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ZIPANG TOKIO 2020「無形文化の伝承こそ長浜市の誇り!ユネスコ無形文化遺産 日本三大山車祭『長浜曳山まつり』4月開幕!」

2018.03.03 10:15

長浜曳山まつりは、長浜八幡宮の春の祭礼です。
その始まりは、羽柴(後の豊臣)秀吉が、今浜(今の長浜)に初めての城を構えたころまでさかのぼります。(秀吉は織田信長の一字をとり長浜とする)

長浜曳山まつりの一番の見所は子ども狂言(歌舞伎)です。  長浜の子ども狂言(歌舞伎)は、寛保2年(1742)の台本や、明和6年(1769)以降の外題記録などから、この頃から歌舞伎が行われていたことがわかっています。長浜の町衆は祭礼に出る曳山と当時流行っていた歌舞伎をつないでいち早く取り入れ、まちなかを巡行させて移動芝居の場に仕立て、今日あるような祭礼をつくりあげました。

長浜では歌舞伎のことを「狂言」または「芸」と呼び、曳山を持つ町(山組)の5歳から12歳くらいまでの男子によって演じられます。演目は曳山の四畳半舞台と子ども役者用にアレンジされます。また、毎年新しい演目で演じられ、長浜独自の外題(題名)がつけられます。上演時間は約40分で、本番の前に行われる線香番と呼ばれる公開稽古で時間が計られます。子どもたちの稽古は振付師の指導により、3月下旬(春休み)から4月の祭本日まで約3週間行われ、まず読み習いがあり、それに続いて立ち稽古を行い、最終的に三味線・太夫と合わせて本番を迎えます。

曳山は、前方が子ども狂言(歌舞伎)が行われる舞台に、幕で囲まれた後方は楽屋になっています。また、亭(ちん)と呼ばれる2階部分では囃子(しゃぎり)を演奏します。


長浜曳山まつり「こども歌舞伎」


長浜曳山まつり

「長浜曳山まつり」は毎年4月9日~16日に、長浜八幡宮の春の例祭に合わせ執行され13日~16日は、絢爛豪華な山車「曳山」が登場し、その舞台の上で「子ども歌舞伎」が演じられます。

曳山は【長刀山】と「子ども歌舞伎」が演じられる12基とあわせて13基あり、毎年【長刀山】と12基のうち4基が交替で出番山となり「子ども歌舞伎」を奉納しています。

2018年の出番山  ・壽山  ・猩々丸  ・高砂山  ・鳳凰山 


~まつり最大の見どころ 子ども歌舞伎~


「長浜曳山まつり」は4月9日の線香番に始まって、12日までの4日間は若衆による勇壮な裸参りによりまつりの成功を祈願します。
子ども歌舞伎は、13日・14日の自町狂言、15日の本日(ほんび)には長濱八幡宮をはじめ参道から御旅所までの道中でも披露されます。
5歳から12歳くらいの男の子によって絢爛豪華な曳山の舞台で演じられるまつり最大の呼び物子ども歌舞伎。大人顔負けの熱演は見物客の拍手喝采を浴びます。
夜に御旅所に提灯を灯した4台の曳山が勢ぞろいする光景は幻想的で、クライマックスには神輿が担がれます。



~長浜曳山まつりの由来~ 

安土桃山時代、長浜城主だったころの豊臣秀吉に初めての男の子が生まれました。
喜んだ秀吉は城下の人々に金(きん)を振る舞い、町民がこれをもとに山車を作って八幡宮の祭礼に曳き回したのが始まりといわれています。


~絢爛豪華な曳山~

江戸時代中期から、長浜のちりめん産業の隆盛に伴い各山組は競って曳山を改造し、装飾に豪華な毛織物を用いるなどの贅を尽くしました。現存する曳山の多くはその頃に作られたものです。1階の舞台と楽屋、2階の亭(ちん)にわかれています。
曳山は「長刀山」と子ども歌舞伎が演じられる12基とあわせて13基あります。子ども歌舞伎が演じられる12基のうち毎年4基が交代で出番山となります。

~曳山祭豆知識~

装飾類の中では、貴婦人と三人の従者を描いた「鳳凰山飾毛綴(ほうおうざんかざりけつづり)」、大勢の槍を持つ武人を織だした「翁山飾毛綴(おきなざんかざりけつづり)」が国の重要文化財に指定されており、ともに約400年前のベルギー製の織物です。

