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織田信長

2018.03.01 07:29

http://saigonronin.blog.fc2.com/blog-entry-326.html  より

前回は、秦氏は「ミトラ教」を信仰していたようだ・・・と、いうところで終わりました。その裏付けとして、秦酒公が建立した「大酒神社」の「牛祭り」と、秦河勝が建立した「広隆寺」の当初の本尊は、「弥勒(マイトレーヤ=ミトラ)菩薩像」であったことを根拠として示したワケです。

 秦氏に関しては不明な点がまだまだありますが、話のスジを再度整理すると、織田信長公暗殺(謀殺)に千利休が係わっていたのではないか?・・・という疑念を抱いたことから始まりました。

 それは、「本能寺の変」の当日、本能寺では信長公主催の「茶会」が催され、信長公の「自慢のコレクション」が披露されたのですが、信長公の遺体同様、これらの茶道具も、忽然と姿を消してしまっているからです。

 これらの茶道具のなかには、信長公が、半ば強引に堺の商人から譲り受けた一品もあったと思われ、堺商人・・・即ち、「同朋衆」から信長公は反感を買っていた可能性は否めないワケです。

 尚且つ、何処まで本気だったのかは計りかねますが、信長公は大陸・・・当時の「明」を征服し、日本の「天皇」を玉座につけると語っていたそうで、思うにその「本意」は、「明」との貿易を牛耳っていた「同朋衆」の排除にあったのではないか?・・・と。

 そうなると、「同朋衆」が信長公に危機感(殺意)を抱くのは当然なワケで、つまり、信長公を「暗殺」する「動機」は十分にあったと考えられますし、そこで「同朋衆」である、千利休にも繋がるワケです。

 太閤秀吉による「朝鮮出兵」は、信長公の「グランドデザイン」の延長線上にあったと考えられ、「明」までは一気に攻略できなくとも、そのための前線基地として、朝鮮半島を支配下に置く・・・という目的くらいはあったのではないか?  そしてそれは、秀吉公の治世となっても、依然、堺の「同朋衆」が貿易の実権を握っていたことの表われではないのか?・・・と。

 更に千利休が、秀吉公に突然「切腹」を言い渡されたのも、千利休(同朋衆)が信長公謀殺に深く関与していたことを秀吉公が知り、その責任を取らせたと考えれば、信長公に心酔していた秀吉公の心情を鑑みれば、理路整然と説明がつくワケです。勿論、ワタシの頭の中でだけですが・・・。

 実は、徳川家康公の先祖も「同朋衆」の出自であるらしいのですが、家康公に関してはまた別な機会にします。

 で、そうなると、「同朋衆」とは如何なる者たちであるのか?・・・ということを検証する必要があり、「同朋衆」=「阿弥衆」の信仰する宗教筋からその実態に迫ろうというのが趣旨であり、その目的で仏教の日本伝来にまで遡っているワケですが、その当時・・・奈良、飛鳥時代に仏教の布教に係わった豪族として、「秦氏」が浮上してくるワケです。そこで、

「秦氏」とは何者なのか?

・・・となるワケですが、どうやら「ミトラ教」を信仰していたようだ・・・というトコロまでで前回は終わりました。

 で、今回から更に検証を進めるワケですが、その前に少し目先を変え、時代が下り平安時代になるのですが、「陰陽道」の話を少しします。

陰陽道 - Wikipedia

 ざっくり解説すると、「木」、「火」、「土」、「金」、「水」という5元素と、陽(プラス)と陰(マイナス)という2極の相互作用によって、森羅万象は構成されているという考え方で、古代ギリシャの哲学や、「ヘルメス錬金術」にも通じるものがあります。

錬金術 - Wikipedia

 で、「陰陽道」と「錬金術」に共通するシンボルが、「五芒星(ペンタクル)」です。

Pentacle(五芒星形)

ピタゴラス教団のシンボルマークでもある

 錬金術の魔術師は、小宇宙である人間の模型として五芒星形を用いた。男性の像は宇宙を表す円の内部に置かれた。手と足と頭は、描かれた五芒星形の示す各先端で円と接し、生殖器はまさに円の中央に位置した[7]。このイメージは、人間は「5つの星」に支配される小宇宙であるというフィルミクス・マテルヌスの見解に関連があった。

 「五芒星」の起源は古代バビロニアにあり、シュメール文明では「五芒星」を、「UBU(ウブ)」と呼んでいたそうです。

 そうすると「陰陽道」は、古代バビロニアから受け継がれてきた系統だともいえるワケで、かの「安倍晴明」も、そうした流れの末裔ということになります。

安倍晴明 - Wikipedia

 この、安倍晴明と対立(ライバル)関係にあったとされているのが蘆屋道満であり、してみると道満は、バビロニア系ではない別系統の「陰陽師」だったのかも知れません。

蘆屋道満 - Wikipedia

Cult Web 歴史に残る陰陽師

■ 蘆屋道満(あしやどうまん生没年不詳)

 蘆屋道満は朝廷に勤務する陰陽師ではなく、庶民、もしくは貴族などに雇われて活動する播磨流の民間系陰陽師。安倍晴明のライバルとして多くの伝説が残され、「式神対決」などが有名である。また、安倍晴明の霊符セーマン(五芒星)に対し、道満は九字と格子で構成されるドーマンを霊符として使用したことで知られている。

