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木葉髪 馬鹿は死ななきゃ 直らねえ

2022.10.04 07:57

http://oshblog.blog.fc2.com/blog-entry-1621.html 【木葉髪 馬鹿は死ななきゃ 直らねえ】より

僕、九州出身と謂う事もあり、スキー等のウインター・スポーツには余りご縁が無く、従って冬季五輪は殆ど見てないんですが、カーリング日本女子代表の皆さん、とっても楽しそうですよね~。ピンチの局面でも、常に笑顔が絶えませんで、此れが好成績に繋がっている気がするのですけれど、試合の休憩中、おやつをつまんでるでしょ。あれ、何とも謂えず美味しそうですよね。バナナだったり林檎だったり、確かにカーリングって、試合時間が3時間近く掛かりますし、頭脳も体力も酷使し、おまけに氷上で寒いでしょうから、糖分を取らないと持たないんでしょうね。素人考えですと、縁起を担いでカツ丼はと思うのですけれど、其れじゃあ胃が重くなって逆効果かも。でね、僕、思い出しますのが、将棋の対局でして、長い物になりますと2日制、持ち時間は夫々9時間ですから、食べないと持たないんですよね。将棋界で最もグルマン、大食漢と謂えば、現在大人気のひふみん、加藤九段でしょう。加藤先生、僕、実物を拝見した事がありますけれど、丸々とされてまして、凄い迫力でした。だって、対局中、朝はハンバーグに納豆に豆腐に丼飯、昼は特上鰻重、夜はカキフライ定食にチキンカツ定食をダブルで、そしておやつはカルピス1本に板チョコ10枚でしょ。此れまた将棋界のレジェンド、米長名人と加藤先生がタイトル戦を戦った際、両雄共に負けず嫌いですからね。加藤先生は上記の様に食べまくるんですが、米長先生も負けじと、昼はベリーレアのステーキに盛り沢山のサラダに大量のパン、おやつは蜜柑を30個、夕食は鍋焼きうどんとお握り10個、何だか将棋の勝負と謂うよりも、大食い選手権の有り様で、僕、吹き出しましたもの。深夜に及ぶ大熱戦は、加藤先生の勝利に終わりましたけれど、お2人とも其れだけ食べて、対局前と体重は変わらなかったそうで、盤の前に座ってずうっと考えているだけなのに、カロリーの消費量って凄いんですねえ…。

ホント、世の政治家連中も、物事を其れ位考えて欲しいと痛感するのですけれど、皆様、西宮市市長の辞職のニュース、ご覧になりました!?今村岳司なる市長、僕、初めて見たのですけれど、オールバックにピアスに無精髭、かっては茶髪だった由でして、そりゃまあ、ご本人の自由ですが、何度も何度も問題発言を繰り返していたそうでした。挙句の果てには、今年の新年早々、読売新聞の記者に、「殺すぞ」「落とし前つけろ」「このくそガキ」と暴言を連発、其れが問題となり、昨日辞職したそうです。まるでヤンキーかチーマーの様でした。此のヒト、京都大学を出て、1部上場企業のリクルートに勤め、現在45歳ですよ。本当に情けないですし、チャイルディッシュと申しますか、未熟ですよねえ。

アベ総理も酷いものでして、朝日新聞を執拗に攻撃しているんですね。政治評論家の森田実先生のコメントを其のまま掲載しますと、「50年間、半世紀に渡り、政界を見ているが、特定の新聞社を批判し続けた首相はいなかった。田中角栄総理を筆頭に、報道で批判されるのは当たり前だ、そう語っていました。」ですって。国会答弁も場当たり的、刹那的で下品な野次を飛ばすし、仲間しか信用せず、大嘘ばかりでしょ。つい此の前も、裁量労働制について、謝罪してましたもんね。「存在の耐えられない軽さ」と謂う名画がかってありまして、名優ダニエル・デル・ルイスが希代のプレイボーイに扮し、女性達を騙す映画でしたけれど、アベなんて、其れ以下でありましょう。今朝の経済誌に、大分のご出身で、銀座のトップのママさんになった、白坂亜紀さんと謂う方のインタビューが出てまして、「モテる男性、伸びる男性」なる内容でしたが、某総理とは大違いでした。決して威張らず謙虚、情熱的でありに気遣いに溢れ、分け隔て無くフランクに人と接し、お金の使い方が綺麗で、サービス精神があり裏表が無い男性、こういう人はモテる上に伸びるそうですよ~。世の殿方の皆さん、僕を含めて気を付けましょうね!?

