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人はなぜ生きるのか

2018.03.01 04:29

「人はパンのみに生きるにあらず」とはマタイによる福音書の4章に書かれている言葉であり、私が高校時代に担任の教師に放った言葉である。


では、人はなぜ生きているのだろうか。

幼少期から思春期にかけて、誰もが一度は抱く疑問であり、ある者は生き方に相応しい答えを出し、ある者は忘れ、ある者は答えを保留しながら日々を生きている。


当然、人はパンだけでは生きていけず、人や動物、つまりは人を形作る真核細胞は呼気によって得た酸素と、食事と称して得た有機物を細胞内のミトコンドリアが使用し、ATP(C10H16N5O13P3)というエネルギーに変えてくれるため、人は生命活動を行うことができる。


このミトコンドリアというやつは面白い存在で、何年も前にホラー映画にもなったが、ミトコンドリアの先祖である好気性細胞(酸素をエネルギーとする細胞)が誕生する前から地球上に存在した嫌気性細胞(酸素を嫌う細胞)が、好気性細胞と共生し膜を作ることで一つの真核細胞ができたといわれている。

ミトコンドリアを含め、古来の細胞は死に関わる趣向の異なる者同士が手を繋ぐことで、より環境に適した細胞となったのだった。


ミトコンドリアに絡む重要な話は他にもいつくかあり、ALK融合遺伝子(肺癌の一部)が発生する原因を、ミトコンドリアの機能低下や、ミトコンドリアが使用する酸素の不足とする論文がいくつか発表されている。


人類にとって酸素(O2)はなくてはならない物だが、それが別の原子と結合すると猛毒にもなり(例えば二酸化炭素(CO2))、結合しすぎた酸素(オゾン(O3))は、人類は体内でエネルギーに変えることができない。

老い、とは分子レベルで言うと多くの場合細胞が酸化することで人体の細胞が酸化鉄のように錆びることを指し、波紋法ではないが、一部のチャクラや呼吸法は酸素の力を体内で最大限まで高めるものである。

酸素は多くても少な過ぎても人類には適さないのである。

この話はまたいつか別の機会に整理して書きたい。


さて、問題は、以上のような代謝をするために(したいために)、人は生きているわけではないだろうということだ。


人はなぜ生きるか、と同じような質問に、人は死んだらどうなるのか、というものがある。

この問いに対し、近年の量子論の論文に面白い仮説が提唱されている。

意識とは素粒子にあることを論じ、死後の世界を否定したものであると同時に、人間の意識は消滅しないということを量子論から説明している。

人類は宇宙に満ちているエネルギーの4%ほどしか解明できていないが、不明なダークエネルギーに人間の意識が宿っているという仮説も、あながち嘘ではないのかもしれない。

さて、もしその仮説が真であった場合に、人は死んだら死後の世界ではなく、宇宙の意識に統合されるか宇宙空間をさ迷うことになる。

感覚器官のない意識が何をもとに意識を保てるのか想像もつかないが、いわゆる前世の記憶を持つ人間はその意識の素粒子がたまたま統合を得ないで再び人間に宿ることができたため、前世で覚えたことを失わずにいる。

では、いわゆる霊媒師などは何と会話し、その言葉を解釈し、何と認識してその存在を認めているのだろうか。

対峙した人の感覚と同調するのが高度に発達した人もいて、私が見てきた風景が私の意識下になくても見れる人もいるが、本当の意味で、自由に死者と意識の疎通ができる人を、私は未だ知らない。

そんなことができたらすべての未解決な犯罪は解決できてしまうだろう。


そして、私も含め、人類の共通の願いであると思うが、生前の生き方に応じて死後の行き場所が決まるということが確実ならば、現世の人間にとっての凶悪な犯罪というのはほとんどなくなるのではないだろうか。

その確証がないから人間は罪を犯しもすれば、罪を責めもする。

宇宙の意思と呼ばれるものが適切に処罰するのであれば人間がでしゃばる必要もないだろう。


話がそれた。

人は生まれ生きて死ぬ。その間に何をするのだろうか、という問題は未だ解決しない。

そんなことより、今夜食べるご馳走のことを考えたり、気持ち良いセックスをしたり、少しでも金を稼いだ方が、時間の使い方としては有意義に違いない。


ある者は子どもを生みその魂と出会うために生きたという。

ある者は愛する者と出会いその魂と触れるために生きたという。

ある者は自身の生み出した作品のため、ある者は自らの教えを人々に普及するため、ある者は世界の平和のため、ある者は日々生きるため、ある者は死がくるまで生きるため、ある者は幸せだと気づくため、今世に誕生したという。

だが、私にとってはどれもあてはまらない。

答えがないのは、一生懸命に自分に相応しい命を生きていないからだ、という意見も間違いではないが、正しくもない。


虚無感ではなく、モラトリアムでもなく、長年保留してきたこの答えをだすことが、生きることと並び、私にとって最重要なことなのである。