Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 216 (28/09/22) 旧真和志村 (26) Uenoya Hamlet 上之屋集落

2022.09.29 13:01

旧真和志村 上之屋集落 (うえのや)



今日は先日訪問した天久集落の文化財で見れなかった文化財と隣村の上之屋集落にある文化財を巡る。



旧真和志村 上之屋集落 (うえのや)

上之屋は、沖縄本島各地から寄り集まって形成された街だった。大正9年に天久から分離する以前、明治末期から大正の初めにかけての上之屋は、点在したわずかばかりの住家があるのみだったが、大正2年に潟原から乗合馬車の駐車場が天久に移転したことから急に繁栄し出した。当時、この客馬車は、那覇と中頭及び国頭地方をつなぐ重要な交通機関で、その駐車場 (チューシャバ) が設置されて以来、北谷や与那原地方、泊地方からも移住して来て寄り合部落を形成した。その結果、自然発生的に商店街が出来、駐車場近くに市場が出来て発達するようになった。

明治時代は上之屋はまだ存在せず天久集落の一部だった。当時の地図では民家は見当たらない。大正時代に天久から分離し独立行政になっている。

その時代の地図がなく、どの地域に集落があったのかははっきりとはわからないのだが、資料では泊高橋から北へ100m位行ったところから元気象台の下あたりまで、東側は泊浄水場の更に東に黄金森、白山療養園 (結核療養所) があり、泊小学校の上の方から泊公園を経て、西側は新屋敷の裏を通り、台瀬病院、外人 (ウランダ) 墓地の前から天久宮聖現寺の上の方にウェンジュンモウ (羊順毛) を控えた東西に細長く延びた部落だった。この記述から見ると大体、この辺りが戦前の上之屋集落があったのだろう。

1948年の地図ではその場所は米軍兵住宅地のマチナトハウジングエリアとして強制接収された。その為、住民は国道58号線の西側に移ることとなった。

沖縄戦後、上之屋住民は移動を繰り返している。

上之屋は大正時代に出来た集落なので、村としての御嶽や拝所は存在しない。多分、天久集落の拝所を拝んでいたか、他の地域からの寄留民は門中や家単位での拝みをしていたのだろう。

上之屋の人口は天久集落と同じく、沖縄戦で半減したが、その後増加して元に戻っていたが、上之屋の東半分が米軍兵の住宅地 (マチナトハウジング) として強制接収され、再度減少、その他の土地も合意なしに米軍兵用の住宅地になった事もあり、他の地域に比べて人口の伸びは少なかった。マチナトハウジングの土地が徐々に返還されるたびに人口は増加している。大きく人口が増えたのは、マチナトハウジング地が全面返還後に新都心の開発が行われて後になり、新都心の人気エリアに隣接している上之屋も人口は増加傾向にある。

旧真和志村の他の地域と比較すると、分離独立した大正時代の人口は比較的多かったが、沖縄戦後は、土地接収が長く続いた事、土地返還後の新都心計画地から外れたこともあり、人口の伸びは他の地域に比べ低く、人口の少ない地区となっている。


上之屋集落訪問ログ



上之屋北公園

天久宮、聖現寺の坂を登り、上之屋地区の北側、字天久との境界あたりに、上之屋北公園がある。この公園内に「和」と刻まれた記念碑が建っている。1993年に造られている。比較的新しいものだ。説明板を読んでその経緯がわかった。当時この地に住んでいた人々の苦悩と努力を伝えている。この周辺は、1945年の太平洋戦争結までは別荘が点在し、湧き水にも恵まれ、泊港を下に見る風光月丘地帯だった。戦後、この地は一方的に米軍政府により米兵住居地にされ、ブロック造り瓦葺き平屋が多数建築された。管理をしていた沖縄住宅公社が1965年頃に地権者を無視して入札によりマニングコーポレーションに譲渡された。 (沖縄住宅公社は現在の沖縄住宅供給公社とは異なり、米軍政府に属し、米軍兵のために住宅を供給する目的で1950年に設立された) 一部地主は、訴訟によって1976年に無償返還にこぎつけたが、多くの地権者は、マニング社との交渉も困難をきたしていた。同じころ県営住宅建設が施工され 近隣地域の区画整理事業の可能性もたかまり開発業者の介入もあって、マング社との家買収交渉が成立し、区画整理事業開始の運びとなった。1990年に都市計画決定となり、国、県、市が事業費の50%を補助金として拠出したこともあり、区間整理工事が開始され、翌年に竣工となった。実に土地を奪われてから45年が経っている。沖縄では殆どの集落でなんらかの形で、沖縄戦後の苦しみがあった。未だに土地が返還されていない所は多くある。まだ戦後は終わっていないと言っていた夫人の言葉を思い出した。石碑の裏側 (写真右下) に琉歌が書かれている。説明を読んだ後にこの歌を見ると当時の住民の気持ちが、よく分かる。

