善立寺ホームページ 5分間法話 R⑥ R4.9.25日更新
妙好人 浅原 才市(みょうこうにん あさはらさいち) ―その2
前回に続いて妙好人・浅原才市さんの詩について記します。
〇うちのかかあの ねがおを みれば 地獄の鬼に そのまんま。
うちの家には 鬼が二匹おる。 男鬼に 女(おなご)鬼 あさましや あさましや。
〇あさましや 俺の心は 魔道のこころ。
妻(かかあ)の心も 魔道のこころ。 おのれ おのれと ね(に)らみ合い
それが地獄の証拠よ。
あさまし なむあみだぶつ。
〇あさましや わしの心は、いが(毬)ばかり
いがの太さが八億四千(註)
人が恐れて逃げまする あさましや。
註「八億四千」は仏教語で、実数ではなく数が多いということの表現」
親鸞聖人著書『一念多念文意』の中につぎの言葉が記されています。
「凡夫(註1)とは、われわれ人間のことであるが、まことの智慧がなく、煩悩(註2)がその身にみちみちて、欲は多く、怒り・うらやみ・ねたむ心もやむことなく湧いて、いのちの終わるときまで、とどまらず・消えず・たえぬのであると善導大師(註3)は水火二河(すいかにが・註4)にたとえて教えられている。」
註 1 凡夫―苦悩にとらわれて迷っている人
2 煩悩―人間の心身につきまとって悩ますすべての欲望
3 善導大師―親鸞聖人が敬っていた七高僧の一人。中国・唐代の高僧。
4 水火二河―水の河は貪欲 (とんよく)、火の河は瞋恚(しんに)。貪欲・瞋恚の詳細説明は別記。
浄土真宗の寺院、門徒宅で日常にお勤めする(読経)『正信偈』の中に「無明闇・む
みょうあん、貪愛瞋憎・とんあ(な)いしんぞう」という言葉が出てきます。これらは三
毒の煩悩と言われています。三毒とは、仏教において克服すべきものとされる最も根本
的な三つの煩悩を毒に例えたもので、人間の諸悪の根源とされているものです。
「三毒の煩悩」についてもう少し詳しく記しましょう。
1.無明 むみょう(愚痴・ぐち) 愚かさ 智慧がない―知性の迷い
2.貪愛 とんあい(貪欲・とんよく)むさぼり ―感情の迷い
3.瞋憎 しんぞう(瞋恚・しんに)いかり・腹立ち ―感情の迷い
「無明」―私たち凡夫は、日常、見ても、聞いても、考えても、自分の物差しで判断
して生きています。自分が見たものにとらわれ、聞いたものにとらわれ、自分が判断し
たものが間違いなく正しいことだと考えて生きています。それに反する考えやものの見
方をする人がいたら、たいていは、他人の方がおかしいと思いがちです。だれもが持っ
いる物差しは、その人独自の物差しであり量りです。つまり、だれもが持っている物差
しはJIS規格ではありません。自分の判断はJIS規格でないことに人間は気付かないで
過ごしているのです。わが身本位な考えにとらわれることを仏教では、「我執・がしゅ
う」と言います。自分に執着してしまうと、正しい判断ができなくなって、センターラ
インをオーバー走行し、人生を脱輪走行していることに気が付かなくなるのです。
浅原才市さんの冒頭の詩を読むと、才市さんは奥さんのセツさんと激しい仲たがい、
諍いをしたんですね。布団を並べて寝ていて、奥さんの寝顔を見た。すると、奥さんの
寝顔が鬼に見えたんですね。
皆さんはどうですか。こんなご経験をお持ちになられたことはありませんか。腹が立
ったら、なんで、こんな人と一緒になったんやと、思われた方もおありでしょう。人間
は、日常、うまくいかないことや不愉快なことが生じると、世間や人に対して腹を立て
て暮らしているのではないでしょうか。自分に腹を立てて眠れない人は少ないのです。
私はおかしくない、悪いのはあの人だ、うまくことが運ばないのはみんな周囲がわるい
のだと思って生活している日が多いのです。
しかし、才市さんの詩を読むと、自分をよいと思い、自分の考えに囚われる「我執」
に気付いておられることがわかります。鬼心に変身してしまっているわが身に気付き、
そのことを「あさまし、あさまし」と、我に返って懺悔しておられます。
仏さまの教えに遇われて、仏さまの智慧の光が心の闇を照らし、我執に囚われている
醜い姿が見えてきた。きづかない世界に気づきの世界がひろがっていることがうかがえ
る詩であると感じています。
〇あさまし あさまし
あさましはどこにいる
あさましはここにおる この才市
あさまし あさまし
あさましが くよくよと
あさまし あさまし あさまし
※ 次回は、浅原才市さんについての3回目を記します。「三毒の煩悩」から抜け出すにはどうすればよいのか等について述べましょう。12月1日更新予定です。