絶対的な善悪は 存在しない
聖書に「園の中央にある善悪を知る木から取って食べてはならない。食べると死ぬから」と書いてあります。
取って食べたアダムとイブは 神を失い、楽園を追放されます。
善悪の区分をすることは自己を神化することであり、絶対的な善悪は 存在しないということではないでしょうか。
「ハートビーイング」というライフスキルプログラムがあります。
その中で人に言われて 嬉しかった言葉を書き出す作業をします。いつもと言って良いほど トップになる言葉があります。それは「ありがとう」です。
感謝の言葉が 人を癒し 愛の循環を生む力を持つことが 良く分ります。
若い頃の私はモラリストが嫌いでした。偽善者のように思えたからです。
しかし偽とは人(の)為と書くのも面白い。
道徳律を押しつけられるのも嫌でした。
ひところ不登校が話題になりました。
「よい子で頑張ること」が不適応を生む大きな 要因と言われました。
善い子とは 周りの大人にとって都合のよい子の呼称です。
善い子は自分の意思より 周囲の期待や価値観に応えることを優先します。
成長する中でいつの間にか自分を失っていくのです。
保育士の研修を担当していますが その方々の大多数が 善い人でなければならないという誤った信じ込みを持っています。
研修内容の一つに「~さん あなたはかけがえのない大事な方ですよ。ありのままでいいですよ。よく頑張ってきましたね」と伝えるプログラムを入れています。
皆 大感激を受けます。
しかし「善い人であれ」を自分に課して 生きていくと周りから評価を得 人生を勝ち取る大きな力になります。
このような 自分を縛りながら 一見人生を勝ち取ってきたかに見える厄介な信じ込み(一般的にドラィバーと呼ばれる)は気づいても手放す(自由になる)のが困難です。
Facebookごとう 孝二さん投稿記事 「あなたは愛されるに値する存在」
あなたは、あなた以外の何者でもなく。あなた以外にあなたになれる者はなく。
あなたはあなた以外の存在にはなれないのです。
だとしたら、あなたがあなたを否定したところで何の意味もない。
あなたは、あなたの存在を前提としているからです。
過去の過ちも失敗も、醜さも、欠点、劣等感も、あるがままに受け入れ、自分を信じるのです。
時には、過去の成功や栄光は、毒にもなります。
いつまでも、過去の成功や栄光にすがっても、今の自分が救われるわけではありません。
今の自分を受け入れ、今の自分を愛するのです。
この世の中に不完全な存在なんてありません。又、卑しい存在もありません。
病気だから不完全で、健康だから完全なんて事もありません。
百点満点だから完全で五十点だから不完全だなんて言う事もありません。
障害があるから不完全で、何の障害もないから完全と言う事もありません。
展覧会で特賞をとった花は尊くて、野に咲く花だから卑しいと言う事はありません。
野に咲く花は、誰に助けられるわけではありません。
野に咲く花は、それ自身で完全であり、それ自身で咲いているのです。
それが命です。
生きるという事です。
不完全な命なんてこの世にはないのです。
野に咲く花を見て美しいと感じたら、美しいと感じる自分と美しいと感じさせてくれる何者かに感謝し、
そっと手を合わせればいいのです。
花と自分との間には何の隔たりもないのです。
頭脳や心臓だから尊くて肛門だから卑しいなんてしません。
何が完全で何が不完全かを判別しているのは人です。
何が尊くて、何が卑しいかを決めているのは人です。
あなたは、あなたとして常に完全無欠なのです。
あなたは、あなたとして絶対なのです。
そう思えば病気だって怖くない。
そのことに気がつけば自分を生かしている存在に感謝するようになります。
生かされている自分に感謝する心が起きます。
この世の全ての存在に感謝する。
自分の苦しめる者にすら感謝できるようになります。
何に対しても感謝してありがとうという気持ちが起こるたびに、
