唐招提寺(いっこう寺社解説12)
唐招提寺は天武帝皇子新田部親王旧邸を拝領して天平寶字3(759)年、寵聘を受け我が国に戒律(道徳規範・規則)を伝える為12年6度の渡航の末に753年来朝を果たした唐高僧鑑真(688~763)によって、戒律の根本道場(「唐律招堤・四方僧caturdesa」)として建立。明治期の真言宗を経て現在も日本律宗の総本山(授戒を行う戒壇は他に東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺に設けられた)。
昭和42年の講堂解体修理時下層から右京五条二坊九坪と十坪の坪界小路の親王時の門と道路面の上に講堂が建つ事が判明。奈良期の最大建物国宝金堂(間口7間・奥行4間堂・下2/3真直・1/3は上に向かって細い60本の柱・創建当初は二重基壇・屋根勾配は緩やか。781年頃高弟如寶ら建立)、平城宮東朝集殿を拝領入母屋構造に改造した国宝講堂(唯一の平城宮現存建物)、最古の校倉国宝経蔵・国宝宝蔵など創建の寺観を持ち、凛とする天平建物群が現存。
国宝舎利殿 (近世期は鼓楼。鑑真将来佛舎利三千粒が勅封された白瑠璃壷に収まり、亀形台多宝塔舎利容器に安置)・重文礼堂は鎌倉建築。平城上皇弘仁1(810)年発願五重塔は、落雷で享和2(1802)年に焼失。天平・貞観期の優れた仏像も多数国宝・重要文化財指定されている。
井上靖(1907~91)『天平の甍』1957の金堂本尊は国宝毘盧遮那坐像で脇侍に左・国宝薬師如来立像、右・国宝千手観音立像が当初の配置は不明ながら1230年お立ちになっている。毘盧遮那仏は864体の化物・千手観音は1,000の手の内953の脇手が現存。薬師如来はやや遅れる貞観佛である。梵天・帝釈天・四天王像も全て天平佛で国宝。奈良後期の講堂には、重文丈六の弥勒如来坐像(鎌倉)・重文持国天・増長天像(天平)が負わします。
平安後期には寺勢衰えるも、鎌倉期興福寺高僧解脱房貞慶上人、覚盛・証玄上人が見事再興した。移住して寛元2(1244)復興を始めた覚盛(1193~1249・貞慶孫弟子・寂後81年の元徳2〔1330〕後醍醐帝より「大悲菩薩」の追号)は、今も受け継ぐ梵網会が始まり中興の祖として中興堂にて崇められている。三面僧房東室南半を改造した礼堂での釈迦念佛会を始めたのは貞慶(1155~1213)であり、本尊は清涼寺式重文・釈迦如来立像(鎌倉)。
現在は、北川智豈*・森本孝順長老の意志を受け継いで88世西山明彦(にしやまみょうげん)長老が、平成12~21年の10年に及ぶ「金堂平成の大修理」を無事終え、重文御影堂曳家大修理・鑑真将来とする蓮を蓮池・130蓮鉢に栽培し境内を彩ると共に西ノ京ロータスロード参拝に取り組んでいる。
【freelance鵤書林24 いっこう記】