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ローマ人の物語Ⅳ ユリウス・カエサル ルビコン以前

2022.10.01 10:36

☐「指導者に求められる資質は、次の五つである。知性、説得力、肉体上の耐久力、自己制御の能力、そして持続する意志。カエサルだけがこのすべてを持っていた。」

                 イタリアの普通高校で使われている歴史の教科書より

☐ 「カエサルは、ローマが生んだ唯一の創造的天才」 ドイツの歴史家、モムゼン

☐「大英帝国の歴史はカエサルがドーヴァー海峡を渡ったときに始まった」 英国元首相、W.チャーチル


  このようにイタリアの歴史教科書では、「リーダーに必要な資質をすべてを持っている」と紹介され、19世紀のドイツの知識人からは「唯一の創造的天才」、さらに第二次世界大戦でナチス・ドイツと闘った英国首相チャーチルからは、祖国イギリスの文明化に寄与した、と褒め称えられるユリウス・カエサル(英語読みはジュリアス・シーザー)。優れた戦略家・軍人、政治家であり、同時に稀なる文才家。更に、歴史上有名な古代エジプト最後の女王、クレオパトラとの恋愛でも知られている古代ローマ、、そして、人類史上最大の英雄、と言っても決して過言ではないこのカエサルとは、一体どのような人物だったのでしょう。。この塩野七生さんによる「ローマ人の物語Ⅳ」では、この英雄ユリウス・カエサルの活躍の前半が描かれています。


   前作のブログでも紹介したグラックス兄弟。彼等は三回にも及ぶカルタゴとの戦いの結果、拡大する一方だった、持てるものと持たざるものとの社会格差の是正に起ちあがりました。しかし、彼らの改革は、あまりに社会公正に根ざす、言い換えれば、ローマ建国から利益を享受してきた支配階層に真っ向から挑戦する改革は、保守支配層の逆鱗に触れあえなく頓挫しました。

  

  このような貴族保守派代表の元老院派と、貧困層の民衆との対立で混沌としてた時代( 紀元前100年7月)、 ユリウス・カエサルはローマの庶民街スラッブで生を受けます。家はローマ建国にまでさかのぼれるユリウス一門。このユリウス一門は共和制ローマの初期には活躍したようですが、その後この家門からは勢威をふるう者に長い間恵まれなかったため、財を築く機会には久しく恵まれず、経済的につましい生活を送っていました。後年、神がかり的な活躍をするカエサル。37歳で名誉職である最高神議官に就任したとはいえ、当時の政界の実力者、スッラからの冷遇もあり、表舞台へ躍り出るまでの彼の出世キャリアは、通常のローマ貴族子息が歩むエリートコースに比べ遅々としたものだったのです。しかしようやく40歳前後のスペイン南部の属州統治を終えた頃から本格的な政治活動に関わっていきます。


  庶民からは人気があり、反元老院派と見られるようになったカエサルは、当時の二大有力者と共に互いの弱点を補強し合い、最大利益を享受するという目的で派閥政治、いわゆる「三頭政治」を行います。当時の二大有力者とは、強力な軍事力を持つグナエウス・ポンペイウスと大富豪のクラッスス。この三人の協力関係を利用したカエサルは、ローマの行政における最高指導者である執政官に選出されます。


  この執政官の任期中、カエサルは反カエサルで固まっている元老院勢力を三頭政治の一角ポンペイウスの協力でかわし、自らを5年間のガリア属州総督に選出、ガリア地方での軍事指揮権を手中に収めます。ガリアというのは、今で言う北イタリアからフランス、ベルギーあたりを指す広大な地域で、水が豊富で気候も厳しくなく農産物や畜産物も豊富に産する未開の土地でした。この土地にはガリア人と呼ばれる人々がいくつもの部族に分かれて住んでいましたが、このガリア人はガリアの北方に住む蛮族(ゲルマン人)の侵入に絶えず脅かされていたため、この状態を放置しておくと、北から南下してくるゲルマン民族がガリアに侵入し、その次には玉突き現象のように、ガリア人がローマの領内に侵入してくることが考えられたのです。 下【ガリア】

