法住寺や薬師寺と同じように、石を置いてその上に柱を立てるというのが大事なんです。明治以降に入ってきた西洋の建築法をただまねてもダメなんや。

4.もう少し人間は謙虚にならなくてはならない

科学が進歩したというて、昔の技術を無視したり、忘れてしまってはいけませんで。経験の積み重ねにはそれだけの価値が隠されておりますのや。科学はやもすると、経験や勘を枠の外にはずそうとする傾向がありますが、経験や勘も立派な学問でっせ。数字や文字にできんからというて無視したら大きな損失ですな。

法隆寺や薬師寺のようなみごとな建造物を今のような道具なしに、一つずつ違う木の癖を生かして組み上げたんでっせ。

先人はここに千年以上の時間を越えてものを見る習慣を持っていたということを証明して見せてくれているんですからな。

人間というのは知恵があってすぐれた動物やから、何でも自分の思うようにしようとするけどね、そんなの自然がなくなったら人間の世界がなくなるんです。人間賢いと思っているけど一番アホやで。動物は食う量にしても、木や自然とうまくつりあっとる。それが人間はすぐに利益をあげようとする。今の人は自分で生きていると思うていますが、自分が生きているんやなしに天地の間に命をもらっている木や草やほかの動物と同じように生かされているということ、それを深く理解せなあきません。

匿名

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