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俳コレ

2022.10.01 13:21

https://weekly-haiku.blogspot.com/2011/12/blog-post_3578.html 【週刊俳句編・新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ 】より

さる12月10日、週刊俳句編による新アンソロジー『俳コレ』(邑書林)が刊行されました。

はしがき「はじめに」をここに掲載し、ごあいさつに替えたいと思います。

 はじめに

●本書は、十九歳から七十七歳(刊行時)の、比較的新しい作家の作品を集めた俳句アンソロジーです。

●入集作家の選定は「週刊俳句」編集部がおこないました。総合誌、年鑑等からピックアップした数十人におよぶ作家の作品を、結社誌等に当たって検討し「この人の作品をまとまった形で読みたい」と思われた作家に、入集を依頼しました。

●掲載作品百句は、各作家自撰による二百句から七百句を元に、編集部より依頼した撰者が選出したものです。

作品を他撰とした理由は「その方が面白くなりそうだったから」ということに尽きます。信頼できる作家による他撰によって、最も作品本位・読者本位の価値基準による選考が実現されることを、編集部は企図しました。その委嘱にお応えいただいた各撰者には、あらためて敬意と感謝を捧げます。

●一般に、辞書、全集、選集などの前書は、編者からの挨拶であると同時に、その刊行が公的意義を持つこと、編纂が公的意志を代行する形で行われたことを、慎ましく(あるいは勇ましく)述べる場であるようです。その例に倣うなら、ここで、俳句の豊穣あるいは危機について語るのがふさわしいのかもしれない。

自己紹介から始めましょう。「週刊俳句」は、二〇〇七年創刊のウェブマガジンです。インターネットで、俳句について書いていた人間が集まって「週刊俳句」は始まりました。幸運にも、多くのボランティア的な協力と予想以上の読者の参加によって、活動は継続しています。私たちに存在理由があるとすれば、それは、他のすべてのメディアと同じように、人々の欲求を代行する代理人であることに、求められるでしょう。

「週刊俳句」の場合、その欲求は、同時代の俳句に対する欲求です。俳句はどこまでも多面的であっていいし、もっと紹介されていい作家や、もっとふさわしい価値基準があるはずだ。それは、私たちが俳壇ヒエラルキーを離れ、読む側の立場から活動するうちに発見した欲求です。

●本書が、同時代の俳句の多面性を示すアンソロジーとなること。同時代の読者の潜在的欲求の中心に応える一書となること。それが、編集部として、自ら本書に課した主題です。

●書名『俳コレ』は「俳句コレクション」または「俳句のこれから」の略であり、「はい、これ」と手渡す俳句である、との意を込めました。

同時代の俳句の魅力を伝えることは、俳句というジャンル自体の欲求を代行することかもしれません。本撰集が、まさに俳句に待ち望まれた一書であることを、私たちは、願いかつ確信しています。

「週刊俳句」編集部 上田信治 (以下略)


http://petalismos.net/tanka/kanran/kanran92.html 【第92回 『俳コレ』】より

初雪やリボン逃げ出すかたちして

            野口る理

 今回は短歌ではなく俳句の世界に遊びたい。週間俳句編の『俳コレ』(邑書林)が滅法おもしろい。昨年(2011年)12月23日に初版が出て、8日後の大晦日にもう再版されているので、きっとよく売れたのだろう。中身の充実ぶりを見ればそれもうなずける。

 俳句甲子園組の活躍もあって、俳句の世界がやたら元気だ。2009年12月には21世紀にデビューしたU-40世代の俳句を集めた『新撰21』(邑書林)が、翌年の2010年12月にはU-50世代の『超新撰21』(邑書林)が上梓され話題を集めた。『新撰21』と『超新撰21』は自撰100句に小論を付すという同形式で、巻末に編者による座談会が配されている。一方、『俳コレ』はいささか趣向がちがう。ウェブマガジン『週間俳句』編集部が入集作家を選定し、依頼を受けた撰者が100句を選んでいる。つまり自撰ではなく他撰なのである。小論も撰者が書いている。

 短歌や俳句などの短詩型文学の大きな特徴は撰があることだと、私はかねてより考えている。「撰ぶ」ということは「捨てる」ということを意味する。

 同じ撰でも自撰と他撰とでは意味合いが異なる。自撰は当然、作り手である自分がよいと思ったものを撰ぶのだから、撰は創作行為の最終段階である。しかし他撰はちがう。他人が作者とは異なる眼と美意識に基づいて撰ぶのだから、作者がよいと思った作品が選ばれなかったり、その逆も当然起こりうる。これは創作行為の最終段階を他人に委ねるというとである。最後まで自分で作らず、「最後はアナタにお願いネ」ということだ。