国の重要文化財「鳳凰山飾毛綴(ほうおうざんかざりけつづり)」

国の重要文化財「翁山飾毛綴(おきなざんかざりけつづり)」


開催期間 2018年4月9日~2018年4月17日

場所 長濱八幡宮 長浜市宮前町13-55

アクセス [公共交通] JR琵琶湖線「長浜駅」下車 徒歩15分 [自動車] 北陸自動車道長浜ICより15分 [駐車場] 長浜曳山まつり開催期間中は大変混雑が予想されます。周辺駐車場をご利用ください。

お問い合わせ先 (公社)長浜観光協会 TEL 0749-65-6521


長濱八幡宮

大勢の人たちで賑わう長濱八幡宮の曳山の舞台の上で上演される「子ども歌舞伎」


長濱八幡宮
長浜城主、秀吉公の厚い保護のもと千年の歴史をもつ長浜の氏神様です。 4月15日の春季例大祭には「長浜曳山まつり」が催されます。桜の花だよりと共に祭り囃子が聞こえ、絢爛豪華な「曳山」と、曳山の舞台の上で披露される「子ども歌舞伎」は見ごたえがあります。


長濱八幡宮

祭神

[東御前] 足仲彦尊(タラシナカツヒコノミコト)仲哀天皇
厄除開運

[中御前] 誉田別尊(ホンダワケノミコト)応神天皇
厄除開運・健康長寿の神

[西御前] 息長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)
神功皇后 安産守護の神

由緒

長濱八幡宮は延久元年(西暦1069年)、源義家公が後三条天皇の勅願を受け、京都の石清水八幡宮 より御分霊を迎えて鎮座されました。それよりこの地は八幡の庄と称えられ庄内十一郷の産土 (うぶすな)の神として深く崇敬される事となりました。当時その社頭は三千石、一山七十三坊と 伝えられ、本宮の石清水八幡宮を凌ぐくらいであったといわれます。しかし、その後、しばしば 兵火にみまわれ、その社殿はほとんど消失されました。時は流れ、天正二年(西暦1574年) 羽柴秀吉公が長浜城主となるや、その大社の荒廃を惜しみ、社殿の修理造営をなし再興に 努めました。この史実は、長浜曳山祭の起源とも言われています。

ご神木

大ケヤキ
こぶをいくつも抱え、どっしりとした幹周り、魔物が腕を広げたような枝振り。
正に野神の名にふさわしい巨木です。滋賀県指定自然記念物。 幹周:8、4m 樹高:22m


秀吉と長浜

秀吉の長浜城

織田信長が浅井長政(あざいながまさ:信長の妹・お市の夫)の居城、小谷城(おだにじょう)を攻めたとき、横山城を守る木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:後の豊臣秀吉)は大活躍しました。小谷城が落城する直前にお市と三人の娘を救出したエピソードは有名です。
天正元年(1573)9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、はじめて城持(しろもち)の大名に出世しました。

翌年、今浜(いまはま:現在の長浜)が交通の要衝であると考え、お城を造り始めました。築城工事のため領内の住民を集めたり、竹生島(ちくぶしま)の材木を運んだりした古文書は残っていますが、当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことがたくさんあります。
天正3年秋頃、お城が完成すると地名を今浜から「長浜(ながはま)」に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、天正10年(1582)まで住んでいました。 この間、秀吉はこの長浜城から信長の先兵として北陸攻めや中国攻めへと出発していったのです。

長浜城のその後 

天正10年(1582)信長亡きあとの清洲(きよす)会議で長浜城は柴田勝家(しばたかついえ)の甥の勝豊(かつとよ)が城主となりました。 しかし、はやくもその年の11月、秀吉は勝豊を降伏させて長浜城を取り返し、賤ヶ岳(しずがたけ)合戦の拠点としました。
その後長浜城は山内一豊(やまうちかずとよ)、内藤信成(ないとうのぶなり)、内藤信正(ないとうのぶまさ)を城主に迎えました。豊臣氏が滅亡すると、長浜城は跡形もなく取り壊され、石垣など多くの材料が彦根城の建設のために使われました。今見られる大通寺台所門・知善院表門・彦根城天秤櫓(てんびんやぐら)は長浜城の遺構であると言われています。
現在の長浜城は、昭和58年(1983)に市民の熱意と寄付金などで建設され、内部を歴史博物館として開館しました。

秀吉と長浜

太閤秀吉図

湖北は、室町時代末期から安土桃山時代にかけて、織田信長、豊臣秀吉の天下統一への胎動のなかに巻き込まれていました。とくに長浜は、秀吉が一国一城の主となった最初の拠点であり、彼の城下町経営の基本パターンを醸成したところでもあります。


