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見えない世界が見える世界を生かす

2022.09.25 13:46

Facebook長堀 優さん投稿記事

「大悪は大善の瑞兆なり」日蓮上人のお言葉です。

 日蓮上人が活躍された鎌倉時代は、地震や台風などの大きな自然災害が繰り返され、疫病、飢饉、そして外国からの侵攻が重なる過酷な国難の時代でした。

 その様は、現代日本の国情そのものと言えるでしょう。

 国難来ることを予言した日蓮上人は、大難を小難にするための生き方を人々に説きました。

 それは、つまり、宇宙を貫く法であるダルマに還れ、ということであり、ダルマとは愛に他なりません。

 愛に基づく滅私の行為は宇宙の心そのものであり、宇宙からの祝福を受け、惜しみないサポートが注がれます。それは、高野誠鮮先生や木村秋則先生の振る舞いを見れば明らかです。愛や利他に基づく行為こそが、国難の時代に直面する我が国を襲う大難を小難にするのです。

 そして、苦しい国難の時代を越えた先に、調和に溢れた世の中が到来するのです。希望を持ち続け、日々を大切に過ごしていきたいとあらためて思いました。

 高野先生の昨日のお話も、いつもながらスケールがとてつもなく大きく、そして重要な内容に満ちていました。

 これまで秘されてきた話もたくさん含まれていました。もう時代が変わってきたということなのでしょう。

 昨日の話は、東京ではさらに十一月に続きます。

 その頃にはさらに社会情勢が変化し、昨日語れなかったこともお話しされるかもしれません。

 十月十六日には、毎年恒例辻堂での四人会も開かれます。まだ若干名申し込みができるようです。昨日のこともご報告できるかと思います。

 こちらもあわせてよろしくお願い致します。


https://www.facebook.com/events/1995881197278749/ 【見えない世界が見える世界を生かすお話2022】より

公開 · Facebook利用者以外を含むすべての人

【今年で9年目を迎える恒例イベントのご案内です!】

おかげさまで毎年大好評をいただき、もはや定例となりました本イベント。

もう毎年毎年恐ろしいほどの進化をされているお三方が集結する年に一度の対談です!!

今や一病院の院長を飛び越え、ジャンルを飛び越え、全国・世界各地を周られ著書も立て続けに出されマルチでご活躍されている生死を超えた革命家、長堀優先生。

生き方を学ぶ料理教室、断食、呼吸法に瞑想会に世界中のパワースポット巡りなど、あらゆるイベントで引っ張りだこのサトケンさん。

ココロとカラダのメッセージを聴き本来の自分の力を引き出し癒していく、これからの医療のあり方をセラピーや食や農など、様々なコラボなどを通じて伝えているありちゃん。

農業の枠を越え、様々な分野とのコラボレーション、地球上の生きとし生けるものとの共生をはかる活動をするトニー。

多忙のため1年近く前から予定を合わせて集まるこの4人が、今回はどんな化学反応を引き起こすのか!

ご存知の方には言うまでもなく、ジャンルに全くとらわれない型破りのあんな話やな話まで…どんな展開になるかもはや本人たちもわからない!(笑)

「見えない世界を見える世界に生かすお話 2022」のご案内です。

この時代を選び、そしてこの国を選び、この自分を選んで生まれてきた私たち。

この人生の中でどういうことを学び体験し成し得たかったのでしょうか。

まだ使っていない私たちの中に眠っている「力」を知り、自分自身の「ルーツ」を知ることで、逆境さえもチャンスとする力となるのではないでしょうか。

「意識」「こころ」「想念」「生命」「祈り」「未来」「エネルギー」「微生物」「空」「あの世」etc…

いろんな言い方はあるけれど、目には見えないが確かに存在するもの。

そしてその「見えないもの」こそが全ての力の源であり、全ての現象の源でもあり…

つまりその見えないもの(原因・空)を理解することにより、見えるもの(結果・色)が理解できる。全てはきっと表裏一体、シンプルなものではないでしょうか。

シンプルだけど複雑に歪められている真理。そこを紐解き意識を変えることで自分が変わり、周りが変わり、そして世界が変わり、環境が変わって、さらなる良き人生、良き世界へと変わっていくのではないでしょうか。

新しい世界観が見えてくるかもしれません。これからの人生に役立つヒントがたくさんありそうです。

そして4人の変態エネルギーを存分に吸収してください!

