龍田神社(いっこう寺社解説20)
2018.03.04 07:46
龍(竜)田神社は、聖徳太子が宮寺造営の地を探している時に西山の椎坂(しいさか)において白髪翁(龍田明神)が現れ、斑鳩佛法興隆寺地をお告げになり、その鎮守として三郷町立野の龍田大社を勧請したとする神社。祀神は、東殿に天御柱命(あめのみはしらのみこと)・國御柱命(くにのみはしらのみこと)大神(龍田風神)、西殿に龍田比古・比売大神。神明鳥居に笠木がのる鳥居前は、今は会社の物陰乍ら高燈籠が聳えるように、旧龍田宿場町(龍田町場・且元城下旧町)の奈良街道と當麻道の衢に位置する。
社は、中世には法隆寺より別当坊三十口を給い「龍田三十講」、平群郡48郷の産土神神宮で、寛元1(1242)年西宮戎神を勧請(『別当次第』)し「龍田市」が繁栄した。境内西の末社「白龍・弁財天、祇園・粟島・廣田」の右端に「恵比寿社」が人知れず佇む。市を背景に社を拠点に活躍した坂戸座猿楽(丹後・五百井・服部村奉仕)が大和四座の一つ金剛流の源流となった事は忘れられていたが、高田良信長老などの働きかけによって近年石碑が建立された。また、明治期まで社務所と東隣が伝燈寺という神宮寺が存在した。永正4(1507)年絵図には、龍田社本殿東に三重塔も描かれている。灌頂堂(本堂・康正2(1456)年)は明治37年売却(五百円)され、京都日野・法界寺の重文薬師堂(間口五間・奥行四間)となっている。国宝絵画の傑作、化粧観音と異名を持つ絹本著色十一面観世音菩薩像(藤原、井上薫旧蔵・奈良国立博物館蔵)も明治期までここに伝えられたもの。整理公開されていないが「龍田御宮知家文書」は当社の社家に伝わった文書である。
【freelance鵤書林32 いっこう記】