  つまり、このガリア地方を安定させることができれば、ローマの安全保障が成り立ち、更に、ローマの支配権をイタリア半島全域に広げることができるのです。しかし当時のガリアでは、大小百以上の部族がそれぞれ独自に生活している状態で、「統一」をしようにも、一朝一夕にはできない状態にありました。しかし、カエサルは8年(紀元前58年から同51年)を費やし、このガリアを統一します。この期間、カエサルは大小多くの抗争や戦いに明け暮れることになりますが、この長期間に及ぶ遠征の勝利を決定的にした戦いが、紀元前52年カエサル率いるローマ軍と、ガリアのアルウェルニ(オーヴェルニ)族の若きリーダー、ヴェルチンジェトリックス率いるガリア人連合軍との間で行われたアレシア攻防戦で、この戦いは古代ローマにおいて最大規模の包囲戦の一つとされています。


  カエサルのガリア進攻以来、多くの部族が独自に行動し大きな勢力にまとまらないまま。彼等はカエサル軍に対し劣勢に立たされていきます。このような状況の中、親ローマ派のアルウェルニ族内で反ローマ派の若者ヴェルチンジェトリックスがクーデターを起こし、親ローマ勢力を追放、同族の首領に収まります。 ヴェルチンジェトリックスは、対ローマ戦の鍵はガリア民族の団結にあると考え、反ローマを旗印に全ガリア部族が結集し、ローマと闘うことを訴えます。この呼びかけに多くのガリア部族が共感し、結集。ヴェルチンジェトリックスは、強権と厳罰主義で指導者となり、ガリア部族を統率します。


  いくたびかカエサルと戦いを交えたヴェルチンジェトリックスは、当時ガリアの「聖地」とされていたアレシアに立てこもり、対ローマ戦を決定的なものする戦いを起こそうと、全ガリア部族に援軍を呼びかけます。丘の上の町を要塞化して立てこもるヴェルチンジェトリックスと8万のガリア連合軍兵士。これに対するカエサルの軍勢 6万はまず、この要塞化したアレシアを取囲む16.5キロメートルに及ぶ包囲網を建設。更にその包囲網から百二十メートル幅の中間地帯を設け、その外側に更に21キロメートルに及ぶ防衛網を構築します。内側の包囲網は、アレシアに立てこもったガリア兵を外に出さないためのもので、外側の防衛網は、アレシアの外からのガリア援軍に対処するためのものです。カエサル率いるローマ軍は、内と外からのガリア軍勢の攻守の流れを遮断するため、その2つの包囲網の間に集結します。


下【アレシアに築かれたローマの二重の包囲網】

  カエサルは更に一ヶ月を要し、数で劣る自軍の不利を考え、2つの防壁の外側に、壕や土塁を築き、先端が尖った鉄製の障害物を配置させます。(上図) この3日間にわたる包囲戦では、この鉄壁な防御設備が威力を発揮。アレシアの 8万のガリア兵と26万人とも言われるガリア援軍は、戦闘能力を分断され、苦戦を強いられます。一方、数で劣るローマ軍ですが、最後の3日目にはカエサル自身も戦闘指揮用の櫓(やぐら)から出て防御兵を率い、白兵戦を展開しているローマ兵のいる激戦地へ援軍に駆け付けます。このローマ騎士団の攻撃を背後から受けた6万のガリア援軍は総崩れになり、ついに敵将ヴェルチンジェトリックスは生け捕りにされます。カエサルの戦略、それを現実化したローマ軍の土木技術、そして部下と一体となったカエサルの組織力の勝利でした。 後年、ローマの歴史家、プルタルコスが語るようにカエサルは、敗者さえも自分たちに同化させるやり方でガリア属州統治を行うのですが、これは戦った相手を罰せず、ローマ市民権も与える政策につながりローマ帝国の拡大に大きく寄与する外交政策になります。このような同化政策を最初に行ったのがカエサルでした。