あなたは、歓喜に打ち震え自然と涙が流れてくるのです。
それこそが愛です。誰にも愛されてないなんて思ってはいけません。
あなたは愛されるに値する存在です。
相手を許し、自分を許す。
自分を許し、相手を許す。
相手を許し、自分を許す。
傷ついた自分を許し、自分を傷つけた人を許す。
自分を傷つけた人たちを許し、傷ついた自分を許す。
Facebook相田 公弘さん投稿記事 「こだまでしょうか」
「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。そうして、あとでさみしくなって、
「ごめんね」っていうと、「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか。 いいえ、誰でも。
金子 みすゞ
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ある経営者はこの詩を読んで、「これが経営ですね」と言いました。
社員の文句を言う経営者は、二流だと言われます。それは「こだま」だからです。
社員をほめる経営者は、一流だと言われます。それは「こだま」だからです。
景気が悪いと言うと、景気が悪くなります。それは「こだま」だからです。
だからこそ、「こだま」は「ことだま(言霊)」につながるのではないかと思います。
自分が発する言葉は自分に戻ってきます。いつも忘れてはならない真実だと最近感じます。
Facebook清水 友邦さん投稿記事
道元・白隠・盤珪(ばんけい)は禅思想の三大潮流と呼ばれています。
その三人のうち誰に会いたいかと問われれば私はまっさきに盤珪さんと答えたいと思います。
ある日、一人の癩病人から仏弟子になりたいと盤珪さんに申し出がありました。
盤珪さんが膿がしたたる頭を丁寧に剃髪しているのを不潔に思った町田伝右衛門という者が手桶に水をくんで来て「老師どうぞその手をお洗いください」と申し出ました。
すると盤珪さんは「この願病人よりも、そなたが不快そうに嫌う心のほうがよっぽど汚いわい」と言ってその手洗水を使おうとしませんでした。
「悪をきらうを善じゃと思う きらう心が悪じゃもの」 盤珪
「善をしたこと善じゃとうじゃる うじゃる心が悪じゃわい」盤珪
「善きも悪しきも一つにまるめ 紙につつんで捨てておけ」盤珪
盤珪さんの膝下には宗派を忘れて曹洞・臨済・天台・真言から儒家や神道の指導者までが集まり盤珪さんに心酔しないものはいませんでした。
しかも、仏典や漢文書籍は一切引用せずやさしい日常の言葉で教えを説いたので大名から庶民にいたるまで「活き釈迦」と敬慕され幅広い階層の人々の帰依を受けました。
盤珪さんの有名な短気の問答です。
質問
「それがしは生まれついての短気でございまして、直そうと存じますけれども、これが生まれつきでございまして直りませぬが、これはなんと致したら直りましょうか」
盤珪さん
「ほほう、そなたは面白い物を生まれついたのう。今もここに短気がござるか? あらばここへお出しやれ。さっそく直して進ぜよう」
質問
「ただ今はござりませぬ。ひょっとした拍子に短気が出まする」
盤珪さん
「それならば、短気は生まれつきではござらぬ。
なにかしらのご縁によって、ひょっとした拍子にそなたが出かすものじゃ、
何かした時も、そなたが出さなければどこに短気があるものぞ。
そなたが勝手に短気を起こしておきながら、それを生まれつきというのは難題を親のせいにする大不孝者というものでござる。
生まれつきなら短気は今もあるはず。
親から生まれついて持ったものは不生の仏心(セルフ)ひとつで、それ以外のものは一つもありませぬ。
一切の迷いは勝手に自分をひいき(自己中心的)にして、自分が思いを起こすからで、それを生まれつきと思うのは愚かでござる。
われが思いを出かさなければ短気がどこにもありますまい。