「上之屋 寺原や 今ど 夜ぬ明きて 待ちやる 甲斐あてさ 街ん建ちゅい(玄鬼)」


高真佐利 (タカマサイ) 公園、与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑

上之屋地区の東、おもろまち近くにはタカマサイ公園がある。ここには以前来ている。

与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑が建てられて白川宮と呼ばれる拝所になっている。入口には宮古通し (ミヤークトウシ、写真中) と書かれた拝所がある。故郷の宮古島への遥拝所になっている。ガジュマルの木の根元にも◼️主神の拝所がある。

1390年、察度王の時代、一説では宮古島の与那覇勢頭豊見親 (ヨナハセドトゥユミャ) が、宮古の覇権争いで目黒盛に負けて宮古の白川浜から沖縄本島に出帆敗走し (白川宮と呼ばれる所以) 、中山王に、庇護を求めて八重山の首領と共に入貢し、宮古の首長に任じられ、泊御殿に住まわされた。当時は宮古と那覇では言葉が違い通じないので、従者20名に三年かけて琉語を学ばせた。国王への貢物は彼らを通して納められ、宮古に帰る時 (宮古は目黒盛支配下なのにとも思うが?宮古島訪問前までに調べておこう。) には王城内で送別の宴を賜ったといわれる。従者の一人に高真佐利屋 (タカマサイ) という者がいて、夜毎、火立屋 (狼煙台) に登り、故郷の宮古島をのぞみ宮古の歌謡の「あやぐ」をとなえていた。

白川宮の神アシャゲには碑の前に6つの香炉が置かれていた。向かって左から、火の神、龍神水主神 (ミズヌスガム)、体主◼️、不明、サイヌパ・サルヌバー、トラヌパ帳主が祀られている。全部は読めないのだが、宮古方言で沖縄方言と異なっている。

これにより、付近の村民は、ここを高真佐利屋原 (タカマサイバル) と呼ぶ様になった。その後、屋敷跡は人手に渡ったが、1767年に与那覇勢頭豊見親の子孫がこの地を買い求め、子孫拝礼の場所として、白川氏正党14世恵政(けいせい)が碑を建立した。碑は沖縄戦で上半分が破損し、1987年に復元されている。


フェーヤチガマ

天久宮、聖現寺の西側、かつての海岸道路 (旧火葬場通り) 沿いにフェーヤチガマと呼ばれた灰焼き窯が三カ所あったそうだ。以前は沖縄ではテーブルサンゴを重油で焼いて石灰を作り、それを使って漆喰(ムチ)を作っていた。 重油を焚いていたので、相当の量の煤が出て、独特な蒸れる匂いが鼻をついていたという。当時の写真が残っている。説明通り真っ黒だ。

この辺りも林の中の斜面には古墓がぎっしりと並んでいた。


天久宮、聖現寺、古拝殿 (フルフェーリン) 

かつては天久に属していた上之屋地区には天久宮、聖現寺、古拝殿 (フルフェーリン) があるが、ここには先日 (2022年9月25日) 訪れ、天久集落訪問レポートに含めている。



参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 上之屋誌 (1989 上之屋互助会)