上【赤いトーガに身を包むカエサル(右側)と投降する馬上のヴェルチンジェトリックス(左側)】


  この包囲戦により、8年にも及んだガリア戦争は終わり、カエサルは、当時一千ニ百万人とも言われた人口を擁するガリア地方の「ローマ属州化」に成功します。このガリアに課した税収や戦利品からの利益を元手に、カエサルはガリア戦役を共に戦った部下に報奨を与え、自らの軍を増強し、自らの地位を固めます。(このカエサルの戦いは、自身の著作である「ガリア戦記」に詳解されています。) このガリア戦役の功績によりローマにおけるカエサルの人気はうなぎ上り。今や実力と人気を兼ね備えたカエサルは元老院にとって大きな脅威となりました。


  また、カエサルはこのガリア進攻の途中の紀元前55年と54年の二度にわたり、ブリタリア(現在のイギリス、グレートブリテン島)への侵攻も行っています。ブリタニア探査の他、当時のブリタニアが対ローマ戦で敗北したガリア部族の逃走先になっていたり、またブリタニアの部族がガリア部族と共謀しているなどが侵攻の理由です。


  話が少し前後しますが、紀元前53年、三頭政治の一人クラッスス率いる四万のローマ軍が、パルティア遠征において大敗を喫する、という大ニュースがローマに飛び込んできます。クラッスス軍は、パルティア側の青年貴族兵士、スレナスが考案した改良弓矢を装備した騎兵隊の攻撃により壊滅状態に陥り、クラッススは頭部と右腕を切り離され、パルティア王に差し出される、という無残な最期を遂げたのです。しかし、多くの元老院議員にとってこの敗戦における最大の関心は、クラッススの死で三角形の一角が崩れた三頭政治の行方でした。 元老院主導の政治体制こそローマが死守すべきもの、と考えている彼らは、この機に乗じ三頭政治の切り崩しを画策します。実はポンペイウスはカエサルの娘ユリアと結婚していて、それもポンペイウスとカエサルを三頭政治に結び付ける要因となってたのですが、紀元前54年、ユリアが死去したことで二人の関係が疎遠になり、ポンペイウスは次第にカエサルと距離を置き始めていたのですが、これが元老院派にとっては好都合だったのです。


  クラッススの死とポンペイウスとカエサルの不協和音とすでに機能不全に陥っていた三頭政治。この機に乗じ元老院派は、ポンペイウスを自派に取り入れることに成功。一方、ローマ英雄の最大栄誉である凱旋式を挙行し、執政官の再就任を狙っていたカエサル。しかし、カエサル憎しの元老院派はそんなことは決して許すはずがありません。。実は当時、属州総監督がローマに帰還する時は、イタリアの境界線となっていたルビコン川を越えて軍隊と共に南下することは軍事違反とされ、国家への反逆とみなされていたのです。さらにローマでは反カエサル主導の元老院が「元老院最終勧告」を発布。これによりカエサルは数日中に軍を手放さないと国家の敵とみなされることになったのです。しかし、カエサルにとっては、もし武力なしに、ローマに乗り込めば、政敵から暗殺されないとも限りません。


  ローマに帰還すべきか、ガリアに留まるべきか、、紀元前49年1月12日の朝、カエサルは、ルビコン川の岸辺で無言で立ちすくみます。しばらくして意を決した彼は兵士達がいる後ろを振り向き、言います。「ここを超えれば、人間世界の悲惨。越えなければ我が破滅。。」 そして、迷いを振り切るように大声で叫びます。「進もう。神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ、賽(さい)は投げられた!」 ルビコン川を進むカエサル一団。。。遂にローマは、カエサルとポンペイウス率いる元老院派との統治システムを賭けた内戦に突入することになるのです。