ない短気を直すとは無駄なことで、不生の仏心をしれば迷いたくとも迷われませぬ。不生の仏心でござれ。」
自我はたくさんの記憶で出来ています。
頭の中では思考が次々と浮かんでは消え、刻々と変化してとどまるところがありません。
思考はうつろい、常に変化してゆく諸行無常なものです。
「あーでもない。こーでもない」と言っている思考の私はいないのです。
実体のない思考を私と思い込んでしまっているのが私たちです。
ですから盤珪さんに「短気を出しなさい」と問われても「はいこれです」と差し出すことはできないのです。
盤珪さんの法話を聞きに来た十五歳くらいの小僧が盤珪さんに質問しました。
「坐禅をしておりますと、次から次へと雑念が出てきますが、どうしたらよろしいでしょうか」
盤珪さん
「いろいろさまざまに起こってくる念を、それぞれにわきまえ知ることが仏心の徳用でござる。
仏心は不生にして、しかも霊明なものであるから、わが胸の内にあるものが自然に浮かび出てくるのじゃ。
仏心には念と物とがないから、その念を払おうとも、止めようとも思わず、取りあわないでおれば、それで自然に不生の仏心にかなうことになるのじゃ」
盤珪さんの「不生の仏心」とは生まれる事も死ぬ事もない永遠の本当の自分のことです。
「無為の心はもとより不生 有為が無き故迷い無し」盤珪
盤珪さんの禅は「不生禅(ふしょうぜん)」と呼ばれました。
永遠の自己は誰もが生まれつき備わっています。
本当の自分(セルフ)に気がつけば自我(エゴ)が自分の本質ではないことがわかります。
迷う心(エゴ)は実体のない幻影(マーヤ)だと気がつくと迷うことがなくなるわけです。
「不生の仏心」に気がつけば、悟りを得ようと念仏を唱えたり、厳しい修行も坐禅もする必要がないと盤珪さんは教えました。
「仏道修行をつとめし後は 何もかわりは得ぬものを」 盤珪
「迷い悟りはもと無いものじゃ 親も教えぬならいもの」 盤珪
修行は不要と説いた盤珪さんですが盤珪さん自身は、下の敷物が破れ、足からは血が出るほど寝食を排して何年も座禅に打ち込みました。とうとう、お湯をすするだけの重い病気を患って死を覚悟しました。苦しみぬいた朝に、真っ黒い血痰の固まりを吐き出すと楽になったので表に出て顔を洗いました。その時梅の花の香りが鼻腔を打ちました。その瞬間に盤珪さんは桶底が脱ける心境に達したのです。
「やれ、一切の事は不生の一字でととのうものを、今日までそれを知らずに、さてさてむだ骨を折ってきたことだ」盤珪
禅では悟りの境地を『桶の底が抜ける』 と表現します。
底が抜けた何もない空っぽの桶は虚空を表しています。
思考が現れては消える虚空である空っぽの桶それが自己の本質です。
「古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」盤珪
なかなか桶の底が抜けない探求者は、すぐれた師を探して桶の箍(たが)を緩めてもらいます。箍(たが)が緩んでしまえば、あとは時期がくれば底は自然に抜けます。
ただし、箍(たが)を緩めるつもりの講釈が逆に箍(たが)を締めてしまうことがあります。
究極では桶そのものがありませんが、準備ができていない人への講釈は、かえってマインドを強化してしまうだけなのです。
盤珪さんの教えを信ずる人々を白隠は批判しました。
「何もしなくてもそのままで良い」は無事禅として批判されました。
昔から無事禅をそのまま鵜呑みにして怠惰になり、堕落してしまう人が多かったからでした。
気づきがない状態で講釈ばかり聞いても自我が太るばかりなのです。
今の臨済宗の法系はすべて白隠から来ています。
臨済宗の法系の盤珪さんは元和八年(1622年)3月8日に播州(兵庫県)網干の浜田で生まれ、元禄六年(1693年)9月30日に姫路の龍門寺で73歳でこの世を去りましたが、残念なことに「不生の仏心」を説く盤珪さんの「不生禅」の法系は長続きしませんでした。
「昔思えば夕べの夢よ、とかく思えば皆うそじゃ」盤珪