秋篠寺(いっこう寺社解説10)
秋篠寺は、縁起では僧善珠を開基、光仁帝の御世(宝亀1〔770〕~12〔781〕年)の勅願によって建立とし、創建年が明確でないが、『続紀』宝亀11年封戸施入記事があり、この時期には完成していたと考えられる。金堂・講堂・中門・東西塔・南大門を備えた奈良朝最後の官寺である。平安期桓武帝の強い帰依の下、国家守護・玉体安穏を祈願する大元帥法が宮中で行われ深い関係をもって発展した様だ。
中世期、西大寺荘園絵図や文書に見られる土地を巡っての相論が繰り返す記事が確認される。僧常暁による「大元帥御修法御用香水閣の閼伽井清浄香水味甘露如は、やわらかい絹の様な香水である」と称える事や昭和39年本堂屋根裏から発見された修二会荘厳頭役が書き込まれた251枚の木札には14世紀第2四半~16世紀第1四半期には法会が行われていた事実など隆盛の一端を知る事ができる。伽藍は、保延1(1135)年の兵火で大半を失ったのだと言い、どの位の復興や盛衰の様子は詳らかでない。
講堂址に建つ現本堂は、鎌倉初期の再建ながら奈良様式を伝える和様建築で国宝指定。本堂に雑多に並んだ佛群の中で本尊は、薬師如来と十二の眷属であるが、我が国唯一芸能の佛としての信仰のある豊麗な伎芸天立像(重文)を堀辰雄(1904~1953・『大和路・信濃路』1943)が芸能を司る天女をギリシャ神話の知の女神ミューズに例えて称賛し有名になった(像は天平期乾漆頭部に鎌倉期の木造体部を補作)。また西に建つ大元堂に安置の高さ2mの忿怒像の大元帥明王立像は6/6のみ公開される秘仏中の秘仏。
樹木と苔に覆われた金堂址・臍受付柱座のある礎石が並ぶ塔址は美しい。宗旨は法相宗から中世には真言宗に転じ、明治期は浄土宗であったが現在は単立寺院として、堀内宣宏住職が法灯を守る。
【freelance鵤書林22 いっこう記】