*今回は定員が少数となっておりますので、お早めのお申し込みをよろしくお願いいたします!

■スケジュール

13:00 開場

13:30〜13:40 開催のご挨拶

13:40〜14:50 長堀優先生の「見えない世界のお話」近況報告

14:50〜15:10 休憩

15:10〜16:30 4人のパネルディスカッション

16:30〜17:00 質疑応答

■開催概要

【日時】2022年10月16日(日) 13:30~17:00(開場は13:00)

【会場】藤沢市辻堂

場所はご参加の皆様に個別にご案内させていただきます。

JR辻堂駅より徒歩10分ほど

【参加費】5000円

    (当日会場にて。お釣りの無いようにお願いします)

【定員】20名様

■懇親会お申込み(限定10名様!)

ウッドデッキで豪華BBQの予定です🍖

 時間:17:00~

 場所:(当日お知らせします)

 料金:3000円

 人数:10名様

 お申込み:別途コメント、又はメール(nagatani.t@gmail.com)にてお申し込みの旨お知らせください

■プロフィール

◆ながちゃんこと長堀優(ながほりゆたか)先生

育生会横浜病院院長。1958年東京都生まれ。

群馬大学医学部卒業。1985年横浜市立大学医学部第二外科に入局。

1993年ドイツ・ハノーファー医科大学に留学。

その後、横須賀共済病院外科医長、横浜市立みなと赤十字病院外科部長、

横浜船員保険病院(現・横浜保土ヶ谷中央病院)副院長兼外科部長を経て

2015年育生会横浜病院院長に就任。

日本外科学会指導医、日本消化器外科学会指導医などを歴任。

西洋医学中心の医学界で活躍しながらも、目に見えない世界の大切さを説き続けている。

新書に『ホツマツタヱによる古代史の謎解き』

◆サトケンこと佐藤研一(さとうけんいち)さん

1971年生まれ。人生創談家。 (株)焚火 代表取締役

バックパッカー、ITベンチャー役員、田舎での農業・民宿修業を経て、職業を決めないスタイルで「本来の自分に還る」「日常の行動を変えずに人生の質を上げる」をテーマに身体と心と魂に触れる様々な活動をしている。

http://ta-ki-bi.jp/about_us/profile/

◆ありちゃんこと有賀雅高(ありがまさたか)さん

こころとからだが元氣なお店『クルクルポン』運営。

転職を繰り返す事5回。自分探しをする20代を過ごす。

29歳の時。メンタル疾患を機に自分ながらに生きる意味を模索。そこから導き出されたキーワード、

「人の為・手に職・オリジナルの構築」を元に2005年よりセラピスト活動を開始。

これまで述べ5千人強のクライアント様との出会いから、全ての力は自身の中に既に在ると気付かされ、人の持つ能力を引出しあうべく波動機器を使用し、クライアント様に伝えるメッセンジャーとして日々施術を行っている。

http://uzunami-torus.com

◆トニーこと長谷享(ながたにたかし)さん

1974年生まれ。半農半X。

商社マンを経て自然食系のカフェオーナーをしている頃、友人の行っていた自然栽培に出会い今までの自分の中の常識が壊され、その奥深さに感動し衝撃を受け、店を閉じて農家を目指す。

現在は農業の傍ら、楽しくみんなで繋がり合いながら農や食について触れあい、そして何でも自分で作っちゃう百姓スタイルの実践を広げるべく、静岡御殿場にある自豊暮さんとコラボして、「心育〜こはぐ」プロジェクトを11月よりスタートする予定。


http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2010_01.html 【見えないものの世界】より

梅田 ひろし

 最近、自分自身の句の世界が至って狭いことが気になってきた。それは何ゆえであろうかと考えてきたが、結論的に見える世界に捉われすぎている、もっと「見えないもの」も句に取り入れる必要があるのではないかと思うようになってきた。これはその「見えないもの」について考えるところを書いたものである。

 十九世紀の写実主義の小説家は、カメラで克明に写しとったような街の描写や住居の描写をしている。自我の眼をもって外界を見極めようとした写実に対する情熱を感ぜずにはいられないが、ここではつまり、カメラ・アイ的な絶対的客観性を求めたものである。