ホント、小池にせよ橋下にせよ、成熟した政治家とはとても思えませんで、野党の面々にしても、前原も細野も「言うだけ番長」って仇名でしょ。あ~あ、情けないなァ。真の紳士淑女はもう居ないのかしらん。

閑話休題、昨日、俳人の金子兜太先生がお亡くなりになりました。享年98歳の大往生、謹んでご冥福をお祈り致します。あるほどの 菊投げ入れよ 棺の中、先生、安らかにお眠り下さい。金子先生の有名な句を少しご紹介しましょう。人体冷えて 東北白い 花盛り、去勢の猫と 去勢せぬ僧 春の日に、雪の海底 紅花積り 蟹となるや、おおかみに 蛍が一つ ついていた、二十のテレビに スタートダッシュの 黒人ばかり、暗黒や 関東平野に 火事一つ、木葉髪 馬鹿は死ななきゃ 直らねえ。如何でしょうか。斬新であり、ハッとする視点の鋭さがありますよね。其の金子先生は埼玉の産、父君はドクターでして、上海で育ったんですね。長じて俳句に親しみ、東京帝大を出て海軍中尉として任官、若くして200人の部下を率います。餓死者が続出する中、米軍の捕虜となり奇跡的に生還、帰国後は日本銀行に勤めるんですね。全国の支店を廻りながら実直に勤め上げ、退職後は俳句雑誌を主催、大学教授、俳句協会会長を歴任しながら、多くの俳人を育て上げました。様々な経験を積んだからこそ、先の素晴らしい句が生まれたと思います。でね、金子先生、大変な達筆でして、書家としても評価が高いんですが、3年前、墨痕鮮やかに雄渾な筆致で、「アベ政治を許さない」と揮毫したのは記憶に新しい処です。当時、先生は御年95歳でして、其のご年齢で此の反骨心、永遠に青春を生きている感がありますよねえ。いやはや何とも、脱帽であります。僕、某総理よりも断然、金子先生の方が人として信用出来ます!

水枕 ガバリと寒い 海がある、葡萄あまし しづかに友の 死をいかる、絶壁に 寒き男女の 顔ならぶ、春のホテル 夜間飛行に 唇離る、寒燈の 一つ一つよ 国破れ、おそるべき 君等の乳房 夏来たる、われら滅びつつあり 雪は天に満つ、広島の 夜陰死にたる 松立てり、此れまた強烈な句ですけれど、此の作者は西東三鬼先生でして、先の金子先生の盟友であります。西東先生は、大変優秀な歯科医でして、何とシンガポールで歯科医院を開業、ところが日本が開戦した為、帰国を余儀無くされます。帰国後、俳人として大活躍するんですが、其の自由かつ反戦的な作風が国から嫌悪されたんですね。冤罪で逮捕されてしまうのでした。ところが、決して筆を折る事無く、戦後になって見事な復活を遂げ、俳壇のトップランナーとして、金子先生と共に一大ムーブメントを巻き起こすのでした。

僕、つくづく思うのですけれど、金子・西東両先生の様に、どんな苦労や弾圧を受けようとも、本物は必ず世に残るんですよね。未だに両先生の句は、現代俳句の金字塔でありましょう。だって、今年になって西東先生の再評価の機運が非常に高まりまして、此の前、角川ソフィア文庫から、「西東三鬼全句集」が再発売されましたもんね。今の日本は、悪政と圧政に覆われてますけれど、風車 風が吹くまで 昼寝哉、善政を敷く良心的な政治家が、颯爽と登場する、僕、そう信じています!


