Okinawa 沖縄 #2 Day 216 (28/09/22) 旧真和志村 (26) Uenoya Hamlet 上之屋集落
旧真和志村 上之屋集落 (うえのや)
- 上之屋北公園
- 高真佐利 (タカマサイ) 公園、与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑
- フェーヤチガマ
- 天久宮 (2022年9月25日 訪問)
- 聖現寺 (2022年9月25日 訪問)
- 古拝殿 (フルフェーリン) (2022年9月25日 訪問)
今日は先日訪問した天久集落の文化財で見れなかった文化財と隣村の上之屋集落にある文化財を巡る。
旧真和志村 上之屋集落 (うえのや)
上之屋は、沖縄本島各地から寄り集まって形成された街だった。大正9年に天久から分離する以前、明治末期から大正の初めにかけての上之屋は、点在したわずかばかりの住家があるのみだったが、大正2年に潟原から乗合馬車の駐車場が天久に移転したことから急に繁栄し出した。当時、この客馬車は、那覇と中頭及び国頭地方をつなぐ重要な交通機関で、その駐車場 (チューシャバ) が設置されて以来、北谷や与那原地方、泊地方からも移住して来て寄り合部落を形成した。その結果、自然発生的に商店街が出来、駐車場近くに市場が出来て発達するようになった。
明治時代は上之屋はまだ存在せず天久集落の一部だった。当時の地図では民家は見当たらない。大正時代に天久から分離し独立行政になっている。
その時代の地図がなく、どの地域に集落があったのかははっきりとはわからないのだが、資料では泊高橋から北へ100m位行ったところから元気象台の下あたりまで、東側は泊浄水場の更に東に黄金森、白山療養園 (結核療養所) があり、泊小学校の上の方から泊公園を経て、西側は新屋敷の裏を通り、台瀬病院、外人 (ウランダ) 墓地の前から天久宮聖現寺の上の方にウェンジュンモウ (羊順毛) を控えた東西に細長く延びた部落だった。この記述から見ると大体、この辺りが戦前の上之屋集落があったのだろう。
1948年の地図ではその場所は米軍兵住宅地のマチナトハウジングエリアとして強制接収された。その為、住民は国道58号線の西側に移ることとなった。
沖縄戦後、上之屋住民は移動を繰り返している。
- 昭和20年10月頃から摩文仁の糸数並びに米須の米軍の引き揚げた天幕兵舎後に散り散りになった村民が集結。
- 昭和21年6月頃から、豊見城村字嘉数真玉橋の米軍が引き揚げた天幕兵舎後に移動。
- 昭和23年10月頃から上之屋東原の農耕割当農地米軍の塵捨て場や防空壕などから集めた木材、茅葺家など建てて住み始める。
- 昭和28年頃、米軍から立ち退きを強要され、現在地の宮城区 (寄宮) へ引っ越す。(天久にまたがる割り当て地に住んでいたのかは不明)
- その後、いつ頃かは書かれていないが、上之屋地区に帰還しているが、東半分は米軍住宅となり、国道58号線の西側に住んでいた。
上之屋は大正時代に出来た集落なので、村としての御嶽や拝所は存在しない。多分、天久集落の拝所を拝んでいたか、他の地域からの寄留民は門中や家単位での拝みをしていたのだろう。
上之屋の人口は天久集落と同じく、沖縄戦で半減したが、その後増加して元に戻っていたが、上之屋の東半分が米軍兵の住宅地 (マチナトハウジング) として強制接収され、再度減少、その他の土地も合意なしに米軍兵用の住宅地になった事もあり、他の地域に比べて人口の伸びは少なかった。マチナトハウジングの土地が徐々に返還されるたびに人口は増加している。大きく人口が増えたのは、マチナトハウジング地が全面返還後に新都心の開発が行われて後になり、新都心の人気エリアに隣接している上之屋も人口は増加傾向にある。
旧真和志村の他の地域と比較すると、分離独立した大正時代の人口は比較的多かったが、沖縄戦後は、土地接収が長く続いた事、土地返還後の新都心計画地から外れたこともあり、人口の伸びは他の地域に比べ低く、人口の少ない地区となっている。
上之屋集落訪問ログ
上之屋北公園
「上之屋 寺原や 今ど 夜ぬ明きて 待ちやる 甲斐あてさ 街ん建ちゅい(玄鬼)」
高真佐利 (タカマサイ) 公園、与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑
上之屋地区の東、おもろまち近くにはタカマサイ公園がある。ここには以前来ている。
与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑が建てられて白川宮と呼ばれる拝所になっている。入口には宮古通し (ミヤークトウシ、写真中) と書かれた拝所がある。故郷の宮古島への遥拝所になっている。ガジュマルの木の根元にも◼️主神の拝所がある。
白川宮の神アシャゲには碑の前に6つの香炉が置かれていた。向かって左から、火の神、龍神水主神 (ミズヌスガム)、体主◼️、不明、サイヌパ・サルヌバー、トラヌパ帳主が祀られている。全部は読めないのだが、宮古方言で沖縄方言と異なっている。
これにより、付近の村民は、ここを高真佐利屋原 (タカマサイバル) と呼ぶ様になった。その後、屋敷跡は人手に渡ったが、1767年に与那覇勢頭豊見親の子孫がこの地を買い求め、子孫拝礼の場所として、白川氏正党14世恵政(けいせい)が碑を建立した。碑は沖縄戦で上半分が破損し、1987年に復元されている。
フェーヤチガマ
天久宮、聖現寺の西側、かつての海岸道路 (旧火葬場通り) 沿いにフェーヤチガマと呼ばれた灰焼き窯が三カ所あったそうだ。以前は沖縄ではテーブルサンゴを重油で焼いて石灰を作り、それを使って漆喰(ムチ)を作っていた。 重油を焚いていたので、相当の量の煤が出て、独特な蒸れる匂いが鼻をついていたという。当時の写真が残っている。説明通り真っ黒だ。
この辺りも林の中の斜面には古墓がぎっしりと並んでいた。
天久宮、聖現寺、古拝殿 (フルフェーリン)
かつては天久に属していた上之屋地区には天久宮、聖現寺、古拝殿 (フルフェーリン) があるが、ここには先日 (2022年9月25日) 訪れ、天久集落訪問レポートに含めている。
参考文献
- 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 上之屋誌 (1989 上之屋互助会)