 絵葉書のような風景とか、写真のような絵という言い方は、今日では全く軽蔑的な言辞であるし、引き合いに出されているカメラにとっても迷惑な話であろう。カメラと言う場面においても、それを覗く人の眼とシャッターを押す意志が必要である。上は土門拳氏の作品に表現されている土門氏の詩魂といったものから、下は安直な自動操作カメラによる私たちなどの観光写真、人物写真における各人の構図のあり方まで。

 何ものかを見て、文字によってであれ、色彩によってであれ、カメラのようなものであれ、写しとることは、すべて能動的な行為である。

 受身の形で見えているだけであったものを、見るという能動的な行為に切り替えることが創作の始まりであると言えよう。見ることには、すでにして見たいという意志が働いており、外部の世界と、自己内面の世界との結合が始まっているのである。

 話を俳句の世界に置き換えてみると、見ることの一番プリミティブな形は、見たものを単純に写真を撮るように、そのまま書きとめることである。そこでは言葉は手段として、見たものの再現に使われる。写生と言われてきた手法がそれである。この写生においては、画家のデッサンにおける数多の鉛筆の線と同じように、見ることと同時に言葉が動き始め、言葉が多用され、たくさんの試作品が出来上がって、その中から、見たものと言葉とが一体となった作品、少なくとも作者が見たものを言葉に置き換え得たという手ごたえのある作品だけが残される。

 ただここで、何をもって決定稿とするか、見たものと言葉とが一体となる瞬間の機微が問題になるのであって、見ること自体がすでに能動的、主体的なものなので、いくら写生と言っても、作品とただ単に見えているものとは決してイコールではない。「見る」行為は、「見えるもの」といまだ「見えないもの」との間にあって作者の主体的な色を帯びている。リアリズムの小説のように長々と家や花を綿密に描写するのではなく、五七五という短い定型という枠にしばられているので、なおさら、描写がすべてとはならない。

    輿入れのむかしの道を道をしへ     狩行

豪華な輿入れの長い列が眼に浮かんでくる。

 輿で嫁ぐのは格式を備えた家と家との縁組である。嫁入り道具とそのあとにつづく参列者。現実に見えていないが、以前に経験した輿入れの実景が道おしえに触発されて浮かんできたものであろう。現実に見えるものだけを追っていたのでは、こういう句はできない。句に込められた情感あふれる作者の思いもさることながら、現実から出発して、現実を超え得た作品の自立性が読み手に迫るのである。

 言葉の伝達力やコミュニケーション性を考慮すれば、言葉によって見たものを忠実に写すというデッサンの修練は大切であり、それによって読み手にたいする説得力は強まるが、デッサンの結果において、ものと言葉とが一つになって成立したと感知できる作品は、見たものの再現にとどまらず、当初見たものを超えて、今まで見えていなかったもの、すなわち、表にあらわに見えないままに本来ありながら隠れていたものが、当の作者にも初めてあらわになっているということであろう。

 ここで、当たり前といえば当たり前のことであるが、俳句を作るに当たっての思いは、見たことの再現ではなく書くことによって初めてあらわになる「見えないもの」を見たいという欲求からくるものであろう。

 「見えないもの」を見る喜びを知れば、見たものをそのまま写す喜びだけでは満足できず、どの作品にも自分だけの「見えないもの」を表現したくなる。そうして「見る」行為は自分の「見えないもの」の世界が、普遍的な真実性をもって読者に迫るようになることであろう。

    摩天楼より新緑がパセリほど     狩行

 新緑と高層ビル街に林立する摩天楼との取り合わせが、実に新鮮でトリビアルな表現であることも衝撃的であるが、新緑の実態をここまで掴んだのは、その場には存在していない、見えてはいないパセリが作者には見えたことによるのである。このパセリが現実に存在する新緑を超えた、真実の新緑を創造し得ていると言える。

 俳句において「見ること」が言われ、写生が唱えられてきたのも、見ることの力を本能的に確信したからであろう。

 見ることによって日常性の奥にある深淵を見たいという願望、日常の次元から見れば、それは別の世界と言えるが、誰の感覚の奥にも共通項としてひそみ、誰もが無意識的に見知っている領域である。この領域がいわゆる「見えないもの」の世界であるし、俳句を含むすべての文学作品のリアリティの有無は、作品にこの領域の感覚があるかないかに基づくものと思う。