 芸術を作者の個性の発露と見なす芸術観から見れば、これは許し難い行為である。最初から最後まで一貫して自分で製作するからこその個性だからだ。他人の手が介入すれば、もうそれは純粋な一人の個性ではない。

 しかし、芸術をしばしば特異な天才である作家の個性の発露と見なす芸術観は、19世紀中葉に欧州で台頭したロマン主義が考案したもので、たかだか150年足らずの歴史を持つにすぎない。その閉塞感が20世紀になって強く感じられるようになり、ジョン・ケージの偶然性の音楽や、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングが発明されたことは人の知るところである。

   日本の短詩型文学である和歌や俳句はもともと芸術を作者の個性の発露と見なす芸術観とは無縁だったが、短歌は明治の革新運動によってその毒を一身に浴びてしまった。その後遺症は今も続いている。ところが俳句はいささか事情がちがう。その形式のあまりの狭小さゆえ、ロマン主義的個性を入れ込む余地がなかったためだろう。

 それと比例するように撰の持つ比重も異なっており、短歌より俳句のほうが撰を重視する。おそらく俳句は多く作って多く捨てるからだろう。『俳コレ』が他撰による100句を集めていることには、上に述べたような意味合いから見てとりわけおもしろいのである。

 前置きはこれくらいにして収録された句を見よう。

 野口る理は1986年生まれで、所属なし。プラトンについての修士論文を書いている(あるいはもう書いた)哲学専攻の大学院生らしい。撰は関悦史。

襟巻きとなりて獣のまた集ふ

出航のやうに雪折匂ひけり

アネモネや動物病院あれば街

茶筒の絵合はせてをりぬ夏休み

秋立つやジンジャーエールに透ける肘

 全体として若々しく世界に対する好奇心に溢れた句が並ぶ。特に最後の句などユーミンの歌詞の一節のようだ。四句目のように、することがなくても無聊をかこつことなく、何かに楽しみを見つけているような感じがよい。掲出句の「初雪やリボン逃げ出すかたちして」も詩情溢れる句だが、二句目は座談会で高柳克弘が特に好きだと述べた句。「雪折」は雪の重みに絶えかねて折れた枝のことで冬の季語。清新という語がこれほどふさわしい句もない。

 福田若之わかゆきは1991年生まれで、現在大学生で所属なし。次の小野あらたもそうだが開成高校出身である。開成高校と言えば東京の御三家のひとつに数えられる進学校だが、俳句甲子園の優勝常連校でもある。最近『俳句のための文語文法入門』という本を出した国語教師の佐藤郁良の薫陶の賜物だろう。撰は佐藤文香。

鶴ひくに一縷の銀も残さゞる

朧夜やどれだけ磨いても遺品

歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて

僕のほか腐るものなく西日の部屋

白鳥を三人称の距離に置く

 今回読んだ『俳コレ』前半の10人のうち私が最も注目した作者である。最初の二句を含む「あをにもそまず」は高校時代の作だという。俳句甲子園でこんな句を出されたら他の高校はたまらない。「鶴ひく」は暖かくなって鶴が北国へ帰ることで春の季語。しかし福田はこの完成度を捨てて、新たな方向に舵を切ったようだ。三句目以下は新傾向の句。従来の俳句的世界に安住せず、世界に対して知的な処理を加えている。座談会で池田澄子が「危うさが素晴らしい」と発言しているのは、そのあたりの変化を捉えたものと思われる。今後に期待される逸材と見た。

 小野あらたは1993年生まれで「銀化」所属。石田波郷俳句大会新人賞を受賞している。撰は山口優夢。

薄紙にキャラメル匂ふ花の昼

タンカーの積荷を昇る蝶白し

栗飯の隙間の影の深さかな

秋の暮カレーに膜の張りにけり

返り花新体操の濃き化粧

   小論で山口が「即物的トリビアリズム」と評しているのが的を射ている。栗飯のご飯と栗の隙間とか、カレーの表面に張った膜のように、日常のどうでもよいような細かい情景に虫眼鏡を当てるような作風である。そしてそこに投影されている主観的心情というものがない。ただ細部の描写があるだけである。

