静けさにもどる
ネイティブアメリカンの名言@Indianteachings
■「沈黙とは、体と精神と魂が完璧な釣りあいをとっていることである。自己を保っている人は、葉の一枚たりとも動かぬ木のように、小波ひとつ立たない輝く池のように、つねに静かで、実存のあらしに揺すぶられることがない。」
それを大円境地と呼ぶのでしょうか?ゼロフィールドと呼ぶのでしょうか?ゼロはプラス・マイナスセットの無限の可能性を持ちます。それは天のみなか主。
Facebook相田 公弘さん投稿記事
萬物は 生まれ、育ち、活動するが すべては元の根に帰ってゆく。
それは静けさにもどることだ。
水の行く先はーー海 草木の行く先はーー大地 いずれも静かなところだ。
すべてのものは大いなる流れに従って定めのところに帰る。
(そして、おお、再び甦るのを待つ。)
それを知ることが知恵であり 知らずに騒ぐことが悩みの種をつくる。
~老子
加島祥造訳、 「タオーーー老子」(筑摩書房)より
https://www.youtube.com/watch?v=iTSdoAiEuXg
【ディマティーニ・メソッドを受講して】
ディマティーニ・メソッドは 自己変革プログラムで 1.正負の法則と 2.愛の法則の二つの法則にベースを置きます。
1.正負の法則はバランスの法則です。
正・反・合=テーゼに対してアンチテーゼを干渉させ 止揚が生じるとするヘーゲル哲学を連想します。
2.「残された命が24時間しかなかったら?」という問いに 人種、年齢を問わず殆どの人が「私の人生を支えてくださった人たちに『ありがとう、愛してます』と伝えます。」と答え、「どのように感謝され、愛されたいですか?」の問いには 「ありのままの自分を そのまま全部愛して 感謝して欲しい」と答えたということです。
これを愛の法則と呼びます。
正負の法則を波動干渉 愛の法則を波動共鳴と考えることは できないでしょうか?
「シンクロニシティと隠れた宇宙の秩序を観る。」の項で挙げられた 事例は 一/多 男/女 近/遠 です。
共時性は偶然の一致として 片付けられ、 潜在意識の引き寄せと考えられてきましたが「対極のベクトルを観 エネルギー的にフラットになると考える正負の法則」を観るのは興味深いことでした。
ディマティーニ・メソッドでは 価値観の分類を愛、情熱、勇気、友情、冒険、貢献、自由、やすらぎ、安全、成長、健康・・・などとします。
しかし私が宇宙の秩序として観るのは 1.遠心力/求心力 2.循環 3.自転/公転 4.黄金率 5.セット位です。
それらのベクトルとして
1.【遠心力/求心力】:義/愛、分析/統合、西洋/東洋、 陽/陰、光/水、無/有
2.【循環】:支配/被支配、加害者/被害者、虐待者/被虐待者、上/下
3.【自転/公転】:粒子/波、今/時間、個/全体、顕在意識/潜在意識
4.【セット】:S極/N極、左/右、明/暗、死/再生、プラス/マイナス、
5.【黄金率】:調和
和みmessage✧︎︎︎︎@nagomu_toki
不安や寂しい時何かにすがると 安らぎを得るかもしれない
忘れないでいたいのは 悲しみや切なさは 誰もが持ち
寂しさや孤独は必ず傍にある自分の問題として引受け認めると 楽になる
そして1歩一歩自分の足で歩んで行くそこから繋がり広がる世界
一人じゃないきっと誰かが見てるから
満月のりこ【心理セラピスト@東京】@mitsukinoriko
人を信用できないのは たくさん裏切られてきたから
親が嘘をつく 片親の悪口を言う 突然いなくなる
生きることは 辛いことの連続だったね だから信じないことで 自分を守る
本当はすごく 傷ついている 本当はとても 悲しい
自分の本音を 人を信じられない自分を まずは認めて受け入れることから
一指李承憲@ILCHIjp
生きていれば大変なときも辛い時もあります。しかしそんなときほど体を動かしてみましょう。生きていることが無意味に感じられるとき、先が真っ暗で答えが見つからないときは、とにかく歩くのが一番の特効薬です。体を動かせば脳が自ら判断し、壊れているところを癒してくれます。
https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000048x9x.html 【「静けさは、西洋においても東洋においても、人格の形成にとってなくてはならないものです。」】より
イヴァン・イリイチ(『生きる思想—反=教育/技術/生命』藤原書店 53頁)
イヴァン・イリイチ(1926-2002)はウィーン生まれの哲学者・歴史家であり、一時期はカトリックの司祭としても活躍した人です。彼は現代社会に対して根本的な疑問を抱き、様々な視点から現代文明批判を行ったユニークな思想家でした。
標題のことばは、産業化が進んだ現代における人間を取り巻く環境と、それ以前の環境との違いについて述べた論考のなかにあります。彼によると、産業社会以前には、様々に異なる生活を送る人々にとってそのままの形で役立ち、それでいて誰からも占有されることもない環境が、私たちの周りに広がっていたとされています。それを彼は「コモンズ」と呼びました。
彼は、そのコモンズの一つとして「静けさ」を重視し、それが人格の形成にも重要な意味をもっているのだと述べています。ところが今やその「静けさ」は、拡声機などの、産業社会が生み出した様々な機械から発せられる騒音によって打ち消されるためだけに存在する、単なる「資源」となってしまいました。つまり「静けさ」はもはや、それ自体有意義なものとしてではなく、「音の欠如」としての意味しかもたなくなってしまったのです。
ところで、ベトナム人の仏教者、ティク・ナット・ハン(1926-)もイリイチと重なる問題提起をしています。彼は「なかには良いものもある」と断ったうえで、大部分のテレビ番組やビデオ、音楽などについて、私たちを攻撃し、破壊し、真の自己から遠ざける働きをするものだと述べています。その一方で、呼吸を整えて静かに座るとき、私たちは真の自己となり得ると言います。
このように、洋の東西を問わず、宗教者は「静けさ」の重要性を説いています。確かに、外からの刺激がないとき、私たちの意識は自然と自分の内へと向い、自分を見つめることができるようになります。その意味で「静けさ」は自分の内面の成長に不可欠なものだと言えるでしょう。
もちろん、読書や友人との語らいで得られる有意義な刺激もたくさんあります。しかしテレビやスマートフォンを通して得られる刺激の多くは、ティク・ナット・ハンの言うように私たちの心を麻痺させる暴力的な働きをもっているように思えてなりません。様々な刺激を容易に手に入れることのできる現代の私たちこそ、「静けさ」の大切さを理解し、それを楽しむことのできるような姿勢をもつことが求められるのではないでしょうか。