https://www.bookclubkai.jp/portfolio/people49/ 【ピョートル・デミアノヴィッチ・ウスペンスキー】より

ロシアの神秘思想家。グルジェフと運命的に出会い、

弟子として類い稀な才能を発揮したが、気質の違いから別離。

『新しい宇宙像』『奇蹟を求めて』などの著書がある。

 カリスマ的な存在の力を発揮する師と優秀な弟子。その構図は圧倒的な喜びと、多くの苦悩をもたらす。神秘家グルジェフと弟子ウスペンスキーの関係も、その例に漏れない。

 1878年、モスクワでウスペンスキーは生まれた。役人であり数学者でもある父と、画家の母の自由な家風のもと、彼は幼い頃から本に親しみ、知的好奇心を育んでいった。13歳の時には心理学に興味を持ち、16歳でニーチェを見いだし、18歳で自分でも執筆を始めた。同時に生物学、数学にも熱中したが、あらゆる形のアカデミズムを嫌悪し、試験を受けることや学位を取ることを決して行わないと決意していた。

 27歳の時、ジャーナリストの職に就く。当時、ウスペンスキーがよく使っていた言葉は、「聖職者たちが宗教を殺しているのと同じように、教授たちは科学を殺している」というものだった。彼にとって、すべてが袋小路の中にあるように見えた。ロシア、東洋、ヨーロッパを旅し、1907年、29歳の時、神智学と出会う。秘教という概念は彼に新しい扉を開いたが、神智学協会にもまた弱点があるように見えた。

 彼は、独自の思想体系を築き、『第四次元』『タロットのシンボリズム』、そして代表作である『ターシャム・オルガヌム』など、立て続けに4冊の著作を発表して、講演活動を行い、多くの聴衆を集めた。

 1915年、37歳の時、グルジェフと運命的な出会いを果たす。グルジェフの存在はウスペンスキーに強烈な印象を与えた。そして、自分がそれまでに知っていたあらゆる知識を超える、まったく新しい思想体系に出会ったということを認めた。その時から興奮と喜びに満ちた日々が始まる。そして彼が招集した小さなグループで、グルジェフは講義を行うようになった。

 当時、ロシアでは革命の嵐が吹き荒れていた。ウスペンスキーも一時兵役に就き、トルコで難民生活を送ったが、グルジェフとの厚い信頼関係は揺るがなかった。グループはグルジェフの故郷であるコーカサス地方でワークに集中した。

 1918年、ウスペンスキーが40歳の時、グルジェフが突如グループの解散を言い渡した。その意図を理解できなかったウスペンスキーは、グルジェフと「システム」を分離する必要があるとさえ感じた。高度な知識体系を求める彼にとって、グルジェフの理不尽さは受け入れがたかった。結局、彼はグルジェフの元を離れ、独自の活動を始めることになる。

 1921年、42歳の時、イギリスに亡命し、ロンドンで講演や執筆活動を続ける。グルジェフに対する想いは複雑で、フランスのフォンテーヌブローに居を移したグルジェフの元を何度も訪れ、手助けもしたが、グルジェフの行動は不可解さを増すばかりだった。そしてウスペンスキーは失意のうちに、ついにグルジェフとの別離を決意した。1931年、52歳の時、『新しい宇宙像』を出版、次第に自身の生徒も増え、ロンドンの郊外に数百人を収容できる施設を購入し、そこで「歴史心理学協会」を立ち上げた。1940年からはニューヨークでもワークの指導を行い、多くの著名人が彼の元を訪れた。

 1947年、69歳の時、イギリスに帰国。肝臓病の治療を拒んでいたウスペンスキーは、戦士のように死と向き合い、その生涯を終えた。グルジェフとの出会いとその思想を描いた『奇蹟を求めて』は、彼の死後に出版された。グルジェフはこの著作について、「決して読んではならない」と弟子達に告げている。なぜなら真の理解を妨げるから、と。

 ウスペンスキーは、グルジェフの弟子の中でも、最も優れた理解力を持っていた。しかし、その真っ当さは、固定化された秩序を作る罠にもなる。類い希な優秀さ、それこそがウスペンスキーが背負った宿命だったのかもしれない。