 小野の俳句を読んでいると、短歌と俳句とではおもしろがるポイントがちがうようだという感を深くする。もし短歌で「栗飯の隙間の影の深さかな」と情景描写が上句に来れば、下句では「問と答の合わせ鏡」(永田和宏)のように、その描写によって喚起される主観的心情が述べられることが多い。たとえば「行春の銀座の雨に来て佇てり韃靼人セミヨーンのごときおもひぞ」という宮柊二の歌を見れば、〈情景描写〉- 〈心情〉という構図は明らかである。下句がないと短歌にならない。この構図の上に短歌的喩が成立するのであり、たとえ一首全部が情景描写であっても、背後にはその描写が送り返す作者の心情という余剰的意味が揺曳すると読むのが短歌の約束事である。  しかし小野の句を見てもわかるように、俳句においては情景描写は単に描写であるにすぎず、いかなる心情の喩でもない。俳句ではいかに鋭利な刃物で現実を鋭く切り取るかが問われるのであり、着眼点のよさ(「そういうことってあるある」)と切り取り角度の鋭さ(「うまいっ」と膝をポン)が評価のポイントとなる。小野の「薄紙にキャラメル匂ふ花の昼」の句などを見ると、この作者にはミクロン単位の薄さとミリグラム単位の重さを素手で感じ取る異能が備わっているようにすら見える。おもしろい。

 松本てふこは1981年生まれで、「童子」同人。ボーイズラブ系のコミックを出す出版社に勤務しているらしい。撰は筑紫磐井。おそらく集中で撰の効果が最も発揮されているのは松本だろう。撰者の筑紫は「童子」ならばおそらく採らない句ばかり選んだと明言しているからである。

田楽に我等一緒に棲まむかと

下の毛を剃られしづかや聖夜の子

読初の頁おほかた喘ぎ声

飽食の時代の鴨として浮ける

永き日の汝が脇息になりたしよ

 小野の句の次に松本の句を見ると、俳句というジャンルの振れ幅の大きさに驚く。集中で最も感情のこもる作風で、放恣に流れる一歩手前。「会社やめたしやめたしやめたし落花飛花」というハチャメチャな句まである。一句目や五句目のように男女のことを詠むことが多いのも特徴だ。二句目は盲腸か何かの手術の前の病院だろうが、このように風雅に遠いアイテムも多い。四句目など藤原龍一郎が作りそうだ。筑紫が91句を選び、松本に9句は自分で撰ぶようにと言ったら、松本は「春寒く陰部つるんとして裸像」のような句を撰んでいるので、作者と撰者の阿吽の呼吸による確信犯かと思われる。

 矢口晃こうは1980年生まれで、「鷹俳句会」を経て「銀化」所属。撰は相子智恵。

腥き人間として泳ぎたる

脱捨しセーターわれを嗤ひをり

自殺せずポインセチアに水欠かさず

あと二回転職をして蝌蚪になる

夢の無き時代の栗を拾ひけり

 矢口のテーマはワーキングプアの生き難い時代の現実である。これもまた今の俳句の多様性を表しているのだろう。「電話なりゐたりグッピー死にゐたり」のように電話がアイテムとしてよく登場するのも、他者との繋がりへの希求かと思うと切ない。一方、「台風や隣りて家の灯り合ふ」のように暖かみのある句もある。

 南十二国みなみ じゅうにこくは1980年生まれで「鷹」同人。撰は神野紗希。

青空のうへはまつ暗揚雲雀

鏡みな現在映す日の盛

人類を地球はゆるし鰯雲

ロボットも博士を愛し春の草

遺跡ふと未来に似たり南風

 特異な作風で、宇宙的視点とジュブナイルSFを思わせる俳句である。一句目の「青空のうへはまつ暗」というのは、地球の成層圏を突き抜けて宇宙空間に出たときのことを言うのだろうが、もちろん雲雀はそこまで上昇することはないので俳句的想像である。鏡が現在を映すとか、遺跡が未来に似ているというのも、はっとさせるユニークな視点と言えよう。大柄で伸びやかな句風である。