長浜の見どころ

曳山博物館

曳山博物館では、曳山を持っている「山組」から曳山を預かり公開展示しています。
曳山は4基収蔵し、2基ずつを3ヶ月交替で公開しています。

長浜曳山まつり展示室

曳山の入れ替え(曳山交替式)

「子ども歌舞伎」を舞台模型で子ども役者の目線で体験できる

4月の第一土曜日には展示している曳山の入れ替え(曳山交替式)も行っています。館内では曳山の舞台上で演じられる子ども歌舞伎(狂言)の様子が映像で見られます。 また、子ども歌舞伎の舞台模型を制作し、舞台に上って舞台の高さや広さなどを子ども役者の目線で体験できます。

無形文化の伝承

曳山博物館は、これまで受け継いできたものが途絶えてしまわないよう、曳山の修理施設を備え、多くの職人たちが曳山の修復を行っています。また、曳山まつりで活躍できる義太夫や三味線奏者を養成する「竹本塾」を開講し、無形文化の伝承に努めています。

シャギリ(囃子)とは

囃子は長浜曳山祭では「シャギリ」と呼ばれ、笛・太鼓・締太鼓・摺り鉦を用いて、曳山の亭(ちん)と呼ばれる2階の楼閣部分の中と曳山の周りで演奏されます。1792年(寛政4年)の地誌には「しゃぎりをはやす」の記述があり、この頃には既に行われていました。構成人員は太鼓と締太鼓両方と摺り鉦が1人、横笛が4~5人から10人以上のところもあります。

囃子の本来の役割は神霊を取り憑かせた依代を動かすためのものであり、長浜曳山祭においても曳山につくシャギリは曳山が動く際には必ず演奏されます。シャギリには曳山が動いている時に演奏する曲のほか、曳山の据え付け時、狂言(歌舞伎)の開始前と終了後、祭当日に関係者を起こしてまわる時など、それぞれの場面に応じて演奏する曲が伝わっています。大きく分ければ曳山の曳行に関する曲と狂言(歌舞伎)の進行に関する曲の2種類に分けることができます。

かつては、山組の大人の他に近郊農村部に在住する人々がシャギリの担い手となり、曳山祭にはそれらの人々が招かれてシャギリを吹いていました。戦後その慣行が途絶え、1971年(昭和46年)に長浜曳山祭囃子保存会が結成されてからは、子どもたちを募集するようになり、担い手は主に山組の子どもたち(小中学生の男女)になりました。シャギリの稽古は各山組で子どもたちを集めて週1回土日の夜に行われており、週末の夜になると1年中まちのどこかで囃子の音を聞くことができます。

囃子保存会は、長浜曳山祭のシャギリの保存と各山組に伝わる独自の曲の調査と後継者育成を目的に活動をはじめ、シャギリの五線譜化や子どもの囃子方の育成をはかっています。それまで口伝で行われていたシャギリを採譜したことで、伝承者の記憶が頼りだったシャギリを後世に残せるようになりました。

曳山博物館では長浜曳山祭で演奏される囃子を収録したCD(囃子保存会制作、1,200円)を販売しています。収録曲は全部で22曲(収録時間72分)あり、代表的な曲から各山に伝わる独自の曲も収録しています。販売は曳山博物館の物販スペースで行っています。


各山組町内の曳山

通常、曳山は各山組町内にある山蔵に保管されています。


お問い合わせ
長浜市曳山博物館 〒526-0059 滋賀県長浜市元浜町 14-8 TEL 0749-65-3300
長浜観光協会 〒526-8501 滋賀県長浜市八幡東町632 TEL.0749-65-6521 


長浜曳山まつりは約1週間の期間行われます。さらに子どもは子ども歌舞伎を演じる為に1ヶ月近い稽古を積むことになります。 長い間受け継がれてきた伝統ある儀は、役者やくじ取り人の健康、まつりの成功など様々な願いが込められています。

是非、4月には長浜市で日本三大山車祭の「長浜曳山まつり」そして、日本の伝承文化「子ども歌舞伎」をご覧ください。


鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使


協力(順不同・敬称略)

長浜市役所 〒526-0031 滋賀県長浜市八幡東町632 電話: 0749-62-4111

長浜観光協会 〒526-8501 滋賀県長浜市八幡東町632 TEL.0749-65-6521

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長浜市曳山博物館 〒526-0059滋賀県長浜市元浜町 14-8 TEL 0749-65-3300

文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話:(代表) 03(5253)4111