ライバルとされた理由は、晴明が当時の関白・藤原道長と懇意であったのに対し、道満は道長の政敵と言われる藤原顕光に用いられることが多かったためである。顕光に呪詛を依頼された道満は晴明に見破られたために播磨に流され、死亡したとする。しかしその後も道満の子孫が瀬戸内海寄りの英賀・三宅方面に移り住み陰陽師の業を継いだとされる(室町時代の播磨地誌「峰相記(ほうしょうき)」。

 また、歌舞伎や文楽の演目「芦屋道満大内鑑」をはじめとした著作で、しばしば安部晴明と呪術合戦を繰り広げるライバルとして登場するが、もっぱら晴明を引き立てる悪役として道満は描かれることが多い。しかし、晴明は道満の「九字」をも自己の呪術に活用しており、両者はライバルというよりも、共に神秘なる叡智を切磋する間柄だったと考えることもできる。

 ここで道満の素性・正体について、秘史史観からの解釈も加えておきたい。蘆屋道満の蘆屋は、兵庫県の芦屋のことであり、当時この地帯は多数の民間陰陽師の拠点であった。道満の本名は謎とされているが、一説には「秦道満」とする説がある。もしこの説が正しければ、秦氏=賀茂氏=安倍晴明という関連から、道満と晴明は、同じ秘教を継ぐ同志ということになる。つまりセーマン・ドーマンは陰陽の関係を構成する対なる思想・術であるとも考えられる。

 道満が活用した九字と格子のドーマンは、最後に十字を切って祈ることで効果をあげる、という俗説も流布している。陰陽師が十字を切るとき、それは九字にひとつ加えた十字(つまり九字が表ドーマンで十字が裏ドーマン。これも陰陽関係)であり、キリスト教徒の十字架と同じ象徴を指すことになる。このことからも、陰陽道とカバラは無関係ではないという説もある。

 真相は定かではないが、道満が民間ながらも卓越した陰陽師であったことは、晴明伝説同様、蘆谷道満伝説も大規模に拡がっていることから推察できる。「蘆屋塚」・「道満塚」・「道満井」の類が数多く日本各地に残されている。

 陰陽道の術式はアレとして、「セーマン」と「ドーマン」が表裏をなすという見解には、多少無理があるように思えます。陰陽道の「肝」は「陰(マイナス)」と「陽(プラス)」の2極にあり、陰陽の「器」の中での「5元素」の相互作用というのが「清明流」・・・もしくは「バビロニア陰陽道」であるとすれば、「ドーマン」の「九字法」は別なイデオロギー、思想に基づくと思われるからです。

 で、道満が「秦氏」の血族であるとするならば、秦氏一族が「バビロニア系」なのか?ということにもなり、バビロニア系=広義のアラブ(ユダヤを含む)ではないとすると、「新撰姓氏録」に記された記述、「弓月君(融通王)」の故郷であるとされる、「大月氏国(アーリア系)」の出自であることが反証されることにもなります。

 で、ワタシ、「ドーマン」=「九字結界」を見て、何処かで見たような?・・・と。

九州大宰府

「ドーマン」は、「京(みやこ)」の形なのでは?

・・・というのが、ワタシの思い付きであり、そして、

条坊制 - Wikipedia

・・・という、「儒教」の教義を知りました。

 そうなると秦氏・・・少なくとも「道満」には「儒教」の知識があり、そうした知識を自分の「陰陽道」の中に取り入れていた・・・と、いうことになるんですかね?

 「ミトラ教」と孔子の「儒教」が、どうしたら融合するのか想像もつきませんが、「儒教」は学問のひとつであり、「ミトラ教」の信仰に支障を来すことは無いのかも知れません。

 とにかく、厩戸皇子と秦河勝は、蘇我馬子の物部氏討伐に加勢し、物部氏宗家(物部守屋)を討ち滅ぼし、仏教(ミトラ教?)による「国体」造りへの下地を馴らしていくワケです。

 そして、秦氏が雑多な渡来人(帰化人)たちの「まとめ役」のような立ち場であったことを踏まえると、秦氏が監督する帰化人すべてをひっくるめて「秦氏」と呼んでいた可能性もあり、「秦氏」を単一の民族、血族と思い込んでしまうと、歴史を見誤るかも知れません。

 つまり、「蘆屋道満」が「秦道満」だったとしても、「弓月君(融通王)」に繋がるとは限らないということで、秦氏の配下?の帰化人の中の一人でしかなかった・・・とも考えられます。

 でないと同じ「秦氏」でありながら、「安倍晴明」と「蘆屋道満」が対立する根拠が見えません。

 ま、ソレはさて措き、秦氏から「能」などの「芸能」に携わる一派が派生しているのも、また、殖産・土木技術に長けているのも、先に述べたように、

「秦氏」とは渡来人の集団全体を指す

・・・と、考えれば、「秦氏」のスーパーマルチな活躍も納得できます。


「秦氏考」より

 まだまだ「本能寺の変」までは先が長いワケですが、実はつい先日、信長公の遺体は既に発見され、荼毘に付されていた・・・ということを動画で知り、

マジですか?

・・・と。

 そうなると、「首塚」だとか、「デスマスク」だとかも、その信憑性が大いに揺らぎますなw。ま、「デスマスク」に関しては、肖像画とも木像とも似ていないのでアレですが・・・。

信長公デスマスク?(タラコくちびる)

信長公木像(おちょぼ口)

 ちなみに明治2年に、明治天皇により信長公を祀る神社・・・「建勲神社」が建立されているのですが、明治天皇はどうして信長公を顕彰する気になったんですかね?ま、この件もおいおい・・・。

建勲神社HP