神が恵んでくださった証
2018.2.28 「神が恵んでくださった証」
創世記33章1-11節
ヤコブにとって、20年ぶりに兄エサウに会うことが残念ながら嬉しくありませんでした。むしろ、彼の人生にとっての最後の日になるかも知れないとの恐怖で、前日の夜、天使が現れた時、夜明けまでその天使を手放してくれませんでした。彼のしぶとさは、彼の名前がヤコブからイスラエルに変えられるほどで、神の御使いにとっては、大変な行動でした。 そこで、ヤコブは天使とのスモウ取りで、もものつがいが外れます。 そして足を引きずってしまいます。 この光景はヤコブにとって決して夢ではありませんでした。むしろ聖書は、ヤコブはなんと顔と顔を合わせて神を見たと表現しています。それは、昔から神を見る者は死ぬと言われていたのですが、ヤコブの命は幸い助かったからです。
神を見て、更に神と格闘し、命救われたヤコブは、400人の勇士を引き連れてやって来る兄エサウにいよいよ出会います。しかし、彼は、夜通しで眠れることなく、兄エサウとの20年ぶりに会うことへの恐れと緊張感に包まれていました。そしてヤコブは、神の天使からの命の保証と祝福をうけたにもかかわらず、悪知恵を働かせます。
と言いますのは、兄エサウが400人をも引き連れてやって来ることに対して、万一の攻撃を心配し、一番先頭には、女奴隷たちとその子供たちを立たせ、その後に愛していない妻レアとその子供たちを立たせ、そして、群れの最後に自分がもっとも愛しているラケルとヨセフを置きました。
ここで余談ですが、イスラエルの12部族になるヤコブの男の子たちはこの時点ではまだ十一人です。ベニヤミンはラケルによってヨセフの弟として後に生まれます。
さて、ヤコブの群れの配置から考えますと、ヤコブの悪知恵は20年前に兄エサウから長子の権利を奪い取る時と何も変わってはいませんでした。これは私の考えなんですが、人がどんなに色んな経験をし、へりくだることを学んでも、やはり、生まれ持った性格は変わることは難しいと思います。つまり、私たち人間がヒトを変えるのにも限界があるということです。
さて、ヤコブ自身は、その群れに先立って進みました。彼は、兄エサウに近づくまで、七回も地に伏してお辞儀をしました。ヤコブは、何を考えながら、双子である兄にそこまでしたのでしょうか。20年前のことを思い起こしながら、あの時の罪を償えるなら、何でもやるという命拾いの気持ちだったのでしょうか? 彼の頭には極度の緊張さのあまり前日夜通しで、神の天使と格闘した疲れすら感じなくなっていたのかもしれません。
ところで、兄エサウは、足を引きずりながら、遠くから7回も地に伏して自分の方にお辞儀しているヤコブを見て、何を考えたんでしょうか。足を引きずっている弟ヤコブの疲れた姿に復讐への気持ちは一瞬にして消えたかもしれません。そこで、エサウはヤコブの方へ走って行き、彼を抱きしめて口づけします。そして、二人は泣きました。 私の考えですが、もし、ヤコブが前日神との格闘もなく、元気な姿で、目をきょろきょろしながら、何もなかったかのように「おー、兄貴、元気でしたか?」と聞いていたならば、兄エサウはきっと400人の勇士に命じて皆殺ししていたかもしれません。ここで、二人の性格を考えてみたいと思います。兄エサウは狩りが好きで野性的な性格を持っていました。その分、過去のことでくよくよしないあっさりした性格を持っていたのではないかと考えられます。それに対して、ヤコブはオタク気質があり、過去の罪悪感にとらわれていました。
又、ヤコブは兄エサウに赦されますが、創世記34章で、他人の罪は決して赦さない性格であることが分かります。このように、兄エサウの意外な行動で、ヤコブはその罪から解放されます。
ここで、ルカの福音書15章の放蕩息子の話が思い出します。ルカ15:24には、「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と父は言います。
さて、本日のポイントですが、エサウは目を上げ、ヤコブの女たちや子供たちを見て、「この人たちは、あなたの何なのか」と尋ねました。そこで、ヤコブは、「神があなたの僕に恵んでくださった子供たちです」と答えます。ここが大事です。この箇所で、あなたの僕とは、ヤコブのことで、兄エサウに対して、自分を徹底的に下げて、相手を高めることで命の危険から逃れようとします。ヤコブは初めて神が自分を祝福し、恵んでくださったことを証しています。夜通しで神の天使との格闘でようやく気づいたのでしょうか。それまでヤコブはまだ神への信仰はありませんでした。しかし、兄エサウの赦しから、ヤコブは自分が最初杖一本のほか、何も持たずに家を出て、20年間これまでたくさんの子宝に恵まれ、財産をもち、このような祝福を受けたことは、自分の努力ではなく、神の恵みであったことを兄エサウに告白しています。つまり、「神があなたの僕に恵んでくださった子供たちです」と。 やはり、私たちも、キリストの十字架によって救われて、永遠のいのちが保証されているからには、ヤコブのように、人の前で堂々と、私たちの人生において神が恵んでくださったことを証できるようになれば嬉しいと思います。
最後に、私の証しを持ちまして終わらせていただきます。
この前、久しぶりに以前私がドラムを教えていた佐藤さんに会ってきました。もう彼に会ってから12年。彼は72歳になって今も和食屋を経営しています。久々に挨拶しに行ったところ、9年前にごみ収集で知り合った別の会社の運転手さんも食事に来ていまして、久しぶりに出会ったことで、色んな話に盛り上がりました。そして、話の最後に私が日本人に、日本の文化に感謝していることを証しました。それは、私が本当の意味でクリスチャンになれた切っ掛けになったからです。彼らとの話の中で、私が日本語の聖書を読んで本当の神存在が分かったことをも証出来ました。私のそのような過去の色んな証を一緒に聞いていた他のお客さんも、私の話に感動してくださり、彼らにも何気なく教会の宣伝と福音を伝えることができました。証の最後に、「私たちの失敗も出会いも偶然は在りませんよ。すべては神のご計画の中にありますから」と、大胆に彼らに伝えることができました。
小さな出会いの場所でも、主なる神をお証出来たことに感謝します。 アーメン