般若寺(いっこう寺社解説7)
般若寺は聖武帝が平城京の鬼門鎮護の為、大般若経を塔に納めたことに由来するとされる。般若とは佛の智恵を意味するが、寺は飛鳥期(629年)高句麗僧・慧灌(えかん)が創建の学問寺と伝承するが遺構等詳らかでない。『平家物語』・『太平記』や吉川英治(1892~1962)描く『宮本武蔵』(昭和14年)などの歴史物語にも南都の入り口に所在する寺は度々登場し、この地は興正菩薩叡尊に始まる鎌倉復興期の西大寺系律宗の聖地の遺構を多く残す。
寺は治承4年の南都焼き討ちの後、文永4(1267)年再興し、本尊は康俊・康成作の重文文殊菩薩騎獅像で後醍醐帝の祈願佛にもなったと言う。表門の鎌倉期様式の国宝西廻楼門は屋根が美しい。鎌倉建立の重文十三重石塔(高さ14.2m)の軸石から発見された銅造阿弥陀如来立像(天平)や阿弥陀台座に納入胎内仏三尊(重文)の秘仏がある。兵火や地震、廃仏毀釈など悉く荒廃しながらも、中興の叡尊・良恵の戒律を守り、遁世僧集団の文殊供養(文殊師利般涅槃経)・授戒・非人救済弱者を救済するという教えの法灯を灯している。
現在は、先代住職を引き継ぎ工藤良任住職・顕任副住職(ボクシング選手)が丹精した35種15万本のコスモス(秋艸:花言葉調和)・山吹花寺として認知され、長崎の原爆瓦・広島原爆の火を灯す「平和の塔」やパワーストーン「カンマン石」でも有名。叡尊弟子高僧忍性が屏風に生まれて生誕800年、市民に再認識された事により「忍性菩薩利生塔」も建立された。
北山宿遺構の史跡北山十八間戸(川上町)は忍性が開いた癩病(ハンセン病)患者療養棟(見学は隣接食事処三角屋の南畑氏連絡)は、西大寺施薬院・四天王寺療病悲田院と共に我が国中世史上特筆される建物である。
【freelance鵤書林19 いっこう記】