ビジュアルの限界
もう 随分前からのことですが。
勝手な持論を前に出すと「お茶の間にTVがやってきてから、視覚からの情報の単純明快さの麻薬にすっかり囚われてしまっている。
昔 子供たちに読み聞かせをした時。挿絵を見せないと、気が散る子がいたりしたものだが
紙芝居や、挿絵を見せるようにして読み聞かせると。100人いたとしても食いつくように
聞いてくれる。
新米先生の頃は 自分が立つだけでは落ち着かない教室も ポケットから手作りの指人形を俄に出して話し出すとあっという間に心を掴めた。
これは仕方がなくて。この情報の力はすごいのだから。ただ残念ながら想像力という果てしない時空の楽しみ方を人間から奪ってしまう可能性が高い。
例えば今
目の前の風が気持ちいいい
これを最新の機種で切り取ったとして 同じ心持ちを伝えるほどの映像技術力を持つ人は数少ない。
表現するためにはいろいろ時報を足し算して、上乗せし情報をつんでいくのだろう。
私もこうして備忘録にと勝手につらつらやっているが、画像が残念にもお粗末なので
おとずれた方には誠に申し訳なく。
今 文豪と言われる方々の あれやこれやの切り口で紹介されるを楽しんでいて思った。
確かに文章や言葉という情報は、受け手の経験が必要で。手に入れた情報からの楽しむ奥行きは受け手の責任による。
だからこそ圧倒的に経験が少ない子供たちは、耳からの情報から楽しむのはある程度の年齢が必要になる。
しかし、文章という力は 文字の間合いにも意味があって。表現のすばら数方にかかったならば、喉の奥 体の芯のところがぽかぽかしたり、キューッとつねられるような、そんな感覚さえ起こさせる。そして脳裏に果てしなく情景が広がり、忘れたもの人を呼び起こしたりもする。
次の世代に残したい力に 昨今文科省も「思考力」というならば、単純にカリキュラムを組むだけでなく膨大なリアルの経験を積ませ、映像・画像を排した経験を強制的に提供しないとあっという間に譲渡を含め思考力は誠に偏った貧相な物になる可能性もあるだろう。
まあ
そもそも豊かな情緒という定義が変わっていき、非情緒時代がやってきたなら
このつぶやきさえも意味不明となるのだろうけれど。どの種より人間が発達した素晴らしい部分である想像力。それを時空で楽しむという力。それを絶滅させてしまうは本当に悲しむべきこと。