薬師寺(いっこう寺社解説13)
南都七大寺の一つ法相宗大本山である。天武帝が鸕野讃良(うののさららの)皇后 (後の持統天皇)病気平癒を天武9(680)年発願、皇后は平癒され帝が先に朱鳥1(686)年に亡くなられたが、継続して持統・文武帝によって飛鳥の地に「造薬師寺司」を以て造営された(橿原市城殿の特史元薬師寺跡・我が国初の双塔伽藍)。平城奠都に伴って養老2(718)年西ノ京の地に同名同配置して移され、同規模の大伽藍の壮麗を極めたが、度重なる戦乱・天災で唯一 白鳳様式の裳腰の取りつく6層構造の創建三重東塔(高さ33.6m・天平2〔730〕建立『七大寺日記』)を残して伽藍は烏有に帰した。
鎌倉期の復興を経て、康安1(1361)年の大地震以後寺勢衰え、享禄1(1528)年の越智氏と筒井順興の争乱に東塔・東院堂を残して金堂・西塔・中門・僧坊悉く焼失し、紅蓮は12日間続いたと『薬師寺縁起』に記す。八角堂や細殿があったとされる東院は養老(717~24)年間長屋王妃の吉備内親王が元明帝の為に創建とする。鎌倉復興の弘安8(1285)年に再建し創建以来のブロンズ本尊国宝聖観音菩薩立像(白鳳)・四天王像(鎌倉)がおわします(享保18〔1733〕年溜池築造に当たり西向きに替えたのが現在の桁行7間・梁行4間入母屋の堂)。創建伽藍も天禄4(971)年の食殿大火で、金堂と東西両塔を残して全て灰塵に期したが40余年を掛けて復興した時の唯一残った遺構が本堂のこの建物。
現在近鉄と民地になった西院は、舎人親王の本願造営にかかったという。現南門が永正9(1512)年建造西院の西門を慶安3(1650)年に移築したものである。會津八一の訪ねた頃は無住に近く、法隆寺僧(佐伯定胤管主)が兼務して管理していた頃だ。辛うじて江戸期復興の慶長5(1600)年上棟仮金堂と嘉永5(1852)年落慶の仮講堂が建ち金堂内には東方浄瑠璃浄土の教主医王如来である本尊国宝薬師三尊(白鳳・薬師如来左が日光・右が月光菩薩、国宝金銅製台座「宣字座」にはギリシャ伝来の葡萄唐草・ペルシャ伝来の蓮華文・インドの番人・中国の四神が判肉彫されている。)がおわしただけで土塀も崩れたままだった。大講堂は天禄4年焼失再建の後、享禄1年の焼失以来基壇を残していたが、幕末の仮講堂の建立の際基壇を縮小してしまった。現本尊は西院弥勒堂の白鳳様式を伝えた天平佛の金銅丈六重文三尊佛(金堂本尊より一回り大きい)を移したものだ。本来の大講堂は「最勝会」の場として阿弥陀大繍帳佛画が本尊であるので、三尊は尊名を「弥勒から阿弥陀」に改め移座した。そして明治以後「薬師に改め」、近年の保存修理を経て平成再建大講堂で「再び弥勒」に尊名を変更された経緯を持つ(中世末期唐招提寺講堂の本尊が交代した際の佛で、西ノ京「弥陀堂」を経て西院に迎えたとすることが、『七大寺巡礼私記』『諸寺縁起集』『多門院日記』の記載の検討・破損状況の一致から元の唐招提寺講堂本尊と指摘されている流転の佛)。
昭和43年より始まった高田好胤管長の「白鳳大伽藍復興」百万巻写経勧進は今年6月21日で半世紀を迎え、現在八百七〇万巻。金堂(昭和51年)・西塔(昭和56年)・講堂(平成15年)・中門(昭和59年)・僧坊(西:昭和51年・東:昭和55年)・食堂(平成27年)始め廻廊(平成3年)、玄奘三蔵院伽藍(平成3年)等々の「龍宮造り」伽藍復興が進む。享禄1年焼失以来礎石をむき出しでいた西塔は、東塔を写して軒を当初の姿に復元して再建を見た今、東塔が昭和27年の昭和修理を経て平成の解体大修理(平成22~32年・各層の連子窓は室町修理時に壁に改変されているが元にもどる事になるのか注目される。初層内陣には本来、法隆寺の様に塑像釈迦発相像が四面にあったが、正保年間〔1644~48〕に取り払われたらしい。)が実施中である。近年は大勢の若い僧侶が修行に励み、250鉢の蓮が境内を彩る佛国土の風景に出会えるなどの演出と好胤説法を受け継ぐ。
【freelance鵤書林25 いっこう記】