 林雅樹は1980年生まれで「澤」同人。撰は上田信治。

春の風フジタツグハル髪がヘン

万緑や僕はキリスト君はシャカ

我を打つ女教師若し喉に汗

枯野にて曾良が芭蕉を羽交締め

ぶらんこに背広の人や漕ぎはじむ

 これはまたユニークな俳句だ。一句目のフジタツグハルは画家の藤田嗣治で、おかっぱ頭がトレードマーク。二句目の元ネタは中村光のコミック「聖セイント☆おにいさん」、四句目は増田こうすけの「ギャグマンガ日和」だから、コミックやサブカルを躊躇なく俳句に取り入れている。小論の上田によれば、林の俳句は顰蹙俳句と呼ばれているそうで、あえて「皮を剥いたカエル」とか「内臓の出たゴキブリ」を持って来て「お芸術」になりがちな俳句に反・芸術をぶつける作風だそうである。短歌における森本平のようなポジションか。こういう道を取る人はしんどいだろうなと思うが、どの道を行くかは人の好きずきである。読む人は奇想と諧謔を楽しめばよい。五句目は名句だと思う。「漕ぎはじむ」が効果的。

 太田うさぎは1963年生まれで「雷魚」「豆の木」「蒐」同人。撰は菊田一平。

西日いまもつとも受けてホッチキス

水遊び足の間を葉の流れ

酢洗ひの鰺も谷中の薄暑かな

都鳥よろづのみづにふれてきし

ふたしかなものに毛布の裏表

 伸びやかで姿のよい句を作る人である。引いたうちで最も俳句的なのは三句目だろう。ちなみに「酢洗い」とは、酢でしめる前に食材を酢で洗って水っぽさを抜くこと。「鰺も」の助詞「も」がいかにも俳句的で上手い。ひんやりした厨の空気まで感じられるようだ。「歪ませて過去はうるはし雛あられ」のように、少し知的に捻った句もある。

 山田露結ろけつは1967年生まれ。「銀化」同人。撰は山田耕司。

レジスター開きて遠き雪崩かな

閂に蝶の湿りのありにけり

用もなく人に生まれて春の風邪

対岸は花火の裏を見てゐたる

給油所をひとつ置きたる枯野かな

 一句目は俳句お得意の二物衝撃で、この言葉の飛躍が俳句の生理である。林雅樹の小論を書いた上田信治は、「俳句は、その出自より、挨拶性と芸術性、水平志向と垂直志向の二つの力の相克によって、思わぬ回転が加わり明後日を指して飛ぶという特質を持つ」と書いている。俳句のユニークなところは、明後日を指して飛んでしまっても、「いやぁ、えらいところまで飛びましたなあ」という態度で、そこに面白味を見ようとする点にある。そこが短歌と異なる。二句目は特に好きな句。五句目も枯野という俳句的素材に給油所を置くところがおもしろい。現代の新しい風雅か。

 雪我狂流ゆきがふるは1948年生まれ。俳号も変わっているが、作風もそれに劣らずユニークで集中随一と言ってよい。撰は鴇田智哉。

もつともだ薄荷の花が白いのは

あーと言ふあ~と答へる扇風機

昼寝にはじやまな天使の羽根であり

回りてはゆつくり沈む冬の螺子

穴と穴合へば一味や去年今年

 天然というか自在というか、あたりまえのことをそのまま詠んでおもしろいという作風である。二句目「あー」は扇風機の前での発声で、「あ~」は羽根の回転による音の変化を表す。子供がよくやる遊びで、それを大の大人がやっているところが俳句的と言えば言える。五句目は蕎麦屋の一味唐辛子入れの容器で、蓋と容器の穴が合って初めて中身が出るという様子。どの句を読んでも実に楽しく、俳句の世界は広いなあと痛感する。短歌ではこれほど楽しい歌ばかり並んでいることはめったにない。少し眉間に皺の寄る真面目な文芸になりすぎたためか。

 齋藤朝比古は1965年生まれで「炎環」同人。撰は小野裕三。

うすらひの水となるまで濡れてをり

缶切に使はぬ尖り夜の秋

ところてん敗れしごとく押しださる

羽根閉ぢて天道虫のひと粒に

裂ける音すこし混じりて西瓜切る

 座談会で編集部が「俳句の国に暮らしている人なんです」と言い、それを受けて上田が「メランコリックな味わいがあるのは、その俳句の国がすでに失われたものだという感じがあるからだ」と述べているのがおもしろい。たしかにどこかうっすらとした悲しみの漂う句風である。たとえば二句目、缶切りにはいろいろな形の刃が付いていることがあるが、たいていはいちばん大きな刃しか使わない。残りの刃は一度も使われないままになる。そこを突いた句で、冷静に観察する眼に確かにうっすら悲しみがある。そう思うと残りの句にも似たような印象が出てくる。日常の細かいことにいとおしさを見ていると思われる。

 とまあこのように現代俳句は実に多様な展開を見せていて楽しいのだが、もうすでに長くなったので後半は次回に回したい。