 「見えないもの」が何であるかの論議には、一人一人が持つ美意識、詩性の質にもかかわってくる。「見る」という認識作業を進めて「見えないもの」に至ることなく、日常と同じ情緒や感慨の詠嘆だけを俳句に求めるならば、「見る」という能動的行為はなく、見ることは受動的な意味で技法上の問題にとどまってしまう。実作の姿勢は、作者の選択や志に基づくものであるのはやむを得ないことであるが、私は、単なる日常的に把握した思いの吐露を定型詩、俳句の理想とはしたくない。

 「見えないもの」に日を当てるために、特に時間的、空間的に大きく幅広い感覚を持ちたい。俳句という定型詩には詠いあげるリズムの要素もあるが、より絵画的、視覚的、静的である。見ることが知ることを意味するように認識詩としての要素を持つ。そのためにも、「見る」ことによって、「見えないもの」を作品の上に顕在化するように努めなければならないと思う。

    飛梅の白さ左遷のむかしより     狩行

    星の中に目つむるならひ籐寝椅子   狩行

 「左遷のむかしより」「星の中に目つむるならひ」という視覚的には見えない世界を、見事に一句の中に取り入れて詠い上げている。単なる写生句にない奥深さがこれらの句には秘められている。

 「見えないもの」の感触は私たちの周囲に常に充ちているのではなかろうか。ときには恐ろしい情景となって、さだかに見えることもある。広島や長崎の原爆投下の惨状を見てしまった人が失語状態に陥ったという話が心を離れない。私自身も、昭和二十二年のカスリン台風による利根川の決壊による水害で、流される家の上で必死に助けを求める一家などの悲惨な状況を今でも鮮明に覚えている。

 こうした死や災害にまつわる・・・・・普通では「見えないもの」が束の間見えたという印象が私の心の底に刻まれている。

 しかしながら、「見えないもの」はもっと何でもない日常にも存在しているのであろうと思う。

 よく散歩している道の辺の垣根に、今年も大輪の薔薇が見事に咲いた。艶美な朱色がとても高貴で魅力的である。今までの自分であったなら、すぐさま見たとおりの薔薇の情景を句帳に書きとめていただろう。しかし、これからは見たからといって、すぐに花の様子を俳句の形で描写したり、感懐を述べたりしようとは思わない。ゆかしい眺めではあるけれど、性急に書きとめることは、見えているものによって、あるいはいち早く出る言葉によって、真によい俳句を生み出すことが邪魔されてしまうかも知れないことを恐れるからである。

 私の内面にある「見えないもの」の世界では、この薔薇もさきの水害の悲惨な状況も同じような位置にある。それが作品として現実になるときには、実際に見た、あるいは見えたものとは違った形をとることになるかも知れない。「見えないもの」は言葉をあたえられないまま、人間の中に存在しているものである。

 「言葉」は人間同士の間では、すでに通じ合っている共通理解の世界でもある。それが顕在化される過程はまさに各人各様の感覚によるものなのである。

 ここでいう「見えないもの」を俳句に取り入れることとは、いわゆる「芸」といわれる、その人が持っている柔軟な精神を指しているように思える。その柔軟な精神は最後の俳諧師といわれた秋元不死男のいう「芸」と重なるものであろう。

 秋元不死男の言葉に

   私は「俳句もの説」を書き、モノモノと言ってきた。だが、モノだけを強調するので

  は客観写生との違いを納得させることができない。どのようなモノを選び取り、それを

  句の中にどう生かすか。モノを斡旋する“芸”こそ実は私の言いたいところであった。

というものがある。「どのようなモノを選び取り、それを句の中にどう生かすか」というこの言葉こそ、「見えないもの」を俳句に取り入れる「芸」と同質のことを述べていると思う。今までの自分のことを考えると、まじめに写生することに力を入れてきた。それだけではよりよい俳句を作ることは難しい。

 より以上上質の俳句を目指すには、「見えないもの」を俳句に取り入れるには、自分自身を磨いてもっと幅広い「芸」を持つ人間となり、心に余裕を持つような人間にならなければと、今回これを書きながら、痛切に反省した次第である。

(『狩』平成21年9月号より転載)